第5話:不覚の傷と、烏の夜鳴き
夕暮れの「ダンジョン管理ギルド・関西本部」。
ロビーの華やかな喧騒の隅で、俺はボロボロに引き裂かれた服のまま、うつむいてベンチに座っていた。
右手は土蜘蛛の一撃を受け止めた衝撃で赤黒く腫れ上がり、ドクドクと脈打つように激しく痛む。
「……甘かった。甘すぎた」
ぽつりと漏れた声は、情けないほど震えていた。
訓練所で少しレベルが上がったからと調子に乗り、固有の不気味な妖気を持つ日本の『妖怪系』を相手に、不意打ち一つで勝てるなどと自惚れた。もしケイが命がけで敵の目を晦ませてくれなければ、俺は今頃、あの薄暗い洞窟の床で、身動きも取れずに蜘蛛の餌になっていただろう。
「次の方、買い取りカウンターへどうぞ」
呼ばれた声にハッとして立ち上がり、痛む身体を引きずりながら窓口へと向かう。
受付のトレイに、この3日間、朝から晩まで死に物狂いで訓練所の1階から3階を往復して集めた魔石をぶちまけた。ゴブリンやジャイアントラット、スライムから手に入れた魔石が、ジャラジャラと音を立ててトレイの上で小さな山をなす。
職員が機械で手際よく査定し、驚いたように目を見開いた。
「……ほう、Fランク区域の低級魔石が、全部で142個ですか。ソロで、しかもたった3日間でこれだけの数を間引いたのですか? かなりのハイペースですね」
職員は感心した様子で何度も俺と画面を往復して見ながら、端末を操作し、現金を数え始める。
「はい、買い取り価格は諸々のギルド手数料を差し引いて、合計で11万3600円になります。現金をこちらに。カードの戦績情報を更新いたしますね」
手渡された、厚みのある十万円分の札束。
普通に考えれば、15歳の少年が3日間で稼いだ額としては大金だ。周りの新人テイマーたちなら、仲間とハイタッチをして飛び上がって喜ぶだろう。
だが、俺の胸にあるのは、冷え切った虚しさだけだった。
これだけ命を削って、100匹以上のモンスターをハメ殺して手に入れた11万円。しかし、今日戦ったあの『土蜘蛛』のような化け物なら、たった1匹倒すだけで、これ以上の価値がある高純度の魔石を落とす。世界の上位にいるテイマーたちは、そんな次元の戦いを日常にしているのだ。
何より、粉々に砕かれてしまい、新しく買い直さなければならない強度の高い武器の代金を考えれば、この稼ぎなんて一瞬で吹き飛ぶ。プロのテイマーとして自立するということの本当の過酷さを、俺は身を以て思い知らされた。
「……ありがとうございました」
お札を財布に押し込み、俺は逃げるようにギルドのビルを後にした。
夜。実家の古びた自室のベッドに、俺は仰向けに倒れ込んでいた。
天井の木目をじっと見つめる俺の胸の上に、ケイがトコトコと歩いてきて、心配そうにつぶらな瞳で顔を覗き込んでくる。
「悪かったな、ケイ。せっかくお前が完璧な道を教えてくれたのに、俺が弱かったせいがすべてを台無しにした」
そっと左手でケイの柔らかな頭を撫る。ケイは小さく「きゅぅ」と切なげに鳴き、俺の手のひらに愛おしそうに頭を擦り付けてきた。
「……痛い目を見て、やっと目が覚めたよ。俺たちはテイマーの『王道』じゃ戦えないんだ」
俺は痛む右手を庇いながらノロノロと起き上がり、机の前に座ってノートを広げた。座学で培った知識を総動員し、今日の戦闘のすべてを書き出し、分析を始める。
「今日の敗因は明確だ。俺自身の物理的な攻撃力が、あの化け物の外骨格と妖気の防御力を完全に下回っていたこと。 お前が作ってくれた『不意打ちの1チャンス』を活かせるだけの、決定的な『一撃』が今の俺にはなかったことだ」
普通のテイマーなら、レベルが上がれば火球を放ったり、モンスターに強烈な噛みつきを命じたりできる。だが、俺たちのステータスは完全に偏っている。俺はただの人間で、ケイの属性は戦闘に適さない『星』だ。
「だけど……ケイ。お前のレベルが5になった時、スキルが【星の導き・フェイズ1】に進化して、隠し通路が見えるようになった。あの壁の向こう……生駒山の未踏エリアの奥に、お前の『導き』の終着点がある」
あそこには、一体何があるんだ?
国もギルドも知らない、完全な未踏の領域。そこに眠るのが、莫大な富を産む未発見の資源なのか、あるいは世界をひっくり返すような何か別のシステムなのかは分からない。
ただ、俺たちがこの理不尽なハズレ評価を覆し、世界に一太刀浴びせるための答えが、あの暗闇の奥にあることだけは確信できる。
「でも、今のまま突っ込んでも確実に犬死にだ。弱点が分かったとしても、そこに叩き込む俺の武器が普通の剣じゃ、また今日みたいに弾かれて折れる」
必要なのは、敵の防御力を完全に無視して、格上の命を強引に刈り取るような特殊な力。
あるいは、戦況を根底からひっくり返すほどの、強力な『使役モンスター』の存在。それらを揃えるまでは、あの縦穴に降りるわけにはいかない。
「……まずはFランクの枠の中で、もっと泥臭く、もっと確実にレベルを上げ、身体を鍛え上げる必要がある。二度と、あんな無様な敗走をしないためにな」
俺はノートに、明日からの過酷な育成計画を黒々と書き込んでいく。
「ケイ。明日から、もう一度訓練用ダンジョンだ。今度はレベル5のスペックをフルに使って、2階層と3階層のゴブリンやスライムどもを徹底的にハメ殺す。お前の索敵と、俺の奇襲を極限まで研ぎ澄ますぞ。ギルドの昇級試験を受けられるようになるまで、あそこのモンスターを絶滅させる勢いで狩り尽くす」
「カァッ!」
ケイが強く、激しく同意するように漆黒の羽を広げた。
格上の圧倒的な暴力に叩き潰された屈辱と、死の恐怖。それは俺の心を折るどころか、冷徹なまでの執念へと変わっていた。
持たざる者には、持たざる者なりの戦い方がある。
手に入れた11万円で、明日、もっと頑丈な武器を買う。そして、必ずあの深淵の奥へ、今度は牙を剥いて戻ってやる。
暗い部屋の中、俺と一羽の烏は、ノートに書き連ねられた戦術の光を見つめながら、静かに次の牙を研ぎ始めた。




