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#2 君、面白いね

『――はい、全て抜かりなく。手筈通りとのことです』


「本当かぁ?失敗は許されねンだぞ!?」


『は、はい!もちろんです!』


 限界まで後ろに倒した背もたれで偉そうにくつろぐ男が、耳をつんざくようなしゃがれ声で吠え散らかす。


「……で、当の双子ちゃんはどこ行ったわけ?連絡無ンだけど?」


『それが、『観光をする』と言ったっきり通信が途絶えてしまって――』


「あぁ!?ナメた仕事してンじゃねぇぞ!?」


 ガンッ!と目の前の計器を強く蹴る音がコックピットに響き渡る。


『す、すみません!明日には戻るとのことです!!』


 機嫌を損ねまいと、必死に声を震わせる部下の怯えっぷりが、男の理不尽さを物語っていた。


「チッ!当然だろ!テメェはバカか!?」


『ひぃ!す、すみま――』


 男はコンソールに投げ出していたかかとで、乱暴に画面を蹴りつけるようにして、一方的に通信を切断した。


「ったく、どいつもこいつも使えやしねぇ……が、そんな下らねぇ世界も明日で終いだ」


 先ほどまでのイラついた様子と打って変わって、男は歪んだ笑みを浮かべる。



   ◇



 いつもなら実家の工場こうばにいるはずの時間。まだ陽の高い海岸道路を、ツバサはされるがままに手を引かれ、港へと連れていかれていた。まばらな車通りの中、ツバサが口を開く。


「なぁ、コンビニくらい寄って行かね?」


「ダメ!急がないと場所取られちゃう!シレーヌの甲板が見えるベストポジション!」


 ソラは後ろに目もくれず、小走りで先を急ぐ。


「そっちが目的のヤツはいねーよ………おっ」



 道すがら、目の前に現れたコンビニにふと意識を奪われ、ツバサは立ち止まる。手を引いていたソラは、その思いがけない急停止によって腕をガクンと引かれ、バランスを崩しかけた。


「っ!ちょっと!急に止まらないでよ!もう本当に始まっちゃうから!」


「……」


 いつものことながら強引なソラに露骨に嫌そうな顔で対抗するツバサ。


 ここまでそりが合わずとも、互いに“別行動をする”という選択肢が浮かんでこないのは、逆にウマが合っているとも言えるのかもしれない。


「…わかったわかった!帰りに寄ろう!ね?それでいいでしょ?だから今は一刻も早くシレーヌを――ぁてっ」


 ツバサを置いてけぼりにする勢いで前を向き直り、駆け出そうとしたソラが、ドンッと誰かの胸にぶつかった。


「っと、すみません」


 さわやかな男の声。見上げると、そこには見慣れない意匠いしょうの刺繍が施された、どこか異国情緒を感じさせる衣服をまとったブロンドヘアの男と、その隣で退屈そうに周囲を眺める女が立っていた。


「あ、ごめんなさい!前見てなくて……」


「いや、こちらこそ……あの、今話してたのって、もしかして潜水艦のシレーヌのことですか?」


「え!?知ってるんですか!!」


 思いがけず男から出た言葉にソラの目の色が変わり、鼻先がぶつかりそうなほどの至近距離へ、一足飛びに踏み込んだ。


 そんなソラの剣幕に気圧され、男は両手を胸の前に挙げて思わず後ずさる。


「い、いや、僕はそんなに詳しくなくて……こっちの妹が好きでね……」


「え、そうなの!?」


 今度は、男の指す方向にいる女に向かって、飛びつくように一瞬で距離を詰める。


「え!?シレーヌ好きなの!?戦艦は!?ロボットは!?」


 獲物の首根っこに噛みつかんばかりの近さまで詰め寄られ、女は思わずのけぞり、露骨に顔をしかめかける。だが、目をキラキラと輝かせるソラの無邪気な圧に毒気を抜かれたのか、ふいっと視線を逸らして小さく呟いた。


「…………少し、だけ」


「ホントに!?」


 ソラは歓喜の声を上げ、今にもシレーヌの魅力を語り尽くしたい衝動に駆られる。しかし、ハッと本来の目的を思い出し、言葉を飲み込んだ。


「あっ、そうだ!今からちょうどシレーヌの着艦セレモニーが始まるんだけど、一緒に行こうよ!」


「え、君たちもかい?」


 眉をかすかに跳ね上げた男が会話に割り込む。


「実は僕らもそのセレモニーに向かっていたんだけど、すっかり道に迷っちゃって……誰か行き方の分かる人がいないか探してたんだ」


「それなら私たちが案内するよ!」


「それはありがたい。助かるよ」


「そうと決まれば急ごう!特等席が私たちを呼んでるよ!」


 言うが早いか、ソラは戸惑う女の手をガシッと掴むと、そのまま強引に引っ張って歩き出してしまった。


「……っ!……ちょっと」


「ほらほら、急ぐ急ぐ!」


 あっという間に遠ざかっていく二人の背中。


 その場にぽつんと取り残されたツバサと男の間に、なんとも言えない奇妙な沈黙が落ちる。


「……そういうことで、僕らも混ぜてもらっていいかな?」


 頭を搔きながら苦笑いを浮かべる男に対し、ツバサは「いつものことだ」とでも言いたげな、深い深いため息をつく。


「……勝手にどーぞ。あいつが言い出したら、俺には止めらんねーから」



   ◇



 杜ノ﨑(もりのさき)の港付近は、ハイルゼン軍の親善を名目とした式典の熱気に包まれていた。色とりどりの風船が飛び交い、出店が並ぶ通りを、ソラは先ほど出会った女の手を引きながら目を輝かせて小走りで進んでいく。


「ほら、もう着くよ!ねぇ!イスナ!」


「……言われなくてもそれくらい分かる」


 イスナとはソラが引っ張っている女の名であり、ソラは道中、嫌がるイスナ本人から強引に名前を聞き出していた。


 冷たくあしらいながらも引きずられるように付いていく少女の様子を、ツバサと男は見守るようにゆっくりと歩いていた。


「フフ、微笑ましいね」


「そうかぁ?」


「兄としては、妹の成長を見られるってのは結構嬉しかったりするよ。と言っても双子なんだけどね」


 少し恥ずかしそうに目を細める男だったが、兄妹という存在を持たないツバサにとって、その感慨は全くピンとこないものであった。


「そういえば自己紹介がまだだったよね?僕の名前はアイン。あっちは双子の妹のイスナだよ。よろしく」


 ニコリと笑って手を差し出すアインに、とりあえずの形式として、ポケットから手を出したツバサも、それにこたえて握手を交わした。


「あぁー……俺はツバサで、あいつはソラ。俺たちの方は双子でも兄妹でもない」


「アハハ、なんだいそれ。てことは、もしかしなくてもガールフレンド――」


「じゃないぞ」


 アインの言葉を食い気味に遮って否定するも、ツバサの表情は至って無関心――いつもの勘違いに対する、ただの条件反射といった様子だった。


「随分と仲が良さそうなのに意外だね。けど、安心したよ。もしかしたらデートの邪魔をしちゃったんじゃないかって少し気になってたから」


「過分なご配慮どーも」


 異国の青年と地元の学生という、外見も性格もイマイチ噛み合っているのか怪しい二人は、ソラとイスナの後ろをマイペースについて行く。



 会場に近づくにつれ、スピーカーから流れている甘く通りやすい声が響いてくる。


『――我がハイルゼンと日本の友好は、これ故に、より強固なものとなったのです』


 何かを取り囲むように人だかりができあがっており、そこから盛大な拍手や指笛が巻き起こっている。


 しかし、そんな群衆や喧騒はソラの世界にもはや存在しておらず、全てを無視して、警備のフェンスへ一目散に駆け寄った。港の水面に浮かぶのは、見えている船体上部だけでも周囲の陽気な空気を圧殺してしまいそうなほどの、重厚な黒鋼の塊。ソラはその暴力的な質量にフェンスへへばりつくようにして見入った。

 

「キ、キターッ!!」


 あまりの声の大きさにソラは周囲の人間に奇異の目で見られるが、本人には全く届いていない。


「ねぇ本物だよ本物!見てよイスナ!本物だって!!正真正銘『潜水揚陸艦シレーヌ』だよ!!」


「……っ!…………恥ずかしいから、話しかけないで」


 超ハイテンションのソラはフェンスにしがみつき、イスナとシレーヌを交互に見ながら弾丸のように話し始める。連れてこられたイスナは、ソラの想像以上の奇人っぷりに成す術がなくなり、せめてもの抵抗として他人の振りをし、目も合わせずその場に座り込んでいた。


 しかし、ソラのマシンガントークは止まらない。


「月並みになっちゃうけど、画面で見るよりやっぱり直だね!ほら、ハッチの接合部とか見てよ!画像じゃわからなかったけど、ガスケットとか蝶番ちょうつがい、あんな風になってたんだ!やっぱり機械は無骨な金属さがたまらない!それにあの喫水線きっすいせんあたりのフリーフラッドホール――」


 もはや一人で話し続けているソラを、ツバサとアインは遠巻きに見ていた。


「なんというか……情熱的な人なんだね」


「言葉選びに苦労するだろ?あいつは、まごうことなく“機械バカ”だ」


 ツバサが軽く肩をすくめると、アインはふとツバサの手元、そして油の染み付いた指先に視線を落とした。


「君は違うのかい?」


「え?」


「いや、何となくそんな気がしてね」


 アインは相変わらずの笑顔のままで、踏み込むようなことはしなかったが、ツバサは逆にそれがむずがゆくなる。


「……それなりに好きかもな。家が工場こうばってのもあるけど」


 少しばかり心の壁を取り払ってくれたようなツバサの態度に、アインは目を丸くした。そして、素直な嬉しさから更に質問を投げかける。


「家が工場ってなんだか面白そうだね。普段はどんなものを扱ってるんだい?」


「別にそんなに面白いもんでもねーぞ?客も全然来ねーし、ほとんど親父とソラがアルマのパーツいじってるだけだからな」


「!!……アルマ?」


 その瞬間、アインの空気がわずかに張り詰めた。


「おぉ、アルマ。知ってるだろ?」


「……あぁ、そりゃもちろん。もしかして、君たちはアルマに乗るのかい?」


「そうだな。何ならさっきも乗ってきたばっかりだ」


 ツバサは見てもいなかったが、この時アインの表情から緩やかな雰囲気は完全に消え失せていた。


 その碧い瞳の奥で、底知れない黒い感情が渦を巻いている。それがどこに向けられたものなのかすら分からない。ただ、得体のしれない『何か』がそこに顔を覗かせていた。


 スピーカーから流れる歓声や人々の喧騒が、この空間だけすっぽりと抜け落ちているような雰囲気。


「……君たちのような若い学生でさえ、ハイルゼンの兵士というわけか」


 その声にさっきまでの陽気さは無く、その眼差しははるか遠くの何かを睨みつけているようだった。


「は?兵士?いやいや」


 ツバサは少し目を見開き、間抜けな声を出して否定する。


「ただの部活だよ。競技用のアルマでスポーツやってるだけだ。俺は整備の延長で乗らされてるって話」


「……スポーツ?」


 目を丸くした後、ふっと肩の力が抜けるアイン。


「ん、知らねーの?“競技用アルマ”使ったただの遊びだ。だから別に兵士でもなんでもねーよ」


 ツバサの説明にアインは一瞬、面食らってしまう。


「……へぇ~、そういうのがあるんだ。僕らは田舎の方出身だから、全く知らなかったよ」


 アインは空を見上げ、どこか自嘲気味に、そしてひどく感傷的な声で呟く。


「学生が、アルマで遊べる世界……か」


「どうした?」


 アインの様子が少し気になり、若干の気遣いを見せるツバサ。


「いや……ただ、少し息苦しくないかと思ってね。あの巨大な国に首根っこを掴まれて、与えられた箱庭の中で平和を演じさせられているっていうのは」


 いきなり癖の強い言葉を遣うアインだったが、ツバサは気にも留めない。


「なんだそれ……そんなの、わざわざ考えたことねーな」


「フフ、それは君たちが幸せに暮らせている何よりの証拠だね」


 いつの間にか、アインは先ほどまでの和やかな雰囲気に戻っており、再び会話を楽しんでいる様子だった。


「けど、実際のところ……今の世界“ハイルゼンの一極支配”を、君はどう思う?」


「えぇ……」


「そんなに深く考えなくていいよ。純粋に興味があるだけさ」


 答えなければ引いてくれそうもないアインに負けて、ツバサは一瞬目を閉じた後にありのままを答えた。


「……別に。明日食う飯があって、機械をいじる工具があって、アイツ……周りのヤツが苦労してなきゃ、あとはどーでもいい、かなぁ?」


「え……」


 アインは先ほどよりも面食らってしまう。


「くくっ、ははは!あはは!」


 ツバサの空気の抜けたような回答にアインは出会ってから一番の笑顔を見せた。真面目に答えたツバサは、そんな様子に少し不満そうに顔をしかめる。


「……君、面白いね。いい思い出になったよ。ありがとう」


 アインは少し真剣な顔で再び握手を求めていた。


「そういう文化はこっちにはねーよ」


 笑われたことを気にしているのか、ツバサは目をそらし、手も出すことは無かった。


「そうかい?笑ったことは謝るよ。ただ、君は相当に好きみたいだね。機械も…彼女も♪」


「……んなことねーよ」


 楽しそうなアインとは反対に、ツバサはただ顔をフイと背けた。その横顔は、相変わらずの仏頂面で、遠くの方でバカみたいに騒いでいるソラの声を、冷めた目で見つめているだけだった。



「――おい、貴様!何をしている!!そこを離れろ!!」


 ツバサたちのもとへ、唐突な怒声が響いてくる。


 視線を向けると、フェンスに張り付いていたソラの胸ぐらを、ハイルゼン軍の兵士が乱暴に掴み上げていた。


「い、痛っ……ちょっと近づいただけじゃないですか!」


「口答えするな!お前たちのような属国の薄汚いネズミ共が、気安く我々の軍艦に近づくなど許されると――」


「おい」


 ツバサの低い声が、兵士の言葉を遮った。


 いつの間に歩み寄ったのか、ツバサは兵士の手首を無言で強く掴んでいる。その目は普段より、ほんの少しだけ眉根が寄せられていた。


「その手、離せよ。ただの学生だろ」


「なんだ貴様……抵抗する気か?」


 周囲の兵士たちも一斉に武器に手をかけ、空気が一触即発の緊張に包まれる。


「――何を荒立てる、そこまでだ」


 群衆が左右に割れ、豪奢な礼装用軍服に身を包んだ金髪の青年が現れた。ゆったりとした洗練された足取りは、周囲の視線を文字通り『従えて』いる。


 セレモニーで挨拶を務めていた、シレーヌの艦長・ハイルゼン第二王子その人であった。


「艦長殿下!」


 王子の声にツバサの力が緩むと、兵士はその手を雑に振り払った。そして即座に直立不動の姿勢をとると、青年へ敬礼を捧げた。


「我々は親善のためにここへ来たのだ。民を威圧して何になる?」


 王子は兵士をたしなめると、ソラに対してまるで絵画のように完璧な笑みを向けた。


「怪我はなかったかい?我が軍の者の軽挙、誠に申し訳ない。不愉快な思いをさせてしまったね。この場はどうか、私の顔に免じて収めてほしい」


 王子は胸に手を当て、形ばかりの、しかし完璧な礼をとった。


 周囲の群衆から、王子の寛大さを讃える歓声と拍手が巻き起こる。


「あ、はい……ありがとう、ございます……」


 ソラが戸惑いながら頭を下げたのを見て、ツバサも気持ち程度の会釈をする。すると、王子は満足げに頷き、踵を返した。


 周囲の兵士たちが王子の後に続く。言いがかりをつけてきた兵は最後にソラたちを睨むと、舌打ちをして去っていった。


 ソラも負けじと、べーっ!と舌を出して応戦し、ツバサに小突かれる。


 騒ぎが収まり、ようやく張り詰めていた空気が緩む。ふと、ツバサが辺りを見回すと、先ほどまで一緒にいたはずのアインとイスナの姿がどこにもいなかった。


「……?さっきの双子、どこ行った?」


「え!あれ!?イスナが居ない!」


 ツバサに言われてソラも二人を探すが、見つけることは叶わなかった。ソラは諦めきれず、また大きな声を出して二人を探そうとしたが、これ以上目立つことを避けたいツバサに口を手で塞がれ、そのまま人の少ないところまで運ばれる。


「んー!んー!……ぷぁっ!ちょっと何なのもう!」


「もう帰るぞ」


「えー!?なんで!!まだまだ見れてないとこ山ほどあるってば!!」


 やっと解放されたソラは、唇を尖らせて不満を露わにしながら、じっとツバサを睨みつけている。その姿はまるで、威嚇の声を上げながら背中の毛を逆立てている子猫のようだった。


「はぁ……まだそんなこと言ってんのかよ」


 ツバサは呆れすぎて、特大のため息を吐いて、目を伏せる。


「あのなぁ、さっきも王子が来たからたまたま助かっただけだぞ?これ以上はマズい。明日にしろ」


 セレモニーこそ当日限りであったが、シレーヌ自体はしばらく港に停泊する予定であり、今日を逃せば見られないというわけではない。それでもソラが今日という日に固執していたのは、ひとえに「最速で見に行きたい」という、ただそれだけの理由からだった。


「えー、でも今日のシレーヌは今日しか見れないんだよ?明日には明日のシレーヌになっちゃうわけだし、それに――うぐっ」


「いい加減にしろ」


 無茶苦茶な理由を並べるソラだったが、ふと、ツバサの低い視線に気づいて言葉を詰まらせる。その表情は珍しく『怒って』いた。それに気付かないほど、ソラも鈍くはない。


「わ、分かったから、そんなに怒んないでよ……」


「別に怒ってねーよ」


「怒ってるって!」


「うるさい、早く帰るぞー」


 ツバサは、ソラに背を向けると一人先に行ってしまった。


「もう、ごめんってー!」


 ソラの謝罪はツバサに届く前に、宙に虚しく消えていく。それに焦って、ソラは慌てて後ろを追いかける。



   ◇



 どこかも分からない薄暗い路地。街の灯りは届かず、何が起きても何も分からないような、そんな雰囲気。


 素行の悪そうな少年から筋骨隆々な大男まで、皆が糸の切れた人形のように動かなくなって地べたに転がっている。


「い、いやだ!やめてくれ!俺は先輩についてきただけなんだ!!信じてくれ!!」


 モヒカン刈りの悪相の男は、尻もちをついた状態で後ずさる。


 ――それでも、そいつは近づいてくる。


 後ずさる。


 また、近づく。


 ついに男は、壁に背を付き、後ずさる道がなくなる。


 背中に感じる、死体のように冷たいコンクリート。手に纏わりつく、仲間から零れ出た鮮やかな赤い血液。そして血走った眼前に突きつけられたのは、それらを凌駕するほど冷たく、碧い眼差し。


 眉間に鉄の筒を押し当てられ、男の呼吸は浅くなる。


 命乞いの言葉を紡ごうとした口が動くより早く――。


 くぐもった発砲音が二度、路地に吸い込まれる。そして、何事もなかったかのようにそいつは呟く。


「いや、参ったね。まさかこんな奴らに銃を見られるなんて。危うく騒ぎになるところだったよ」


「……時間の問題」


 室外機に腰かけていた少女がぼやいた。


「だね。僕らもそろそろ戻ろうか……っと、うわっ!」


 男がポケットからデバイスを取り出すと、そこには画面を埋め尽くすほどの不在着信が届いていた。男は悪びれた様子もなく、軽く連絡を掛けなおす。


「あっ、ハロ――」


『どこで何してんだこのっボケ兄妹!!』


 一瞬で繋がった通信相手から、開口一番怒鳴り声が聞こえてくる。


「ごめんごめん。少し観光してたんだ」


『あぁん!?観光だぁ!?テメェ気が緩んでンじゃあねぇかぁ!?』


 隣の女が思わず顔をしかめるほどの大声で詰められるが、男は涼しい顔で言葉を返す。


「ちょっとした思い出作りだよ。ほら、明日には失くなっちゃうでしょ?目に焼き付けておこうと思ってさ。それに――」


 男はふっと笑みを消し、声音から一切の温度を剥ぎ取った。


「気が緩んでたら戦争なんてできないだろ?」


 その冷たく鋭い声に、電話相手はほんの一瞬沈黙する。


『……フン、準備はできたんだろうな?』


「もちろん。失敗はないだろうね、少なくとも日本ここでは」


『ハッ、随分な自信じゃねぇの』


「そりゃそうだよ。僕らは強いからね、君よりも」


『ッ!テメェ!!やっぱりテメ――』


「すぐに戻るよ。じゃあね♪」


 相手を煽るように通信を切ると、男はご満悦の様子でデバイスをポケットにしまった。


「ハロルドは相変わらずうるさくてかなわないなぁ」


 退屈そうに待機していた妹の肩を軽く叩き、歩き出す。


「それじゃあ戻ろうか。行くよ、イスナ」


「…………遅い」


 二人の異邦人は、路地の暗闇に溶けて消えていく。

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