45 王太后回
王城北棟。かつて《泣き声の塔》と呼ばれていた場所は、今では静かな離宮として扱われていた。王太后セレフィナは窓辺で紅茶を飲みながら、遠くの王都を眺めていた。
先王が死んでから数ヶ月。王国はまだ揺れている。地方貴族は互いに牽制し合い、財務官僚たちは責任を押し付け合い、新王は疲弊していた。まだ王位を継いだばかりの若い王には、父ほどの威圧感も冷酷さもない。それでも彼は真面目に国を立て直そうとしている。
その姿を見ながら、セレフィナは静かに目を閉じた。
「……」
クラウディア。
あの亡霊の名を、最近よく思い出す。
奇妙な話だった。死んでいるのに国王を殺した女。いや、正確には剣を振ったのはアレンだ。だが、あの場で先王を壊したのは間違いなくクラウディアだった。
一方、自分はどうだったか。
生きていた。
王妃だった。
正統な妻だった。
なのに、先王を殺せなかった。
憎んでいたはずなのに。
友人を焼かれた。人生を塔へ閉じ込められた。それでも、自分は王を壊せなかった。
クラウディアは死んでなお王を狂わせたのに。
「……ふふっ」
セレフィナは小さく笑った。
若い頃の自分は美しかった。いや、今でも十分美しいと周囲は言う。銀髪。透き通る肌。気品ある顔立ち。王妃として何一つ不足はなかった。
家柄も同格だった。
教養も。
政治感覚も。
むしろ、クラウディアより王妃向きだったとすら言える。
だが。
王子だった頃の先王を狂わせたのは、自分ではなくクラウディアだった。
「……」
当時のことを思い出す。
舞踏会。
貴族たちの視線。
男たちのざわめき。
そして、クラウディア。
赤いドレスを着たあの女は、部屋へ入った瞬間に空気を変えた。美しいだけではない。危険だった。毒みたいだった。
彼女は平気で笑う。
人を傷つける。
空気を壊す。
欲望を隠さない。
残酷なのに、妙に生き生きしていた。
対して自分は。
正しかった。
淑女で。
穏やかで。
理性的で。
王妃に相応しかった。
つまり。
つまらなかった。
「……」
セレフィナは静かに紅茶を置く。
今ならわかる。
先王が狂った理由。
あの男は、本来かなり愚かだった。欲望が強く、幼稚で、虚栄心の塊だった。だから、クラウディアみたいな女に惹かれた。
あの女は「悪」だった。
だが、同時に「自由」だった。
王家の空気も、貴族社会の建前も、道徳も全部笑い飛ばしていた。
だから、王子は溺れた。
そして。
自分にはそれができなかった。
「……」
セレフィナは窓の外を見る。
夜風が静かに吹いていた。
もし、自分がクラウディアみたいな女だったら。
先王をもっと早く壊していたかもしれない。
もっと早く王国を乱していたかもしれない。
だが、自分は違った。
結局。
耐えた。
生き延びた。
飲み込んだ。
だから。
今ここにいる。
「……ふふっ」
セレフィナは少しだけ肩を震わせる。
おかしかった。
クラウディアは確かに勝った。死んでなお王を狂わせ、最後には地獄へ連れて行った。
だが。
最後に残ったのは自分だった。
王太后。
王国最高位の女。
新王の母。
生き残ったのは自分。
クラウディアではない。
「……」
セレフィナは静かに笑う。
皮肉だった。
クラウディアは炎みたいな女だった。眩しく、危険で、美しく、全部燃やして消えた。
一方、自分は灰みたいな女だった。地味で、静かで、耐えて、残った。
そして。
王国では結局、残った者が勝者になる。
「……ねぇ、クラウディア」
セレフィナは誰もいない夜へ呟く。
「貴女、本当に幸せだったのでしょうね」
返事はない。
だが。
少しだけ。
どこかで女の笑い声が聞こえた気がした。
それを聞きながら、王太后セレフィナは静かに嘲笑った。
なぜなら。
今、生きているのは自分だからだ。




