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第3回 崩れる確率の海



 空が、ちらついていた。


 青空のはずなのに、青空のまま決まらない。


 晴れか、曇りか、夕焼けか、夜か。学院の頭上だけ、空模様が迷子になったみたいに一秒ごとに切り替わる。白い雲が流れたと思ったら、次の瞬間には星が出て、さらに次には雷雲がのしかかり、また昼へ戻る。


 生徒たちは朝から大騒ぎだった。


「洗濯物どうすればいいのよ!」

「星が出てるのに日焼けした!」

「さっきから同じ鳥が三回焼き鳥になって戻ってる!」


 最後の報告はどうなんだ、とユウは思ったが、今の学院では大体なんでも起こりうるので突っ込む元気もなかった。


 中庭の噴水は上に流れるのをやめたが、今度は左右へ迷っていた。水が空中でぷるぷる震え、左に倒れ、やっぱり右へ行き、諦めたように真上へ吹いた。


 ベアトリスがそれを見て言う。


「噴水にまで優柔不断が感染しましたわ」


「世界全体がそうなんだよ」


「わかってますわよ。だから皮肉を言ってるんでしょう」


 ユウは答える気力もなく、石段に座り込んだ。


 昨日からずっと、胸の奥に穴が空いている感じがする。


 ミオンが観測対象から外れた。


 たったそれだけで、空は定まらず、建物は輪郭を迷い、水は行き先を決められなくなった。世界が「四人前提」で作られていたのだと、嫌になるほど見せつけられている。


 そして何より困るのは、ユウ自身の多重化が妙に不安定になったことだった。


「……で、今のは何人目ですの」


「三人目が棚に頭ぶつけた」


「雑に崩れてますわね」


 さっきまで第三棟の廊下にいたはずの自分の一人が、いつのまにか第一棟の売店前へ収束してきたらしい。ぶつけた額の痛みだけ共有されて、ユウは顔をしかめた。


 アリアが手帳を開いて、きっちりした字で何かを書き込む。


「分身維持時間、昨日比で四割減。同期精度は明確に低下。観測線の欠損が波及してます」


「さらっと言うけど、その観測線って見えるの?」


「見えません。でも、見えないものを前提に話を進めるのは、この学院では普通です」


「慣れたくない文化だな……」


 シオンは空を見上げたまま淡々と言った。


「第三居住区の歪みは再拡大。東棟結界、今朝だけで七枚交換です」


「交換ってそういう消耗品みたいに言うなよ……」


「実際、消耗品です」


「この世界の情緒、だいぶ終わってるな」


 ベアトリスが扇子でユウの肩を小突く。


「終わってるのはあなたの顔色ですわ。ちゃんと寝ましたの?」


「四分の一ずつなら」


「答えになってませんわね」


 そう言いながらも、いつもより声が強くない。彼女もわかっているのだ。冗談を言っていないと、空のちらつきばかり見てしまうことを。


 そのとき、学院の上空で、びり、と紙を裂くような音がした。


 全員が顔を上げる。


 青空の一部が、横へずれていた。


 本来そこにあるはずの雲の切れ目と、ずれたまま重なっていない。まるで空そのものが印刷ミスを起こしたみたいだった。遅れて、光がゆがみ、校舎の壁にありえない影が落ちる。


 ユウは立ち上がった。


「……ひどくなってる」


「ええ」


 アリアが手帳を閉じる。


「このままだと学院だけじゃ済みません」


「だったら早くミオンを連れ戻せば」


 言いかけて、自分で言葉に引っかかった。


 連れ戻す。


 簡単に言うな、と頭のどこかが呻く。


 昨日のあの顔を見たあとで、それを単なる作業みたいに言うのは違う。ミオンは逃げたのではない。傷ついて、考えるために離れたのだ。


 ベアトリスが腕を組んだまま、珍しくまっすぐユウを見る。


「行きなさいな」


「……え」


「何を間の抜けた顔してますの。行って連れ戻してきなさい、と言いましたの」


「でもお前、この前まで均等はおかしいって」


「今もおかしいですわよ」


 即答だった。


「だからって、あの子を一人で泣かせていい理由にはなりませんわ」


 その横でアリアも静かに頷く。


「私たちではだめです。たぶん、今いちばん会うべきなのはユウさんです」


「嫉妬とか、ないのか」


 つい聞いてしまった。


 アリアは少しだけ困ったように笑う。


「ありますよ」


 ベアトリスが鼻を鳴らす。「ありますわね」


 シオンが短く続ける。「当然です」


 三人そろってそんな即答をされると、逆に心がもたない。


 だが次の言葉は、もっともたなかった。


「でも」


 アリアが言う。


「今、そこで止まっているほうが、もっと嫌です」


 ユウは息を飲んだ。


 空がまたちらつく。噴水が迷う。校舎の輪郭がわずかに揺れる。


 ベアトリスが扇子をぴしゃりと閉じた。


「背中を押す役まで均等にやらせないでくださいまし。さっさと行きなさい」


「命令が雑……」


「優しく言ってほしいんですの?」


「いや、そこまでは」


「じゃあ走れ」


 シオンの一言がいちばん刺さった。


 ユウは頷いて、中庭を駆け出した。


 ミオンが行きそうな場所には心当たりがあった。


 第四棟の温室――ではない。あそこは昨日泣いた場所だ。今の彼女なら避ける。


 図書館の裏手、小さな観測台。


 学院の外れにある、誰も使わなくなった石造りの円塔。古い望遠鏡だけが残っていて、夕方になると空がよく見える。前にミオンが「ここ、好きなんです」と言っていたのを思い出した。好きな理由は「誰も来ないから」だった気がする。やや寂しい。


 階段を上がる途中で、世界が一度ずれた。


 右足を出したつもりが左に出て、壁が少しだけ廊下になる。危うく柱に頭をぶつけかけて、ユウは手すりにしがみついた。


「うおっ!?」


 眼下で、噴水が一瞬だけ立方体になった。もう何でもありだ。


 やっとのことで観測台の扉を押し開ける。


 中には、いた。


 ミオンが、望遠鏡のそばに座っていた。


 窓から入る風で、青いリボンが揺れている。制服の裾がきれいに揃っているのに、膝のところだけ少ししわが寄っていた。たぶん長く座っていたんだろう。


 彼女は振り向き、ユウを見ると、ほんの少しだけ困った顔をした。


「やっぱり、来ますよね」


「来る」


「ですよね」


 怒っていない。けれど歓迎もしていない声だった。


 ユウは扉を閉め、数歩だけ近づく。


「探した」


「世界が探してた感じですけど」


「それもある」


「それが先なんですよね」


 痛い。


 すごく痛い。


 図星だから余計に痛い。


 ユウは言い訳しようとして、やめた。たぶんここで「世界が危ないから」と先に言ったら、全部終わる気がした。


 ミオンは窓の外を見た。空はまた、昼と夕方の境目で迷っている。


「きれいですね」


「どこが」


「決まらない空って、少しだけ、本当の気持ちみたいです」


「詩人みたいなこと言うな」


「逃げてる人に言われたくないです」


「ごめん」


 即座に謝ると、ミオンは少しだけ目を丸くした。


「……早いですね」


「今のは完全に俺が悪い」


「そうですけど」


 そこは認めるのか、とユウは思ったが口には出さなかった。


 代わりに、観測台の壁にもたれて座る。ちょうど二人のあいだに、古い木箱がひとつ置いてあった。掃除道具でも入っていたのか、蓋が半開きで、ぎいぎいと風に鳴る。


 箱。


 嫌な単語だな、とユウは思う。


 長老の猫の箱を連想してしまう。開くか閉じるか、決めるたびに何かが変わる、あの妙に芝居がかった道具。


 ミオンがその箱を見つめたまま言った。


「私、ずっと変だと思ってたんです」


「均等が?」


「はい」


 彼女は膝を抱えた。


「最初は、特別な役目なんだって思ってました。四人で世界を支えるなんて、すごいことだなって。でも、ユウさんが来て、ちゃんと優しくしてくれて、うれしかったんです。うれしかったから、余計に苦しくなって」


 風が吹く。箱の蓋が、ぎい、と動く。


「みんなに同じだけ優しいって、すごいです。ずるくないし、不誠実でもない。たぶん、いいことです」


「でも?」


「でも、私が欲しかったのは、それじゃない」


 ユウは黙った。


 言葉を挟めなかった。


「四人のうちの一人として大切にされるより、ミオンとして見てほしい。そう思っちゃったんです。昨日、呪いでちょっとだけ私に傾いたとき……すごく、うれしかった」


 彼女は笑ってごまかそうとした。ぜんぜんごまかせていなかった。


「最低ですよね。世界が壊れるのに」


「最低じゃない」


 思ったより強く、声が出た。


 ミオンが目を上げる。


 ユウはそこで初めて、自分の中にずっとあったものへ触れた気がした。


 均等にしなきゃいけない。

 同じだけ見なきゃいけない。

 同じ温度で、同じ距離で、同じ表情で。


 そうしないと世界が壊れるから。


 ずっとそれを「義務」だと思っていた。そう思えば楽だった。感情を考えなくていいから。選べないことに理由がつくから。


 だけど。


 ユウは昨日、呪いに引っ張られてミオンだけを見かけた瞬間、たしかにまずいと思った。まずいと思ったのは世界のせいだけじゃない。自分が、ミオンの涙に、心ごと持っていかれそうになったからだ。


 そしてそれは、ミオンだけではない。


 アリアが質問しながらこちらを気遣う顔も。

 ベアトリスが文句を言いながら背中を押す声も。

 シオンが静かに観察しながら倒れる前に支える手も。


 全部、ちゃんと刺さっていた。


 ユウは、頭を抱えたくなった。


「俺……」


 情けない声が出る。


「俺、均等にしか愛せないんじゃないんだ」


 言った瞬間、観測台の空気が変わった気がした。


 ミオンの瞳が揺れる。


 箱の蓋が、風もないのに、かたん、と鳴った。


「それぞれ、違う形で、ちゃんと好きなんだと思う」


 言葉にした途端、心臓がうるさくなる。恥ずかしいし、遅いし、いまさらだし、最低の告白の仕方だと思う。


 でも止まらなかった。


「アリアといると頭が回るし、ベアトリスといると騒がしいのに妙に楽だし、シオンといると黙ってても落ち着くし、ミオンといると……守りたいって、思う」


 ミオンの目から、また涙が落ちた。


「それ、均等じゃないですね」


「うん」


「ずるいですね」


「うん」


「じゃあ、どうするんですか」


 そこだった。


 問題はそこだ。


 義務ではなく欲望だと認めた瞬間、世界のルールと正面からぶつかる。


 それぞれを、それぞれに愛している。

 でもこの世界は、それを均等という形でしか許さない。


 どちらを選んでも破綻する。


 いや、選ぶ以前に、もう詰んでいる。


 まるで答え合わせみたいに、観測台の扉が軋んだ。


 長老が入ってくる。


 なぜ毎回こう、絶妙に空気を読むのか読まないのか曖昧なタイミングで現れるのだ、この老人は。


「覗き見の趣味はないぞ」


「じゃあノックして」


「扉が半壊しておる」


「それでもだよ」


 長老は箱を抱えていた。あの猫の箱だ。こんな場所まで持ってくるな、とユウは思う。


 長老は二人の前に立ち、やけに静かな声で言った。


「聞こえたぞ」


「どこから」


「観測者の告白は世界に響く」


「便利なのか不便なのかどっちだよ……」


 長老は答えなかった。


 代わりに、冷たく告げる。


「だが結論は同じだ。破っても守っても滅ぶ」


 観測台が静まり返る。


 ミオンの指先が小さく震えた。


 長老は続ける。


「均等を守れば、お前は本心を削り続ける。やがて観測は儀式になる。儀式化した観測では、もう世界を支えきれん」


 ユウは息を詰めた。


 それは今朝から感じていたことだった。残る三人と接しても、どこか手順になっていく感覚。正しく振る舞おうとするほど、心から遠ざかる感じ。


「では均等を破れば?」


 ミオンがかすれた声で聞いた。


 長老は猫の箱の蓋を、ぱたん、と閉じる。


「旧法則が崩れ、世界は今より早く壊れる」


 あまりにもあっさり言うので、ユウは数秒意味を理解できなかった。


「……どっちにしても終わりじゃん」


「そうだ」


「じゃあ、俺たちここまで何してたんだよ」


「延命だ」


 その単語が、ひどく乾いて聞こえた。


 窓の外で、空が真っ二つに割れたように見えた。片側は朝、片側は夜。境目を鳥が飛び、途中で影になり、また羽ばたく。世界そのものが迷っている。


 ミオンが顔を伏せる。


 ユウは拳を握った。


 どうすればいい。


 均等でもだめ。

 本心でもだめ。


 選べば壊れる。選ばなくても壊れる。


 こんなの、ゲームなら設計ミスだ。作者を呼べ、と叫びたい。だが現実なので叫んでもたぶん長老しか来ない。しかも役に立たない。


 その長老が、珍しくユウをまっすぐ見た。


「だからこそ、お前が決めろ」


「は?」


「観測者として残るか、手放すか」


 ミオンが顔を上げた。


 ユウは言葉を失う。


「お前の力の本質は、均等そのものではない」


 長老が言う。


「だが今のお前に、その先はまだ扱えん」


 その先。


 聞き返す前に、箱の蓋がかたかたと勝手に震えた。


 観測台の床が揺れる。古い望遠鏡がきしみ、窓の外の空がまた別の色へ変わる。今度は海のような群青が空いっぱいに広がり、白い波の筋みたいな光が走った。確率の海、とでも言うべきものが、頭上にひっくり返ったみたいだった。


「うわっ!?」


 ユウが立ち上がる。ミオンも反射的に身を寄せ、長老だけが箱を押さえる。全然頼もしく見えないのに、こういうときだけ妙に慣れているのが腹立たしい。


「決断の時が近い」


「そういうの先に言え!」


「先に言うと怖がるだろう」


「今も怖いわ!」


 観測台の壁が、石になったり木になったり布になったりして落ち着かない。窓の外では昼の太陽と夜の月が同時に出て、しかも少しずつ位置を譲り合っている。遠くで誰かが「ニワトリが二回鳴いたあと寝た!」と叫んでいた。混乱の報告として絶妙に締まらない。


 だが、その締まらなさに少しだけ救われる。


 まだ世界は完全には終わっていない。

 笑える余地が、ほんの少しだけ残っている。


 ユウは荒い息を整えた。


 ミオンを見る。


 泣いた跡のある顔。

 でも、もう逃げるだけの顔ではなかった。


 長老を見る。


 むかつく。

 でもたぶん、嘘は言っていない。


 そして自分を見る。


 均等という義務にしがみつくには、もう遅い。

 かといって、このまま本心だけで走れば、世界ごと転ぶ。


 なら。


 ユウは、ゆっくりと言った。


「……観測者、やめる」


 ミオンが息を呑む。


 長老は目を細めた。


「自ら手放すか」


「このまま観測者を続けても、どうせ儀式になるんだろ」


「なる」


「だったら、そんな肩書きにしがみついて世界ごっこするより、いったん壊したほうがまだマシだ」


 暴論だと自分でも思う。


 でも、いちばん本音だった。


 ユウは箱を見る。蓋は閉じても開いてもいないみたいな、妙な角度で止まっている。


「均等でしか守れないなら、そんな守り方はもう限界だ」


 観測台の外で、空の海が大きくうねった。


 次の瞬間、学院じゅうの鐘がいっせいに鳴り響く。


 朝の音、昼の音、夕方の音、夜の音が全部まとめて来て、世界が耳から壊れそうだった。


 それでもユウは目を逸らさなかった。


 観測者の地位を、自分で手放す。


 そう決めた瞬間、箱の蓋が、かたん、と完全に開いた。

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