第2回 0.1秒の口づけ
朝、ユウは四回、同時に目を覚ました。
「うわっ」
四方向から自分の声がして、四つの天井が見えた。
ひとつは男子寮の自室。残り三つは、長老が「効率重視じゃ」と言って昨夜のうちに学院各棟へねじ込んだ仮眠室である。寝る前は「さすがに起床は収束するだろ」と思っていたのに、現実は非情だった。四つの身体が同時に飛び起き、四つの額を同時に机へぶつけた。
ごん、ごん、ごん、ごん。
「痛ったぁ!」
痛みまで四倍で来るのは反則だろ、とユウは思った。
廊下へ出る。四つの扉が開く。四つのユウが歩く。朝日に照らされた石廊下のあちこちで、学院生たちがぎょっと立ち止まった。
「増えてる……」
「昨日は二人だったよな?」
「いや四人いたって」
「夢じゃなかったのか」
夢であってほしかったのはこっちだ。
第一棟の渡り廊下で、アリアが本を抱えたまま目を丸くする。
「定着してますね」
「うれしくない定着だよ」
「でも成功です。今朝は時計塔も曲がっていません」
「成功の基準がもう終末寄りなんだよな」
第二棟ではベアトリスが開口一番、扇子で一体をぺしんと叩いた。
「寝癖が均等ではありませんわ」
「第一声がそこ!?」
「四人とも同じだけ乱れていないと気持ち悪いでしょう?」
「知らない価値観が来た」
第三棟ではシオンが無表情にメモを取っていた。
「同期誤差、歩幅二センチ。瞬目頻度、右端がやや多いです」
「なんで見抜けるの」
「見ればわかります」
「怖いな!」
そして第四棟、中庭の噴水のそばでミオンがそわそわと両手を握る。
「あ、あの、おはようございます。四人とも」
「おはよう」
四つ同時に返した瞬間、ミオンの顔が真っ赤になった。
「ひゃ、ひゃい!」
なぜ返事が裏返るのか。ユウにもわからない。ただ、四人のヒロインが四方向で反応しているせいで、朝だけで脳の容量が八割埋まった。
そこへ長老が現れた。
いつもの箱を抱え、やけに晴れやかな顔をしている。ろくなことがない顔だ。
「うむ。揃っておるな」
「揃えたくて揃ってるわけじゃないですけど」
「本日の課題を言い渡す」
「嫌な予感しかしない」
長老は箱の蓋を開けた。ぱかり。
「四人同時デートだ」
ユウは四か所で固まった。
アリアが眼鏡を押し上げる。「デート、ですか」
ベアトリスは扇子を閉じたまま眉を吊り上げる。「朝から何を言い出しますの、この箱じじい」
「じじいではない」
「そこじゃありませんわ!」
長老は咳払いした。
「敵は『一人だけを濃く意識させる』ことで均等観測を崩そうとしてくる。ならば先に最大出力で均等を実践し、世界へ固定するのだ。遊び、食べ、語り、同じだけ心を動かす」
「言い方は立派だけど要するに全力でモテろってことですよね」
「うむ」
「認めるんだ……」
アリアが小さく手を挙げた。
「行程は?」
「第一棟中庭で茶会。第二棟商店街で買い物。第三棟図書館で読書。第四棟温室で散歩。時刻は完全同期。感情出力も均等」
「最後が雑な無理難題なんですよ」
ベアトリスがふんと鼻を鳴らす。
「私、反対ですわ。均等、均等と簡単に言いますけれど、それで私たちの気持ちまで綺麗に揃うわけではありませんもの」
ミオンがびくっと肩をすくめる。アリアは困ったように視線を落とした。シオンだけが静かにユウを見ている。
長老は肩をすくめた。
「だからこそ訓練だ」
「訓練で済ませる倫理の話じゃないと思いますけど」
ユウが言うと、ベアトリスが珍しく即座に頷いた。
「その通りですわ」
だが時計塔が、ごごん、と低く鳴った。
空に薄いひびのような光が走る。
昨日より小さい。だが確実に、世界は急かしている。
結局、やるしかなかった。
第一棟の中庭。白いテーブルクロス、風に揺れる薔薇、銀のティーポット。アリアは湯気の立つ紅茶を前に、いつも通り理性的な顔で座っていたが、指先だけが少し落ち着かない。
「こういうの、得意そうですね」
「得意ではありません。ただ段取りは組めます」
「助かる」
「では質問します。今、他の三人は何を?」
「商店街で値札に怯え、図書館で背筋を伸ばし、温室で転ばないように歩いてる」
アリアがふっと笑った。
「本当に見えてるんですね」
「見えすぎてつらい」
同時刻、第二棟商店街ではベアトリスがレースの山を前に仁王立ちしていた。
「このハンカチ、どう思いますの」
「似合う」
「即答が軽い!」
「でも本心!」
「軽いまま本心を出されると腹が立ちますわね!」
彼女は怒りながらも、ほんの少し口元を緩める。その横で露店の店主が「兄ちゃん器用だな……」と四人目撃済みの顔をしていた。
第三棟図書館では、シオンが静かな閲覧席に座る。
「喋ると怒られます」
「じゃあ小声で」
「今、心拍が一番高いのはどこですか」
「なんでそんな質問するの」
「観測です」
「観測返しやめて」
第四棟の温室では、朝露を乗せたガラス越しに光が砕けていた。ミオンが花の鉢にぶつからないよう慎重に歩く。
「ご、ごめんなさい。私、歩くの遅くて」
「大丈夫。こっちも今日は全体的に遅い」
「そ、そうですよね。四人ですもんね……」
彼女は言ってから恥ずかしそうにうつむいた。ユウの脳のどこかが、少しやわらかくなる。
その瞬間だった。
頭の奥へ、細い針が刺さるような感覚。
四つの視界のうち、一つだけが急に鮮明になる。
温室。ミオン。揺れる青いリボン。まばたき。唇。
「……っ!」
他の三視界が、一段暗く薄れた。
アリアの声が遠くなる。ベアトリスの文句が水の底みたいににぶる。シオンのページをめくる音が消えかける。
「来ましたね」
図書館のシオンが、顔を上げた。
「何が」
「呪いです。集中が偏っています」
商店街の空で、鐘が濁った音を立てる。中庭のティーカップにひびが入り、温室のガラスがぱきぱきと鳴る。
長老の言っていた刺客だ、とユウは理解した。
一人だけを濃く意識させる呪い。
最低だ。ものすごく最低だが、効果は最悪なくらい的確だった。
ミオンが不安そうに見上げる。
「ユウさん?」
近い。
近いと感じた瞬間、世界がさらにそちらへ傾く。だめだと思うほど、焦点がそこへ合う。脳が勝手に「一人」を選びたがる。
ベアトリスの声が飛ぶ。「ちょっと! 視線が露骨ですわよ!」
アリアも立ち上がった。「ユウさん、呼吸を合わせて!」
シオンは短く言う。「四点同時。言葉で固定を」
ユウは歯を食いしばった。
温室のミオンだけを見るな。
中庭のアリアもいる。
商店街のベアトリスもいる。
図書館のシオンもいる。
四人だ。四人を見る。
だが呪いはしつこい。視界の中心へミオンが押し寄せる。転びそうに揺れる肩。泣きそうな瞳。守ってやりたい、と思った瞬間、他がさらに薄れる。
「君だけを――」
言いかけて、ユウは息を止めた。
温室の空気が凍る。
ミオンではない。違う。
その言葉を完成させたら、終わる。
ユウは四つの拳を同時に握った。爪が食い込む痛みを四倍で受け取り、無理やり意識を引き裂く。
「違う!」
四か所で同時に叫ぶ。
「アリア、紅茶こぼすな!」
「ベアトリス、そのレース離せ、店主が泣く!」
「シオン、本閉じるな、静かに怒ってる司書さんいる!」
「ミオン、鉢の右、足元!」
四人が同時に反応した。
アリアがカップを支え、
ベアトリスが「誰が離しませんの!」と怒鳴り、
シオンが司書へ一礼し、
ミオンがはっとして鉢を避ける。
視界が、戻る。
四つの場所へ、音と光が流れ込む。
図書館のステンドグラス、商店街の果物の山、中庭の薔薇の匂い、温室の湿った土の空気。それらが同じ重さで脳へ並び、ようやく世界の傾きが止まった。
その代わり、ユウはその場で膝から崩れ落ちた。四か所で。
「限界ですわね」
「無理しすぎです」
「顔色が白い」
「だ、大丈夫ですか……!」
四方向から四種類の心配をされるの、情報量が多いな、とユウはどうでもいいことを思った。
そして、呪いが切れたあとに残ったのは、静寂ではなかった。
温室で、ミオン――いや、Cである彼女が、ぽろりと涙を落とした。
雫が石畳に落ちる音だけ、妙にはっきり聞こえた。
「……やっぱり、そうなんですね」
「ミオン?」
「今、私に引っ張られました」
彼女は笑おうとして、失敗した顔をする。
「ちょっとだけ、うれしかったんです。私だけを見てくれるのかなって、思ってしまって」
ユウは言葉を失った。
それは責める声ではない。もっと静かで、もっと刺さる声だった。
「でも、だめなんですよね。均等じゃないと」
「それは……世界が」
「わかってます」
ミオンは首を振った。
青いリボンが、泣き方まで控えめに揺れる。
「でも私、薄まりたくない」
中庭のアリアが目を伏せる。
商店街のベアトリスは唇を噛む。
図書館のシオンはただじっとユウを見る。
ミオンは袖で涙を拭って、それでも言った。
「均等って、誰も選ばないのと同じじゃない?」
風が止まった。
温室の葉も、中庭の薔薇も、商店街の旗も、図書館の紙の端さえ動かない気がした。
それは昨日、ベアトリスがぶつけた違和感と同じ形をしていた。でも彼女の言葉よりずっと柔らかくて、だからこそ逃げ場がなかった。
ユウは答えられない。
答えれば、この回で消化すべきではない何かまで口にしてしまいそうだった。
だから、ただ四人の前で立ち尽くすしかなかった。
長い沈黙のあと、商店街の時計が正午を告げる。
その音でようやく空気が動いた。
アリアが静かにカップを置く。
ベアトリスが視線をそらす。
シオンが本を閉じる。
ミオンは一歩、後ろへ下がった。
「今日は、もう帰ります」
「待って」
言ったのは四人のユウだった。
だがミオンは、初めて首を横に振る。
「少しだけ、一人で考えたいです」
その言葉は穏やかで、拒絶の形をしていた。
次の瞬間、温室の扉が開く。春の光が差し込む。ミオンの細い背中がそこを抜ける。青いリボンがひらりと揺れて、見えなくなった。
同時に、ユウの中から何かが抜けた。
観測の線が、一本だけ、ぷつりと切れる感覚。
「……まずいですわ」
ベアトリスの声が低い。
学院のどこかで、がしゃん、と窓の割れる音がした。
中庭の空が一度、砂嵐みたいにざらつく。図書館の本棚の輪郭がぶれ、商店街の石畳が水面のように揺らいだ。
アリアが青ざめる。
「観測対象から外れた……?」
シオンが短く告げた。
「位相欠損、開始」
ユウは、四つの身体で同時に立ち上がった。
だが追うべき背中は、もうどこにも見えなかった。




