第1回 観測者覚醒録
箱の蓋が、ぱたん、と閉じた。
その音だけで、ユウは肩を跳ねさせた。
卓の上には、木目の粗い小箱がひとつ。猫の絵が焼き印で刻まれている。朝から長老が何度も開けては閉じ、閉めては開けしているせいで、もうユウの脳みそにはその音が染みついていた。
ぱたん。
「……それ、やらないと死ぬんですか」
「死なん」
長老は即答した。
「だが大事だ」
「ぜんぜん説明になってませんけど」
「説明より体験のほうが早い」
そう言ってまた蓋を開ける。閉める。ぱたん。
ユウは両手で顔を覆った。朝からずっとこれだ。呼び出されたと思ったら、長老の部屋で箱を眺めさせられている。意味がわからない。眠い。帰りたい。というか授業は。
「わしの話を聞け」
「聞いてます」
「聞く顔ではない」
「箱の音で心が折れかけてる顔です」
部屋の隅で、少女が小さく吹き出した。
白銀の髪を肩で切りそろえた、凛とした目の少女。学院でも評判の才女、アリアだ。今日の質問役として連れてこられたらしい。本人も「質問役って何」と言っていたが、長老は「お前は質問しそうな顔をしておる」と押し切った。
「では、私が代わりに聞きます。長老様、なぜユウさんを?」
「適性があるからだ」
「何の?」
「観測者の」
「もっとわかりやすく」
「うむ」
長老は頷いた。やっと説明する気になったのか、とユウが身を乗り出した、そのときだった。
部屋の窓が、青白く光った。
一瞬、空が脈打つ。
次の瞬間、学院の外から悲鳴が上がった。
「……は?」
ユウが窓辺に駆け寄る。街区の向こう、石造りの塔が立ち並ぶ第三居住区の上空で、赤い光が渦を巻いていた。空気そのものが煮え立つみたいにゆらぎ、建物の輪郭が歪む。見ているだけで胃が浮くような異常だった。
「な、何あれ」
アリアの声が震える。
長老は箱の蓋を閉じた。ぱたん。
「始まったか」
「始まったか、じゃないですよ!」
ユウは振り返って叫んだが、その言葉はさらに大きな轟音にかき消された。遠くの街路が、紙をくしゃりと潰したみたいに折れ曲がる。石畳が跳ね、街灯がねじれ、塔の上半分が消えかける。
消えかける、というのが正確だった。
砕けるのではない。燃えるのでもない。そこだけ世界から削除されかけている。
「第三居住区の魔力炉が暴走してる!」アリアが窓に手をつく。「でも、なんで急に……」
「急ではない」
長老が、今度はユウを見た。
「お前がさっき、中庭で一人の娘にだけ微笑んだからだ」
「は?」
「北棟の回廊で、青いリボンの娘に会ったろう」
「あ、え、はい。挨拶はしましたけど」
「その瞬間、遠隔位相で繋がっていた他の娘の魔力均衡が崩れた」
「日本語で!」
「一人だけ見たせいで、別の子がキレた」
「雑!」
だが雑なくせに、妙に意味だけは通ってしまっていた。
ユウはさっきのことを思い出す。回廊で本を抱えた少女とすれ違い、落としかけた本を支えた。彼女が礼を言い、ユウが反射で笑い返した。それだけだ。
それだけで、街が消えかける?
「冗談ですよね?」
「冗談で街区が削れるか」
「削れてるなあ……!」
アリアが窓の外を見たまま青ざめる。
さらに部屋の扉が乱暴に開いた。
「長老! やっぱりですわ!」
飛び込んできたのは、金髪を高く結い上げた派手な少女だった。学院でも有名な問題児、ベアトリス。息を切らしながらも、怒る余裕だけは失っていない。
「南区の噴水が逆流しましたの! 水が空へ上がって、魚が降ってきましたわ! しかも臭い!」
「魚?」
「魚ですわ!」
「なんで魚」
「知りませんわよ!」
コメディみたいな報告なのに、本人の目は本気だった。
その背後から、黒髪の少女が静かに入ってくる。制服をきっちり着こなした、表情の薄い少女。シオンだ。彼女はまずユウを見て、それから長老を見た。
「東棟の結界、三枚消えました。原因は同一ですか」
「うむ」
「では、その人が?」
シオンの視線がユウに刺さる。
気まずくて、ユウはとりあえず会釈した。なぜかシオンはほんのわずか眉を寄せた。初対面で借金取りを見る目はやめてほしい。
「待って。待ってください。なんで俺が事故の元凶扱いなんです?」
「元凶というより、鍵だな」
長老はようやく椅子から立ち上がった。
「ユウ。お前はシュレディンガー観測者だ」
「いきなり概念!」
「この世界は、多数の可能性が薄膜のように重なって成り立っている。だが近年、その均衡は特定の四点に依存するようになった」
長老は指を四本立てた。
「その四点が、ここにいる娘たちと、あと一人」
「私たちが、世界を支えてるって言うんですの?」
ベアトリスが眉を吊り上げる。
「正確には、君たちを媒介にして世界が安定している。そしてユウは、その四人を均等に観測し、位相を保つ唯一の適合者だ」
ユウは数秒、黙った。
「つまり」
「一人だけを特別視すると世界が壊れる」
「ひどいシステムだな!?」
思わず叫ぶと、ベアトリスが即座に頷いた。
「ですわよね!? 私も前からおかしいと思っていましたの! なんですの、その均等って! ケーキを四等分するのとは違いますのよ!」
「ベアトリス、今はそこを責めても」
「責めますわ! 人の心は目盛りで測るものではありませんもの!」
彼女はユウをびしりと指さした。
「しかもこの人、さっき別の子に笑いかけたんでしょう? もう不誠実の気配しかしませんわ!」
「いやそこは事故だって!」
「事故で済むなら魚は降りませんの!」
「その理屈もどうなんだ!」
言い争う間にも、窓の外で空がまた脈打った。今度は学院の時計塔がぐにゃりと曲がる。時間までねじれているように見えて、ユウの背筋を冷たいものが走る。
アリアが前へ出た。
「長老様。方法は?」
「均等観測の初期固定だ」
「簡単に言うと」
「四人と、同時に、同じだけ接触する」
「難しく言わなくても無理ですわ!」
ベアトリスが両手を広げる。
「同時って何ですの! 人は一人ですわよ!」
「普通はな」
長老はまた箱を持ち上げた。
「だが観測者は違う。箱を開けるまで、猫は生きても死んでもいる。ならば観測者もまた、開けるまでは一つであり複数だ」
「話が急に猫頼み!」
ユウが突っ込むと、シオンが初めて小さく息をついた。笑ったのかもしれない。たぶん気のせいだ。
「やるしかありません」
アリアがきっぱり言う。
「第三居住区の歪みが広がれば、住民に被害が出ます。ユウさん、できますか」
「できますかって言われても……」
できるわけがない。だが窓の向こうで、街が明らかにおかしくなっている。噴水が逆流して魚が降る世界に帰って寝る、という選択肢はなさそうだった。
「……何をすればいい」
「今夜、四人と同時に夕食を取れ」
「夕食?」
「同一時刻、同一密度、同一感情出力でな」
「最後のやつ急に難易度高いな!」
「場所は学院四棟の食堂個室。それぞれ別だ」
「移動だけで無理じゃん!」
「だから多重化する」
長老はあっさり言った。
ユウは黙った。アリアも黙った。ベアトリスは「言ってることの半分以上が犯罪予告みたいですわね」と呟いた。シオンだけが平然としている。
「練習するぞ」
長老が箱の蓋を開く。
ぱかり。
「自分を四つに分けるイメージだ」
「そんな軽く言う!?」
「まず一つの意識で四方向を見る」
「無茶振りの規模がおかしい!」
「できねば街が消える」
「それを先に言われると反論しづらいんだよ!」
やるしかなかった。
長老の部屋で、ユウは箱を見た。蓋が開く。閉じる。開く。閉じる。アリアが横で「今です、意識を右へ」と真面目に補助し、ベアトリスが「左が雑ですわ!」とやじを飛ばし、シオンが「呼吸が乱れています」と的確に刺してくる。
地獄のパーソナルトレーニングだった。
だが、三十回目の蓋の開閉のあとだった。
ふいに、視界がぶれた。
正面の箱を見ているはずなのに、同時に窓の外の空も見えた。部屋の扉の木目も、机の傷も、アリアの指先も、ベアトリスの揺れる髪飾りも、シオンのまばたきも、全部が一度に目に入る。
「うおっ」
気持ち悪い、と言う前に、自分の声が四方向から聞こえた。
ユウが自分を見る。
部屋の四隅に、ユウが一人ずつ立っていた。
「きゃっ」
アリアが一歩下がる。ベアトリスが「増えましたわ! 本当に増えましたわこの人!」と失礼な感想を叫ぶ。シオンは無言で一体の頬をつねった。
「痛っ」
「共有していますね」
「冷静だな!?」
長老だけが満足そうに頷いた。
「よし。今夜だ」
――そして夜。
学院四棟、それぞれの個室食堂に灯りがともる。
第一棟でアリアがスープを前に座り、第二棟でベアトリスが腕を組み、第三棟でシオンが静かにカップへ手を伸ばし、第四棟では青いリボンの少女――ミオンが不安げに椅子に腰かけていた。
ユウは、四人になっていた。
扉を開ける音が、四つ重なる。
「待たせた」
同じ声を、同じ温度で、同じだけの笑みで。
アリアがほっと息をつく。ベアトリスは露骨に「本当に来ましたのね」と目を丸くし、シオンは一度だけ頷いた。ミオンはなぜか今にも泣きそうな顔で、「さっきはごめんなさい、私のせいで」と小さく言った。
違う、と四人のユウは同時に思う。
違う、と四人のユウは同時に口にした。
「君のせいじゃない」
スプーンを持つ。パンをちぎる。水を飲む。相手の目を見る。相槌を打つ。笑う。四つの場所で、四つの食事を、同じ密度でこなしていく。
脳が焼けるかと思った。
アリアが質問する。「本当に見えてるんですか、全部」
ベアトリスが文句を言う。「私への視線が二%ほど薄い気がしますわ」
シオンが観察する。「心拍が上がっています」
ミオンが怯える。「私、いてもいいのかな」
その全部に、同時に答える。
「見えてる」
「気のせいだ」
「緊張はしてる」
「いてほしい」
言葉を重ねるたび、世界の軋みが少しずつ遠のいていくのがわかった。
窓の外で暴れていた赤い光が薄れる。曲がっていた塔が輪郭を取り戻す。どこかで鳴りっぱなしだった警鐘も、いつしか止んでいた。
そして、最後のひと口を四人が同時に飲み込んだ瞬間。
空が、静かになった。
長い、長い息を、四人のユウが同時に吐く。
成功したのだ。
その瞬間、四つの意識が一つに収束し、ユウは第一棟の廊下によろめいた。壁に手をつく。頭の中で鐘が百個鳴っている。吐きそうだ。だが生きている。街もたぶん生きている。
前から長老が歩いてきた。どうやって四棟ぶんの結果を確認したのか知らないが、妙に得意げで腹が立つ。
「初回としては上出来だ」
「初回で済ませる気だったのかよ……」
「当然だ。今後も毎日だぞ」
「聞いてない!」
「今聞いた」
「最悪の説明順!」
そのとき、アリアたちも廊下の合流口へ集まってきた。ベアトリスはまだ納得していない顔で腕を組み、シオンはユウの顔色を見て「倒れる前三秒」と淡々と告げ、ミオンはおろおろとハンカチを差し出してくる。
四人を見て、ユウはようやく実感した。
自分はこれから、この四人を均等に見つめ続けなければならない。
誰か一人だけを選べば、世界が壊れる。
めちゃくちゃだ。理不尽だ。ふざけている。
でも。
さっき、自分が来るのを待っていた四つの顔を思い出すと、もう投げ出すとは言えなかった。
ユウは壁から背を離し、四人を順に見た。いや、順ではない。同じだけ、見た。
「……わかった」
自分でも驚くほど、声はまっすぐ出た。
「俺がやる。全員を選ぶ。全員を、同じだけ守る」
一瞬の沈黙。
アリアは静かに目を細め、ミオンは胸の前で手を組んだ。シオンはほんの少しだけ表情を和らげた。
ただ一人、ベアトリスだけが不服そうに唇を尖らせる。
「その言い方、やっぱり変ですわ。全員を選ぶなんて」
「変でもやるしかないだろ」
「……ええ、今はそうですわね」
彼女はそっぽを向いたまま言った。
「でも、均等なんて言葉で全部済むと思わないことです」
その言葉だけ、妙に胸に残った。
長老は満足したように頷き、また箱を取り出した。
ぱたん。
「うむ。これで今夜は安定――」
その音と同時に、箱の中に一枚の紙が現れた。
全員の視線が集まる。
長老が眉をひそめて取り上げ、封を切る。珍しく顔色が変わった。
「何ですの?」
ベアトリスが訊く。
長老は紙を広げ、低く読んだ。
「――均等は、偽りの秩序である。われらは観測を破壊する」
廊下の空気が、すっと冷えた。
紙の末尾には、黒い猫の印が押されていた。
箱の蓋が、ひとりでに開く。
ぱかり。
ユウは、さっきよりもずっと悪い予感を覚えながら、その暗い箱の中を見つめた。




