第4回 重ね合わせの誓い
世界は、きれいに壊れ始めた。
豪快に爆発するとか、地面がぱっくり割れるとか、そういうわかりやすい終末ではない。もっと性格が悪い。学院の廊下が三歩ごとに木造になったり石造りになったりして、階段の段数が上るたびに増えたり減ったりする。中庭の噴水は水を噴くのをやめ、代わりに鳩を二羽だけ等間隔で吐き出してきた。
「何なんだよその律儀さ!」
ユウが叫ぶと、鳩は二羽そろって一礼みたいに首を振ってから飛んでいった。
ぜんぶおかしい。
だが昨日までの「まだ整えれば戻せそう」な崩れ方ではない。観測者の地位を手放したことで、旧法則そのものが外れかけているのだと、見なくてもわかった。
空はもはや空の顔をしていなかった。青、夕焼け、星空、曇天が薄いガラスみたいに何枚も重なって、その隙間を雷がひゅるひゅると泳いでいる。ときどき魚も泳ぐ。なぜ魚なのかはもう誰も訊かない。聞いたところでたぶん長老が「確率だ」で済ませるからだ。
「済ませるな!」
長老へ怒鳴ると、本人は箱を抱えたまま眉一つ動かさなかった。
「まだ何も言っておらん」
「言いそうな顔してた!」
「それはお前の偏見だ」
「ここまで来ると偏見が経験則なんだよ!」
学院大講堂には、アリア、ベアトリス、シオン、ミオンの四人が集まっていた。講堂といっても今は大講堂なのか温室なのか図書館なのか曖昧で、右側の壁だけ本棚、左側だけ蔦まみれ、天井にはなぜかシャンデリアと木の枝が同時に生えている。
生えているのに、誰もそこをあえて突っ込まない。もう処理能力が尽きている。
ユウは四人の前に立った。
昨日、自分で決めたのだ。観測者をやめる、と。
その結果がこれである。
「……悪い」
口から出たのは、結局それだった。
アリアが首を振る。
「謝るのはあとです。今は対処を」
「冷静だな」
「冷静じゃないと天井の枝にツッコミ続けてしまうので」
「それは確かに疲れる」
ベアトリスは腕を組んだまま、けれど昨日よりずっとまっすぐユウを見ていた。
「観測者をやめる決断自体は、私は間違いだとは思いませんわ」
「え」
「そんな顔しないでくださいまし。均等、均等と気持ちを切り売りされるくらいなら、一回世界のほうを疑うべきですもの」
「言い方が強いな……」
「強く言わないと、この世界すぐ魚を降らせますのよ」
その横でシオンが淡々と現状報告する。
「学院周辺、位相崩壊フェーズ移行。結界は意味を失いました。三分前、北門が南門になりました」
「さらっと地理が壊れるな!」
「現在は戻っています」
「戻るんだ……」
ミオンは不安げに指先を握っていたが、ユウと目が合うと、小さく息を吸って言った。
「でも……昨日、逃げてよかったです」
「それ、俺にちょっと刺さる言い方だけど」
「すみません。でも、逃げなかったら、私、たぶん自分の気持ちを言えませんでした」
その言葉に、講堂の空気が少しだけ静かになる。
長老が箱の蓋を開けた。ぱかり。
「旧法則は終わる」
「毎回その箱で節目を演出するの、ちょっと腹立つな」
「様式美だ」
「認めるんだ」
長老は気にせず続けた。
「お前が観測者権能を放棄した以上、世界は均等観測では維持できん。だが崩壊の速度は想定より遅い」
「遅い?」
アリアが眉を寄せる。
「なぜですか」
長老は箱を抱えたまま、四人のヒロインを見る。
「お前たちがまだ、ユウを見ているからだ」
一瞬、誰も意味を飲み込めなかった。
講堂の外で鐘が昼を鳴らし、同時に夜を鳴らし、さらに朝の小鳥のさえずりまで混ざる。時間の趣味が悪い。
ユウが先に口を開いた。
「……俺を、見てる?」
「お前が一方的に観測する時代は終わったということだ」
長老はやっと核心を口にした。
「本来、観測とは片道ではない。見る者は見られ、選ぶ者は選ばれる。旧法則はその半分だけを無理やり切り出した、いびつな延命措置にすぎん」
ベアトリスが目を細める。
「つまり最初から無理がありましたのね」
「うむ」
「今うむで済ませましたわよこの人」
「済ませるなよ!」
だが怒鳴りながらも、ユウの頭のどこかが急速に冷えていくのがわかった。
自分の力の本質は「均等」ではない。
長老は回3でそう言った。
では何か。
同時の真実。
複数を、複数のまま、偽らずに成立させること。
そのために必要なのが、自分だけの観測ではなく――
「相互、観測……?」
呟いたのはミオンだった。
長老が頷く。
「そうだ」
空が、ごう、と鳴った。
講堂の壁が一瞬だけ透け、外の中庭が見える。逆さまの噴水と、空を泳ぐ魚と、石像になりかけているベンチ。世界は待ってくれそうにない。
アリアが一歩前に出た。
「やることは明確ですね」
「早いな」
「理屈が通れば動けます」
彼女は眼鏡を押し上げ、きっぱりと言った。
「私もユウさんを観測します」
その瞬間、講堂の揺れがわずかに収まった。
ベアトリスが目を瞬かせる。
「……本当に変わりましたわね」
「見ればわかります」
シオンが即座に続く。どこかで聞いた台詞だな、とユウは思った。
「私も観測します」
講堂の本棚のぶれが止まる。蔦と木の枝が、少しだけ大人しくなる。
ミオンは胸の前で手を組み、泣きそうな顔のまま、でも逃げずにユウを見た。
「私も、見ます。今度は逃げません」
窓の外で逆さまの噴水が、ようやく普通に上へ吹いた。まだ魚が一匹混ざっていたが、そこはもう誤差だ。たぶん。
ベアトリスだけが最後まで腕を組んでいた。
「全員そろって急に覚悟を決めないでくださいまし。置いていかれたみたいで腹が立ちますわ」
「じゃあ置いていかれないで」
ユウが言うと、彼女は扇子で肩を叩いてきた。
「軽いですわね!」
「今のはわりと勇気を出した発言なんだけど」
「知りませんわ」
だが、ふっと笑う。
「……当然、私もやりますわよ。私だけ見ないなんて、不公平でしょう」
その瞬間、講堂の天井から生えていた木の枝がふっと消えた。シャンデリアだけが残り、ようやく講堂らしい見た目に近づく。
長老が満足そうに頷く。
「よし。観測ネットワーク形成に入る」
「言い方が急に工事現場なんだよ」
「実際、宇宙規模の補修だ」
「スケールのでかい雑さ!」
だが、やるしかない。
四人はユウを囲むように立った。講堂の床に、いつのまにか薄く光る円が浮かんでいる。長老の仕業だろう。説明はない。もう諦めた。
アリアが一番先に口を開く。
「ユウさん」
その声は、いつもの質問役の声ではなかった。もっと静かで、まっすぐだった。
「あなたは、わからないことばかりのこの世界で、最初に『全部わからない』って顔をしてくれた人でした。だから、私は質問できたんです。取り繕わないあなたを、私はちゃんと見ています」
床の光がひとつ、強まる。
ユウの胸の奥で、何かが噛み合う。
次にベアトリスが一歩出る。
「あなた、ほんとうに不器用ですわよね。四人同時に起きて四回額をぶつける人なんて初めて見ましたわ」
「そこ今言う?」
「でも」
彼女は扇子を閉じた。
「雑でも、逃げずに向き合おうとするところは……嫌いではありません。文句を言いながらでも、ちゃんと来る。そういうところ、見てますわ」
またひとつ、光が強まる。
シオンが続く。
「あなたは、観測者としては効率が悪いです」
「この流れでダメ出しから入るの?」
「ですが」
彼女は少しだけ目を細めた。
「効率で人を見ない。痛がるときはちゃんと痛がって、笑うときはうるさい。その非効率を、私は信頼しています。ずっと見ていました」
光が、三つ目の輪として床を走る。
最後に、ミオン。
青いリボンが、今度は震えながらも逃げない。
「私、薄まりたくないって言いました」
「うん」
「今もそうです。でも、薄まらないために誰かを押しのけたいわけじゃないって、やっとわかりました」
彼女は泣き笑いみたいな顔で続ける。
「私が見てほしいなら、私も見ないとだめなんですね。ユウさん。私はあなたを見ます。怖がってても、格好悪くても、四回寝癖がついてても」
「その情報、今後ずっと使われるやつじゃん」
「はい」
即答だった。
四つの光がつながる。
講堂全体に、低い振動が広がった。
空の重なりが、ゆっくりと回転を始める。青空と夕焼けと夜空と曇天が、喧嘩するのではなく、薄い布みたいに重なりなおしていく。
長老が箱の蓋を閉じた。ぱたん。
「よし。最終段階だ」
「そのタイミングで鳴らすの、やっぱり演出入ってるよな?」
「盛り上がるだろう」
「否定しろよ!」
だが次の瞬間、ユウの身体がふっと軽くなった。
いや、軽いというより、境界が広がる。
昨日までの多重化は「自分が四人に分かれる」感覚だった。今は違う。アリアの視線の先からも、ベアトリスの心拍の高さからも、シオンの静かな呼吸からも、ミオンの震える勇気からも、自分へ向かう光がある。
見ている。
見られている。
選んでいる。
選ばれている。
ユウはそこで、ようやく理解した。
均等である必要なんて、最初からなかったのだ。
必要だったのは、それぞれをそれぞれのまま受け取り、それでも同時に真実であること。
だからユウは、四人を見た。
一人ずつ違う。
違うから好きだ。
しかも同時に、好きだ。
矛盾ではない。
これが真実だ。
「俺は――」
声が講堂に響く。
床の光が、空へ伸びる。
「全員を、それぞれに、同時に愛してる」
言い切った瞬間、世界が止まった。
魚も。
雷も。
昼も夜も。
揺れていた壁も。
全部が一拍だけ静止して、それから、すっと新しい形へ落ち着く。
空は青い。
でも青だけじゃない。高いところに夕方みたいな金色が薄く混ざり、見上げる角度によって星の粒がかすかに瞬く。昼でも夜でもない、どちらも含んだ空になっていた。
中庭の噴水は普通に上へ吹く。
ただし時々だけ虹が四本出る。まあかわいいから許す。
講堂の壁は講堂のまま、本棚も蔦も消えた。シャンデリアだけがきらきらと揺れている。もう枝は生えていない。たぶん。
長老が大きく息を吐いた。
「新法則、安定」
「言い方が機械の再起動みたいだな」
「だいたい合っておる」
「雑だなあ!」
だが笑ってしまった。
四人も、少しずつ笑っていた。
そして、そのあとに来たのは、儀式の完了ではなく、ただの告白の続きをやりたい空気だった。
まずアリアが頬を赤くしながら咳払いする。
「その……今の、物理的真実なんですよね」
「うん」
「では、私も改めて言います。私はあなたを選びます」
ベアトリスがすぐ横から入る。
「ちょっと、一人ずつちゃんと順番を守りなさいな」
「今それ言う?」
「言いますわよ。大事でしょう?」
彼女はユウの前まで来て、つんと顎を上げた。
「私も、あなたを選びます。ええ、選びますとも。だから今後、雑に扱ったら許しませんわ」
「選ぶのに圧が強いな!」
「そういうところも含めてです」
シオンは一歩近づいて、静かに言った。
「私も選びます。観測継続、希望」
「告白がまだ観測用語なんだよな」
「慣れてください」
「努力します」
最後にミオンが、涙を拭って、それでも笑う。
「私も、あなたを選びます。今度は、薄まるのが怖くても逃げません」
「……うん」
ユウは、今度こそまっすぐ頷いた。
「ありがとう」
その瞬間、四人がほぼ同時に一歩近づいてきて、ユウは反射で一歩下がった。
「待って」
「待ちませんわ」
「ここまで来て引かないでください」
「観測結果を確認します」
「だ、大丈夫です、逃げませんから!」
結局、四方向から距離を詰められて、ユウは講堂の中央で文字通り身動きが取れなくなった。新法則の最初の洗礼がこれでいいのか。たぶんよくない。
そこへ長老が箱を小脇に抱えて言う。
「うむ。日常復帰も問題なさそうだな」
「何を見てそう判断した」
「賑やかだから」
「基準が雑!」
だがその雑ささえ、今は少しだけありがたかった。
世界は壊れなかった。
均等ではなく、重なったまま、成立した。
講堂の外から、いつもの学院のざわめきが戻ってくる。生徒たちの声、風の音、誰かが売店のパンが消えたと騒ぐ声。どうやら北門が南門になる程度では、学院の日常は折れないらしい。強いな、この世界。
夕方、新しくなった空の下で、五人は並んで中庭を歩いた。
アリアが空を見上げる。
「きれいですね」
ベアトリスが噴水の虹を見て言う。
「少し盛りすぎですけれど」
シオンが事務的に補足する。
「美観は向上しています」
ミオンは小さく笑った。
「前より、好きかも」
ユウも空を見た。
青と金と星が、喧嘩せずに重なっている。
「……なんか、俺たちっぽいな」
「急に上手いこと言いましたわね」
「たまには言う」
「たまたまです」
「シオンまで厳しい!」
笑い声が重なる。
そのまま歩いていると、長老が後ろからしれっと言った。
「次の観測対象は、お前たちの子どもたちかもしれんな」
五人の足がそろって止まった。
「は?」
「え?」
「ちょっと」
「長老様」
「やめろ」
ユウの即答と同時に、四人の反応も重なる。
長老は箱の蓋をぱたんと閉じた。
「未来の話だ」
「未来でも早い!」
「気が早すぎますわ!」
「段階を踏んでください」
「まず今日を生きましょう……!」
わあわあと騒ぐ声が、中庭いっぱいに広がる。
新しい空の下で、その騒がしさだけが、やけに穏やかに響いていた。




