第十八話「七代目」
「永」の字は、状態が一番良かった。
四文字のうち、風化が最も少なかった。溝が比較的深く残っていて、輪郭もはっきりしていた。
なのに、一番時間がかかった。
ノミを当てるたびに、手が止まった。
これが最後の一文字だった。
「鎮龍脈永」
龍脈を鎮めて、永く保つ。
その「永」を彫り直したら、何百年も前に社守が刻んだ言葉が、今の石に戻る。
なんとなく、慎重になった。
「……行きます」
声に出してから、ノミを当てた。
カン、と音がした。
石の粉が出た。
溝が、少し深くなった。
丁寧に、少しずつ、進めた。
ネコチャンがいつも通り、脇で見ていた。
「永」を彫り終えるのに、一時間半かかった。
終わってから、石碑全体を見た。
「鎮龍脈永」
四文字が、揃った。
彫り直した部分が、古い部分より白かった。
でも形は、ちゃんとした字になっていた。
「できました」
独り言だった。
ネコチャンが立ち上がって、石碑の正面に回った。
文字を、じっと見た。
尻尾が四本、静かに揺れた。
コメントが流れた。
『四文字、揃った』
『ネコチャンが確認してる』
『きれいな字になってるね』
次の作業が、残っていた。
左下の欠けた部分だった。
社守の名前らしき跡がある、あの部分だった。
補修材で埋めてあったが、まだ彫っていなかった。
今日は、そこに向き合うつもりだった。
道具を持ったまま、しばらく左下を見た。
補修材が硬化していた。
表面が平らになっていた。
何もない、白い面だった。
「さくらさんが言ってた読みだと、社守、六代まで続いてたと」
コメントが流れた。
『そうでしたね』
『たしか江戸初期から明治ごろ?まで、少なくとも六代』
『最後の社守が後継者を残せなかったと』
諒はノミを手に取った。
補修材の上に、ノミの先を当てた。
「ここに何を彫ればいいか、少し考えてたんですが」
コメントが流れた。
『ふむ』
『社守の名前を復元する?』
『でも正確な名前はわからないままでは』
「わからないままなんですよね、名前は。でも」
少し間を置いた。
「欠けた部分に、社守の名前が刻んであったとして。六代続いて、途絶えた。でも今、俺がここで作業してる」
コメントが動いた。
『あ』
『もしかして』
『諒さん、自分の名前を刻むつもりですか』
諒はカメラを見た。
「七代目として、自分の名前を刻もうと思います」
コメントが止まった。
一瞬、止まった。
それから一気に流れた。
『賛成』
『それが正解だと思う』
『社守の系譜を繋ぐんだよ』
『諒さんがここに来た理由がわかった気がする』
『ネコチャン、反応してる』
ネコチャンが諒を見ていた。
さっきまで石碑の正面にいたのに、いつの間にか諒の隣に来ていた。
金色の目が、諒を見ていた。
「……いいですか」
尻尾が四本、一度に、パタン、パタン、パタン、パタン。
今まで見たことのない揺れ方だった。
コメントが流れた。
『全部揺れた』
『四本全部』
『めちゃくちゃ肯定されてる』
諒は少し笑った。
「わかりました。彫ります」
何を彫るか、考えた。
社守の名前の様式がわからなかった。
拓本の「社守 四」という読みを参考にすると、役職名と代数が入っていたと思われた。名前そのものは残っていなかったか、あるいは名前ではなく代数だけだったのかもしれなかった。
「様式がわからないので、俺なりにやります」
ノミを当てた。
最初に「社守」の字を彫った。
役職名だった。自分がそれを継ぐという意味で、最初に入れた。
「社守」を彫るのに、三十分かかった。
次に「七代」を彫った。
六代で途絶えた系譜を、七代目として引き継ぐという意味だった。
「七代」を彫るのに、二十分かかった。
最後に、自分の名前を彫る。
「坂口諒」
漢字三文字だった。
ノミを当てながら、少し可笑しいような気がした。
「さかぐち、田舎に住む」のチャンネル主の名前が、何百年も先まで残るかもしれない石に刻まれる。
でも、おかしくはなかった。
社守がやってきたことを、自分がやっている。
それだけのことだった。
「坂口」を彫り終えて、「諒」に入った。
「諒」という字は、少し複雑だった。
丁寧に、一画ずつ確認しながら進めた。
終わったとき、手のひらが少し汗ばんでいた。
一歩下がって、全体を見た。
左下に、新しい文字が並んでいた。
「社守 七代 坂口諒」
白く、くっきりと、石に刻まれていた。
古い部分の「鎮龍脈永」と、新しい部分の文字が、同じ石の上に並んでいた。
何百年の時間が、一枚の石の上にあった。
「できました」
声が、少し小さかった。
コメントが流れた。
『できた』
『本当にやった』
『きれいに彫れてる』
『社守 七代 坂口諒』
『これ、何百年後の人が見るんだろうな』
諒はしばらく石碑を見た。
ネコチャンが石碑の正面に来た。
新しく彫られた文字を、鼻先で一度嗅いだ。
それから一歩下がって、石碑全体を見た。
長い時間、見ていた。
尻尾が四本、ゆっくり、ゆっくり揺れた。
「どうですか」
ネコチャンが諒を見た。
まばたきをした。
それから石碑に向き直った。
また、尻尾が四本、揺れた。
コメントが流れた。
『合格もらったんじゃないか』
『ネコチャンが認めた』
『社守、七代、正式に就任した感じがする』
山を下りてから、さくらにメッセージを送った。
『刻印の補修、終わりました。七代目として自分の名前も彫りました』
しばらくして返信が来た。
『え』
それだけだった。
少し待つと、続きが来た。
『それ、すごいことじゃないですか』
『どうかな。やるべきことな気がしたので』
『……次来たとき、見せてください』
『どうぞ』
それだけのやり取りだった。
夜のライブで、今日の作業をまとめた。
彫った文字の写真を映した。
コメント欄が静かに続いていた。
『社守 七代 坂口諒』
『これが残るんだな』
『何百年後かの誰かが見るんだよね』
『ネコチャンが認めた七代目』
古参の視聴者が書いた。
『最初の動画から見てましたが、ここまで来るとは思ってませんでした』
諒は読んで、少し笑った。
「俺も思ってなかったです。田舎暮らしとDIYのチャンネルだったので」
コメントが流れた。
『でも諒さんじゃないとここまでできなかった』
『DIYスキルがチートじみてるからなあ』
『ネコチャンに選ばれた人だと思う』
諒はネコチャンを見た。
縁側にいた。山の方を向いていた。
「ネコチャン、七代目、よろしくお願いします」
ネコチャンが振り返った。
一瞬だけ、諒を見た。
まばたきをした。
それから山に向き直った。
尻尾が四本、静かに、揺れた。
コメントが流れた。
『よろしくって言ってもらえた?』
『これで正式に社守だ』
『七代目、就任おめでとうございます』
ライブを終えてから、諒は縁側に一人で座った。
ネコチャンが隣に来た。
春の夜だった。
山が暗かった。
「社守 七代」
声に出してみた。
重たい感じはしなかった。
むしろ、何かが定まった感じがした。
「俺がやることは変わらないですね。祠に行って、供物を置いて、石碑を管理して。前からやってたことと同じで」
ネコチャンは答えなかった。
「でも、名前が刻まれると、少し変わる気がします。何が変わるかはわからないですが」
尻尾が一本、パタン。
「そうですね」
少し間があった。
「初代の社守は、どんな人だったんですかね。祠を建てた人だと思いますけど」
ネコチャンが諒の方を向いた。
金色の目が、暗がりの中で光っていた。
まばたきをした。
「知ってますよね、たぶん」
尻尾が一本、パタン。
「いつか、教えてもらえますか」
返事はなかった。
でも尻尾が、四本、ゆっくりと揺れた。
いつか、という意味かもしれなかった。
それで十分だった。
山の夜は静かだった。
奥の方で、何かが動いていた。
以前より、少し大きくなっている気がした。
でも今夜は、その気配より、手のひらに残っているノミの感触の方が、諒には鮮明だった。
「鎮龍脈永」
龍脈を鎮めて、永く保つ。
社守 七代 坂口諒。
それが、今日から自分の仕事だった。




