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第十七話「文字を刻む」

石工用のノミは、三本セットで取り寄せた。

刃幅が違う三本だった。細いもの、中くらいのもの、広いもの。石碑の文字は細い線で刻まれていたので、主に細いものを使うことになると思っていた。

ハンマーも専用のものを買った。石工用は重心が違った。普通の金槌より短く、重かった。

道具を並べてライブで見せながら話した。


「今日から刻印の補修に入ります。風化で薄くなった文字を彫り直す作業です。一番緊張する工程です」


コメントが流れた。


『いよいよですなあ』

『失敗できない作業ですね』

『石工の経験者います?』


石工経験者が数人現れた。


『最初は力を入れすぎない。ノミを当てる角度が大事』

『文字の輪郭に沿って少しずつ。一気に深くしようとしない』

『石の目を読んでから動かすといい』


「石の目、ですか」


『木材と同じで、石にも繊維の方向があります。目に逆らうと欠ける。まず表面を触って確認してから』


諒はメモした。

さくらから前日にメッセージが来ていた。


『古文書の続きが見つかりました。社守の記録がありました。週末に持っていきます』


週末まで、まず自分でできることを進めることにした。


裏山に上がって、石碑の前に座った。

表面を手のひらで触った。

ざらついていた。風化した石の感触だった。彫り物の溝は、指でなぞると輪郭がわかった。深いところと浅いところがあった。浅くなっているところが補修が必要な部分だった。

カメラに向かって話した。


「まず全体を確認します。どこが深くてどこが浅いか、指で確認しながら」


時間をかけた。

「鎮」の字は上部が比較的残っていたが、下部が浅かった。「龍」は全体的に薄かった。「脈」は左側が欠け始めていた。「永」は一番状態が良かった。


「順番としては、一番傷みの激しい『龍』から始めます」


ノミを当てた。

細いノミを、文字の溝に沿って置いた。

角度を確認した。石に対して、約三十度。

ハンマーを軽く当てた。

カン、と音がした。

石の粉が少し出た。

溝が少し深くなった。


「……いけますね」


コメントが流れた。


『器用さカンストかよ』

『もはやチート』

『石の目、読めてますか』


「チートじゃないです、性格とか、慣れとか、たぶんそういうのです。ちなみに触った感じ、縦方向に目があるように感じました。横方向に動かすより縦方向の方が素直に削れる気がします」


『正解だと思います。縦目の石ですね』


少しずつ進めた。

急がなかった。


「龍」の字一文字を丁寧に彫り直すのに、二時間かかった。


終わったところで、一度下りた。


「ふう…」


手が少し震えていた。緊張していた。


週末、さくらが来た。

封筒に入れた資料を持ってきた。


「図書館の司書さんに相談したら、別の棚から出てきました。郷土史の補足資料として綴じてあったもので、普段は閲覧しない棚に入っていたらしくて」

「よく見つけましたね」

「司書さんが熱心な方で。『こういう記録を探してる人は初めて』って言ってました」


封筒から、コピーを取り出した。

手書きのものだった。古い書体だったが、さくらが横に現代語訳をメモしてきた。


「これが社守の記録です。この地域一帯で、代々社守と呼ばれる役を担った家系があったらしくて。江戸初期から明治まで、少なくとも六代続いていたことがわかります」

「六代」

「一代を約三十年として計算すると、百八十年以上。この山の要石が建てられたのも、その社守の初代か二代目の時期と重なります」


諒は資料を見た。

さくらのメモを読んだ。


「社守の役目は、要石と祠の管理、定期的な清掃と供物の奉納、それから刻印の確認と補修。こういうことが書いてあります」

「刻印の確認と補修」

「定期的にやることとして明記されています。風化するものだから、定期的に彫り直す必要があるということが、最初からわかってたんですね」


コメントが流れた。


『へえ、最初から補修前提の設計だったんだ』

『だから社守が代々継いできたってとだね』

『諒さんが今やってること、社守がやってきたことそのものやん』


諒はその言葉を読んで、少し止まった。

社守がやってきたことそのもの。


「……そういうことか」


さくらが続けた。


「もう一つ気になることがあって。明治期の記録に、社守の家系が途絶えた記述があります。最後の社守が後継者を残せなかったと。それと前後して、要石の管理が途絶えたと思われます」

「それが、荒廃した原因の一つか」

「たぶん。その後、龍脈が深くに潜ったこともあって、誰も必要性を認識しなくなったんだと思います」


コメントが流れた。


『社守が途絶えて、要石が忘れられた』

『それで何十年も放置されたのか』

『でも龍脈が戻ってきた?』

『諒さんが来たのがデカい』


諒はネコチャンを見た。

ネコチャンは石碑の脇に座っていた。

さくらの資料を、見ているようないないような、そういう顔をしていた。


「ネコチャン、社守が途絶えてから大変でしたね」


尻尾が一本、ゆっくり、パタン。


「待ってたんですね、ずっと」


返事はなかった。

でも尻尾が四本、少し大きく揺れた。


さくらが資料を続けた。


「刻印の機能について、もう少し詳しい記述がありました」


現代語訳のメモを読んだ。


「『文字ハ単ナル記号ニアラズ。地脈ノ精気ニ対シ、人ノ意志ヲ伝エル手段ナリ。完全ナル文字ハ完全ナル命令トナリ、欠ケタル文字ハ欠ケタル命令トナル。故ニ補修ハ怠ルベカラズ』」


諒は読んだ。


「人の意志を伝える手段」

「そうなんです。文字を刻むこと自体が、龍脈への命令の更新になるみたいで。だから社守が定期的に彫り直していた。文字が薄れると命令が弱まる」

「今まさにやってることですね」

「そうです。しかも記述の続きに、補修する人間の意志が重要だと書いてあって」

「意志?」

「『補修ヲ行ウ者ハ、其ノ目的ヲ明確ニ持チ、作業ニ臨ムベシ。漫然ト彫ルハ意味ヲナサズ』」


諒は少し考えた。

目的を明確に持つ。


「龍脈を鎮めて、この地を守る。そういう意志を持ちながら彫れってことですか」

「そう読めます」


コメントが流れた。


『職人の心構えと同じだな』

『作業者の意識が結果に影響するってことね』

『諒さん、意識しながら彫ってましたか?』


「正直、丁寧に彫り直したいとは思ってましたが、そこまで意識してませんでした」


コメントが流れた。


『次から意識してみてください』

『むしろ諒さんなら自然とそうなってそうだが』


ネコチャンが諒を見た。

まばたきをした。

尻尾が一本、パタン。


「意識してやってみます」


さくらが帰ってから、諒は一人で裏山に上がった。

カメラを持っていった。ライブではなく、録画だった。

石碑の前に座った。

ノミとハンマーを手に取った。


「えーと」


誰もいなかった。

ネコチャンだけがいた。


「龍脈を鎮めて、この地を守るために、文字を補修します」


声に出して言うと、少し恥ずかしかった。

でも言った。

ノミを「龍」の字の続きに当てた。

先週の続きだった。

カン、と音がした。

今日は、なんとなく手の感触が違う気がした。

石の抵抗が、少し素直な気がした。

気のせいかもしれなかった。

でも気のせいではないような気もした。


「鎮」に移った。

下部の薄くなっている部分を、溝に沿って丁寧に彫り直した。

カン、カン、カン。

音が山の中に響いた。

鳥が一羽、その音に反応して飛び立った。

ネコチャンは動かなかった。

石碑の脇で、諒の手元を見ていた。

ずっと、見ていた。


「脈」に入ったところで、左側の欠けた部分に差し掛かった。

欠けているのは石そのものだった。

石が割れて、文字の一部が失われていた。


「ここ、どうしよう」


ネコチャンを見た。


「欠けた部分、補修材で埋めてから彫り直した方がいいですか」


ネコチャンが石碑の欠けた部分を鼻先で一度嗅いだ。

それから諒を見た。

尻尾が一本、パタン。


「埋めてから、ってことですね」


補修材は持ってきていた。

石材専用の補修材だった。コメント欄で教えてもらったものを取り寄せていた。

欠けた部分に少量を入れた。

硬化を待った。

その間、ネコチャンの隣に座って、山を眺めた。


五月の末だった。

山は緑が深くなっていた。

冬に来たときとは別の山のようだった。


「社守って、こういう時間を過ごしてたんですかね」


独り言だった。

山に向かって言っていた。


「代々、この山に来て、石碑を直して、供物を置いて。それを何代も続けて」


ネコチャンが諒の方を見た。


「あなたは、そのあいだずっとここにいたんですよね」


尻尾が四本、ゆっくり揺れた。


「長かったですね」


返事はなかった。

でも、ネコチャンが諒の方にわずかに体を傾けた。

ほんの少しだったが、寄ってきた。

諒はそれ以上何も言わなかった。

補修材が硬化するのを、二人で待った。


硬化してから、補修部分に「脈」の字を彫り直した。

今日で「鎮龍脈」の三文字が終わった。

残りは「永」と、左下の欠けた部分の追記だった。

カメラを止めて、道具を片付けた。

下りながら振り返った。

石碑が、夕方の光の中に立っていた。

彫り直した部分が、周囲より少し白く見えた。

新しい傷みたいだったが、時間が経てば馴染むと思った。


「今日はここまでです」


誰にともなく言った。

ネコチャンが隣に来た。

一緒に石碑を見た。

しばらく、二人でそこにいた。

やがてネコチャンが先に歩き出した。

山を下りる方向だった。

諒もついていった。


その夜のライブで、今日の作業をまとめて話した。

さくらが持ってきた資料の話もした。


「社守が代々やってきたことを、今俺がやってるんだなと思って。意識して作業しました。石の感触が、なんか違う気がしました。気のせいかもしれないですが」


コメントが流れた。


『気のせいじゃないと思う』

『なんか雰囲気あったもんね』

『社守の仕事、受け継いでる感じがする』

『7代目』

『もっと世代重ねてそうだけどな』

『諒さん、今日の作業の顔が違いました』


「そうですか」


諒はネコチャンを見た。

縁側にいた。山の方を向いていた。


「残りは『永』と、左下の欠けた部分です。次の作業で終わらせたいと思います」


コメントが流れた。


『完成したらどうなるか楽しみ』

『ネコチャンの反応が見たい!』

『社守、四代目の名前は結局わからずじまいですか』


「左下を彫り直すときに、もう少しわかるかもしれません。名前らしき跡があったので」


コメントが流れた。


『諒さんが彫り直すことで、名前が復元される可能性がある』

『胸熱だな』

『ちゃんと受け継がれるんだな』


諒はその言葉を読んで、少し間を置いた。

受け継がれる。

社守がやってきたことが、こうして繋がっていく。


「……ちゃんとやります」


コメントが流れた。


『頼んだ』

『ネコチャンも待ってる』


ネコチャンが振り返った。

一瞬だけ、諒を見た。

まばたきをした。

それから山に向き直った。

尻尾が四本、静かに揺れた。


深夜、布団に入ってから、諒はしばらく天井を見ていた。


社守。

おそらく明治期に途絶えた家系。後継者を残せなかった最後の一人。

その人は、何を思いながら要石の管理をしていたのだろう。

自分の代で途絶えるとわかっていたのか。

それとも、後を継ぐ者が現れると信じていたのか。

わからなかった。

ただ、何十年も誰も来なかった要石に、今こうして人間が来ている。


足元が重かった。ネコチャンがいた。

金色の目が、暗がりの中で光っていた。


「社守って、あなたのことも知ってたんですかね」


尻尾が一本、パタン。


「そうか」


少し間があった。


「俺も、社守みたいなもんですかね」


返事はなかった。

でも、ネコチャンが布団の端から少し上がってきた。

いつもは足元だった。

今日は、腰のあたりまで来た。

重みが、いつもより上にあった。

諒はそのまま目を閉じた。

山の夜は静かだった。

どこかで梟が鳴いていた。

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