第七七話 陸王を殺すために雷韋を殺す
シリアの悲しげな眼差しが紫雲へと向けられる。
「対とはそういうものです。白虎は青蛇に出会っていないからまだ分からないのです。対とは絶対のもの。特に貴方達はほかの対とは違います。魂自体が人族とは違うからです」
「確かあの二人は完全な陰と陽だと。昨日、龍魔さんに見せられました。それと関係があるのですか?」
「えぇ、あります。太陰と太陽は、互いに陰陽を知らないのです。本来なら僅かばかりある陰と陽がないからです。
だから、互いに執着する。己の中にないものだから、必要以上に執着します。出会ったが最後、あの二人は離れられません。意思ではなく、本能で離れることを拒むのです。特に黒狼は、自分を高位の魔族だと思っています。それがずっと引け目だったのです。もし赤獅に知られたら最後、嫌われると思っていましたから。
ですが、離れられないのです。赤獅が黒狼の正体を知ったとき、貴方もその場にいましたよね」
「えぇ」
答えた紫雲の心がちくりと痛んだ。どうしてかは分からない。もしかしたら、あの二人の心の内を想像したからかも知れなかった。
「赤獅は黒狼の正体を知っても、離れようとはしませんでしたでしょう? 赤獅の中で、ずっと前から決まっていたんです。絶対に離れないと」
「確かにそんなことを言っていましたが、それでも、種族として放っておくのは危険です」
「お忘れですか? 自分達が四獣だということを。黒狼はどんなことがあっても、赤獅を粗末には扱いません。黒狼が恐れることの一つに、赤獅が傷つくこと、と言うのがあります。それは心身共にです。赤獅の身に傷がつくことも、赤獅の心が傷つくのも怖いのです。
黒狼にとっては、赤獅が全てです。だから、黒狼は赤獅をもう二度と、傷つけない。正体を知られてしまった以上、これからは嘘も偽りも赤獅にはなしです。ただこの先、赤獅を護るために嘘をつくことはあるかも知れませんが」
「そんなに絶対のものなのですか?」
「互いがいなければ生きていけないくらいには」
紫雲はそれを聞いて「そんな馬鹿な」と思ったが、シリアの銀緑色の瞳はどこまでも真剣だった。その瞳には嘘も偽りもない。彼女が本気で言っているのだと分かる。陸王と雷韋の関係性を。大げさなことは一つもなく。
であるなら、紫雲は自分自身の処し方に迷った。どう考えても、陸王と紫雲は敵対する。紫雲にとって陸王は何があろうとも、殺す対象なのだ。だがそうしたとき、雷韋も道擦れで死んでしまう。それ以上に、四獣だとも言うのだ。一人拒否しただけで均衡が崩れると。四獣がいなくなれば、羅睺は嬉々として動き出すだろう。自分を殺めようとする陸王もいなくなるのだし。
だったらどうする?
紫雲は席に着くこともなく、立ち尽くしたまま考えた。
自分と陸王の間に蟠りがなくなれば、それでいいのか? どうやって。陸王は高位の魔族よりも高次元の生物だということが分かっている。羅睺の直系なのだから。その陸王は羅睺を殺す定めを負っているとも言う。そのために、羅睺は少しずつ心を病んでいった。
その羅睺を殺すことが出来るのが陸王だ。何もかも、始めから決まっている。
それ以上に、四獣が光竜の懐より排出されたのは、羅睺が世界を破壊しようとするからだ。羅睺が狂うから、四獣が排出されたのか、陸王という父親殺しの子供が生まれるから羅睺が狂っていったのか。
まるで鶏と卵だ。
それでもどのみち、陸王自身は羅睺とは相対しなくてはならない。血縁のあるなしに関わりなく、羅睺は既に狂っている。四獣が解き放たれたのがそのためだというのなら、その通りにしなければならないだろう。その役目を務めるのなら、陸王と反目し合っていては駄目だ。
そう頭では理解出来るが、感情がまだついて行ってくれない。それはおそらく、陸王もだろうと思った。
己が何者なのか、なんのために生まれたのかを知らされれば、混乱する。雷韋も同じくだ。いきなり神だと言われても理解出来るわけがない。理解はしても、戸惑うだろう。どうしていいのか分からなくなるだろうから。少なくとも紫雲はそうだ。感情の処し方が分からない。思考と感情が折り合わないのだ。
「白虎は黒狼のことを知らなすぎるからでしょうか」
シリアが急にぽつりと口にした。
「あまりにも人となりを知らないところへ、黒狼の正体が知れてしまった。ですが、敵対するにも、白虎では黒狼をどうすることも出来ませんよ。力の差は歴然としています。それは神代の頃から、です。それに昨夜、龍魔殿からあの二人の様子を見せて貰いましたでしょう? 黒狼は何か悪いことをしましたか? 人を襲ったりなど。赤獅にまた手を上げていましたか?」
紫雲はその言葉に、いいえ、と首を振った。
「魔族らしいことは何も」
「そうでしょう。彼は人として長い間生きてきたのです。魔族の本能を曝け出して生きたことはほとんどありません。そんなのは小さな頃くらいです。それに元々が高位の魔族よりずっと高次元の生き物ですから、魔族よりは理性が働きやすいのかも知れませんね」
紫雲は立ち尽くしたまま、足下を見ていた。高位の魔族よりも高次元の生き物だとすれば、理性のあり方もより人に近くなるのか? そんな思いが胸中で膨らむ。だとしたら、やっていけるのか? もし四獣だということを知らせて、それを陸王と雷韋が飲み込めば。
そこで、いや、どうだろうと思った。紫雲だって未だに実感がないのだ。それでも、様々なことを見せられ、聞かされた。否定することすら億劫になるほど。それでも紫雲の中の理性が言うのだ。全てが本当のことだとしたら、この世界は大変な危機に瀕しているということになる、と。
羅睺がいつ破壊を始めるか分からないのだ。
魔族の王となった今、闇の神と対峙できるのは陸王だけだという。だから、陸王の命を狙ってくる者があれば、雷韋と共に護ってやらなくてはならないのだ。いや、護られるよりも、降りかかってくる火の粉は全て自分で払うのではなかろうか。その可能性の方が遙かに高い。あれは黙って護られるような男ではないと思うからだ。
そんなことを考えると、ふっと身体から力が抜けて、気が付けば再び椅子に腰を下ろしていた。
その様子をシリアは黙って見ている。卓上に置いたカップを手に取って、一口お茶を飲むとシリアは語りかけてきた。
「気持ちの整理はつきましたか?」
紫雲は嘆息して、そこでやっとカップを手に取った。すっかり温くなったお茶を一口、二口と飲む。飲み口ががすっきりしていて、なのに香りは芳醇だった。レモングラスの強めの味とミントの爽やかさに加えてカルダモンの香りが調和していて、とても飲みやすい。それを味わってから短く答える。
「頭では」
紫雲の言葉に、シリアは小さく笑った。
「これまでずっと魔族は貴方の敵でしたね。ですが、黒狼は違います」
「それでも、感情としては受け入れがたい。あの紅い瞳は、やはり魔に連なる者の証です」
「そんなに黒狼のことが憎ければ、赤獅を殺してご覧なさいませ。貴方には黒狼を殺すことは出来ませんが、赤獅なら殺すことが出来ます。そして、結果的に黒狼を殺すのです」
紫雲はシリアを見た。信じられないものを見る目で。
「雷韋君を殺せと言うんですか? なんの罪もないのに」
「先ほども言いましたが、本気で黒狼を殺そうと思ったなら赤獅を殺すのが一番早い道です。あの二人は出会ってしまった。魂は強く惹かれ合っています。その状態であれば、赤獅を殺せば黒狼も長くは保ちません。どうしても黒狼を魔族として許せないのであれば、それが一番です」
仮に、と付け加えて、シリアは紫雲の暗褐色の瞳を見据えた。至極真面目な顔で。
「黒狼をどうにかして殺したとしましょう。その場合でも、赤獅は死にます。そこにあるのは、先かあとかの違いだけです」
「私は雷韋君を殺そうとは思っていません」
「ですが、黒狼が死ねば、赤獅も引き摺られて死にます。魂がそうできているのはご存じでしょう?」
「それは……」
紫雲は苦しげに眉を寄せて、俯いた。
魂は必ず対になっている。どちらか一方が死ねば、残された極も死ぬ。それは必定だ。逃れられない運命。決して曲げることのできない魂の条理。
「私には雷韋君を殺すことなど出来ない。なんの罪も犯していないあの子を殺したいとも思わない」
「でしたら、黒狼を認めてください。心情として、始めから仲間意識を持てとは言いません。けれど、少しずつ分かり合って欲しいのです。黒狼も、白虎を始めから仲間とは思わないでしょう。今生では種族として、役割として、敵対する者同士ですから」
それを聞いて、紫雲は固く目を瞑った。
固く目を瞑ったまま、紫雲は言う。
「それはとても難しい問題です」
「だからこそ、努力をしてください。誰よりも先に白虎を光竜殿へ連れてきたのは、そのためなんですから。白虎は天主神神義教の中で育ち、人間族として長く生きすぎました。それを一番に払拭するために来て貰ったのです」
「龍魔さんには、偏った考え方を正すためにと言われました。私はそんなに頑固で傲慢なのでしょうか。人間族とはそこまで?」
紫雲は顔を上げてシリアを見た。どこか思案深げに。
それを受けて、シリアは少し顔を傾けた。
「傲慢と言うより、やはり差別的でしょうか。天主神神義教がとても差別的なので、その中で生きてきたのですから、それはどうしようもないのでは? それを直す、直さないではなく、なくすべきとは思いますが」
「なくす」
シリアの言葉尻を紫雲は鸚鵡返して、言う。
「意識せず身についてしまったものを、なくすことが出来ると思いますか?」
「黒狼と赤獅と共にいれば、いずれは。あの二人は何にも縛られていませんから。白虎は逆ですね。色々なものに縛り付けられている。人間族の考え方、これまでに生きてきた中で身についてしまったものがあまりにも多すぎます」
「それはやはり、天主神神義教のせいなのでしょうか」
「それは大いにあるでしょう。人間族の通念のようなものにも囚われています。獣の眷属から見たら、それが傲慢に映るのかも知れません。それを気にするということは、獣の眷属である龍魔殿に『傲慢だ』と言われたのでしょう?」
「えぇ」
「精霊のわたくしから見たら、白虎はとても不自由に映ります。これまで不自由な生き方をしてきましたから、そのせいでしょう。ですが、もうそれが当たり前で、不自由とも感じてはいないのでしょうね」
「そんな風に見えますか」
「えぇ、とても。四獣にはかつてと同じように、あるがままに生きて欲しいと思います」
「どう生きればいいのでしょう」
そこでシリアは小さく頷いた。
「しがらみから解かれるには、しがらみのない黒狼と赤獅の元へ行けばいいのではないかと」
「あの二人の元へ?」
紫雲は半ば訝しげな風になった。




