第七八話 遣り切れない決断
紫雲の訝しげな顔つきがおかしかったのか、シリアはふふっと小さく笑う。
「人ですから、個々人としてはそれなりにしがらみはあるでしょう。実際に、黒狼には羅睺というしがらみがあります。ですが、それは黒狼が生まれ持った使命なのです。第一、羅睺の問題は黒狼だけでなく、四獣それぞれに関わりがあります。一方で、白虎から見れば、黒狼も赤獅もしがらみなどないに等しい二人です。ですから、あの二人とこれから共に行けばいいでしょう」
「それで解決すると?」
「わたくしはそう思います。白虎が黒狼に対して複雑な気持ちを持っているのは承知で、わたくしはこう進言します。共に行けばよいと。それが一番の近道だから」
「そうでしょうか」
紫雲はどこか諦めたように、そう口にした。口にはしたが、それでもまだ諦め切れなかった。心が決まりきらないのだ。陸王の種族を考えれば、それは仕方ないことだ。これまでの紫雲が生きてきた経緯を考えればそれは当然だった。
なのにシリアは、その考えを綺麗さっぱり忘れろと言っている。紫雲にとって、とても難しいことでもある。それでも無理筋をとおせと言われた。頭の中が滅茶苦茶になる。これまでの考えを根底から覆さなくてはならないからだ。価値観の全てを叩き壊さなければならないと言うことに、紫雲は困惑し、混乱する。
価値観を壊すと言うことは、簡単ではない。それはこれまでの自分を全否定することと同義だからだ。だからこそ簡単ではない。
しかも、陸王の存在も紫雲の考えも、どちらも間違いではないのだ。けれど、両立しない。間違ってはいないのに、方向性が違うためにどちらも立つし、どちらも立たない。正反対であるために、紫雲には素直に理解することが出来なかった。
いや、理解出来ないのではなく、理解したくないのだ。
正直に言えば、理解することは業腹だ。
あの陸王をと思えば尚更だった。
何しろ、陸王とは出合い頭からして最悪だったからだ。相席をさせて貰ってすぐに陸王は席を立った。あれは陸王の独占欲を大きく揺るがすものだったろうし、修行僧と顔を突き合わせて食事をすることにも抵抗を覚えたのだろう。だから、紫雲も陸王が宿舎にやって来たときに、これ見よがしに挑発した。頭ごなしに雷韋に関わるなと言われる筋合いはない。確かに雷韋は陸王の対かも知れないが、それをとって会うことすら阻まれるのは理解に苦しむ。
対を持たない紫雲には、対を持つ者の気持ちが分からない。それを陸王に言われもした。けれど、分からないものは分からないのだ。
いや、そもそも僧侶として教会で寝起きをしていた頃は、対が番になるところを何度も見ている。対の男女が夫婦になり、天慧の御前で生涯を誓う姿を数多く見てきた。番になることは理解出来ても、対の重要性というものがまるで分からないのだ。それがどんな気持ちを湧き上がらせるか。
「対を持つ者の気持ちが分からない。それでもいいのでしょうか」
俯きがちに紫雲は言った。そんな彼に対し、シリアは静かに頷いてみせる。
「いずれ、青蛇が目を醒まします。理解するのは、その時でよいとわたくしは思いますよ。決して、遅くはありません。第一、対を持たぬ者に、対を持つ者の気持ちを分かれと言っても詮ないことです。それはどんなに想像しても追いつかない気持ち。理解出来なくて当然なのですから。黒狼と赤獅の姿を見て、勉強させて貰えばいいのではないでしょうか。青蛇に出会ったら自分がどう変わるのか、朧にでも分かるのでは?」
「それはとても難しいことですね」
眉根を寄せ、紫雲は目を瞑る。
「難しいからこその勉強です。きっと白虎にとって、有意義な結果をもたらすことになると思いますよ」
「『有意義な結果』、ですか」
目を瞑ったまま言うと、紫雲は口元を自嘲に歪めた。そして続ける。
「私は彼らと出会って日が浅いです。雷韋君を殺したいとは思いませんが、あの子をそれほど信用しているわけでもない。それでも信じろと?」
「時期が悪かったのは確かです。ですが貴方達は出会い、そして魔族が動き始めました。龍魔殿は真相を伝えるのは今しかないと考えたのです。
本来ならば、もう少し時間が経ってからの方がよかったのですが、魔族が動き出してはそうも言っていられません。黒狼の正体が貴方達に知られてしまう。それを考えれば、今しかなかったのです、本当に。それをどうか察してください」
「そう言った言葉が重なるたびに、混乱していきます。何を信じて、誰を信用すればいいのか分からなくなる。同時に、何を疑って、誰に注意すればいいのかも分からなくなります」
「白虎」
案じるようなその声に、重い溜息をついて紫雲は瞼を開ける。
瞼を開けると、紫雲は言った。
「ですが、もういいです。これから私の身に何が起こるとも知れませんが、時間がないのですよね。色々と。だから今のこの時期に私をここへ連れてきた。だったら、向き合うしか私には手がないじゃないですか」
「そうですね。時間をあげられなかったのはわたくし達の落ち度です。それはいくらでもお詫びしましょう。ですが、これ以上は何を言っても堂々巡りになります。分かってください。……ごめんなさい」
シリアは視線を俯けるようにして、そう言うのが精一杯という風だった。
実際、彼女らにとっても、紫雲のこの時期というのは全く間の悪いものであったのだろう。それはシリアが言っていたとおりでもある。
本当なら、もっと信頼関係が構築されるまで時間をおいた方がいい。だが、それは出来なかった。魔族の動きと紫雲が陸王達の前に現れた時期が、一緒くたになってしまったからだ。それは彼女らの責任ではない。飽くまでも間が悪かっただけだ。そのことは紫雲にも理解出来る。
どうしようもなかったのだと。
だから、紫雲はもうこれ以上考えるのを諦めた。目の前の現実に対して、嫌だとばかり言っていられない。目を逸らした分だけ、何かが悪い方向へ転がる気がする。だから、自分の気持ちをもう考えない方がいいと思った。だったらいっそのこと、現実を見据えるだけにしようと。
紫雲は再び立ち上がると、シリアに陸王達のもとへ戻りたいと伝えた。
彼女は頷き、
「龍魔殿かガライ殿のどちらかが、黒狼達の近くに転移の門を開けるはずです」
そう言って、紫雲と同じように立ち上がる。
「転移の門をどこにでも開けるとは、よく出来ていますね」
やや、嫌味な言い方をする。それでもシリアは小さく笑うだけで、気分を害することはなかったようだ。それどころか、優しい笑顔を見せる。
「あの二人にとって、世界のどこに転移の楔を打ち込んだかを覚えることなど児戯に等しいのです。それだけ長い間、この世を見てきたということでもありますが」
優しい笑みの中に、ほんの少しだけ切なさが滲んだ。
その笑顔の意味は、この世界にとっての良いことも悪いことも見てきたという意味だった。世界を見守り、時には流され立ち止まり、それぞれの思いが積み重なっている。そう言う意味の笑顔だ。
紫雲には計り知れない時の中を生きてきた者達の軌跡が、転移の楔となって現れているのだろう。実際、龍魔は世界のどこにでも転移の門を開くことが出来ると言っていた。それも長い時をかけてきたからこそ、出来たことなのかも知れない。
それを思うと、膨大だ、と思う。
彼女らの生きてきた時間が。
その時、唐突にシリアが紫雲に向けていた顔を別の方向へと向けた。紫雲もあとを追うようにして、シリアの向いた方向に顔を向ける。
向いた先、丘の麓には龍魔とガライが立っていた。ここまで紫雲がシリアに連れられてきた、天蓋の通路の出口に立っているのだ。
それを見て紫雲は瞬時に、シリアに自分の身の振り方を決めさせるよう龍魔が仕向けていたのかも知れないと思った。
飽くまでも勘でしかないが、そんな気がする。
シリアが三人の中で一番当たりが柔らかいだろうからだ。諦めからであろうが、現実と向き合うように仕向けられていたのかも知れないと思うと僅かばかり腹が煮えたが、すぐにそれは新たな諦めに取って代わった。
どうであろうが、掌の上なのだ。
彼女らは無駄に長い時を生きていない。頑固な石頭をどうやって懐柔すればいいか、龍魔もガライも事前に考えていたのだろう。そのための緩衝材として、役割はシリアが担うことになったのだ。
これまで自分達を見てきたと言っていたが、本当によく自分のことを知っていると彼は思った。打ち込んできた楔を一つ残らず覚えているように、紫雲をどう懐柔すればいいかなど、それこそ児戯に等しく簡単なことだったろう。
これまで現れたという四方神達も、この三人によって懐柔され、掌の上で踊らされていたのかも知れない。取り違えという不幸が起こったことは、彼らにもどうしようも出来ないことだったかも知れないが。それとも、この三人なら取り違えも含めて、全てが掌の上のことだったのか? 世界が滅びる危険さえあったというのに?
紫雲には、彼らが何をどこまで考えているのか、全く読めなかった。だからシリアに問うた。
「教えてください。貴方達は何を考えているのですか」
その問いに、シリアはきょとんとした顔をする。
「『何を』とは?」
「全てです。私が現実と向き合うように仕向けたでしょう。この場合、貴女が私の混乱のはけ口となったように」
紫雲の言葉の中に怒りを感じたのか、シリアは薄く笑う。
「全ては光竜の思うままにです。白虎に時間がなかったのも、光竜の定めたところでしょう。申し訳ないとは思っていますが、わたくし達はそれを受け入れて、貴方にもそれを受け入れて貰わなければならなかっただけです」
「長く生きている分だけ、役者が上ということですか」
紫雲は目を眇めてシリアを睨み付けた。しかし、それも笑みに受け流されてしまう。
「わたくしは白虎と話をしていて、一つも嘘は言っていません。全て事実を言いました。その上で、白虎は現実と向き合うと決めてくれたのでしょう?」
「貴女達の役者ぶりは凄いですね。それが『魂を選定し、管理の名の下に時に縛り付ける者』と言う貴女の役割ということですか」
「そうですね。ですから、白虎の言葉はお褒めの言葉と受け取っておきます」
そう言って、笑みを深くする。その様は、紫雲の方が晴れ晴れとするくらいさっぱりとしたものだった。はっきり言って、毒気を抜かれた気分だ。
「それでは参りましょう。鏡の間へ」
鏡の間とは、あの銀色に輝く水盤があった部屋のことだ。
「転移の門を開くためにも、黒狼と赤獅が今どこにいるのか知らなければなりません」
「あの水盤なら、彼らを映し出せるということですね」
「その通りです。あの二人がどこにいるのか分からなければ、転移の門を開くことも出来ませんから。それに、白虎の服も修繕してあります。旅を続けるにあたっても、着替えた方がいいでしょう」
そう言うだけ言って、シリアは足先を龍魔達の方へと向けて歩き出した。
紫雲は深い溜息をついてから、精霊のあとを追うしかなかった。
これ以上を考えるのは、正直馬鹿らしいとさえ思ってしまった。おそらく無駄な思考になるのだろう。
本当に提示された事実だけを見なければ、馬鹿馬鹿しくてやっていられない。




