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第七三話 育たない少陰

 紫雲(しうん)は、握った己の拳を見つめてから、それを下ろした。


 認めるのか? と心の声がする。今聞いた話を信じるということは、自分達が、いや、陸王(りくおう)が四獣(しじゅう)の一つであると認めることだ。心の中ではまだ、陸王を滅すべしとの声が上がっている。魔族は放ってはおけないのだ。例え、羅睺(らごう)という神の直系の子供であったとしても。


「紫雲、水盤を覗き込んでみな」


 唐突な龍魔(たつま)の声。沈思していた紫雲ははっと顔を上げた。


「今度は何を見せるつもりですか?」

「覗いてみてのお楽しみだよ」


 紫雲は訝りながらも水盤を覗き込んだ。


 そこにはもう陸王と雷韋の姿は映っていなかったが、獣人の顔が映り込む。顔を覆う白い体毛。その中に黒い毛が混じり込んで、頬や頭の方から縞模様を作っている。瞳は金色だった。


 何が映り込んでいるのか理解出来ぬまま、紫雲はじっと水盤を見つめる。よくよく見ようと瞬きをして、僅かに水盤に顔を近づけた。すると水盤の中の獣人も瞬きをし、顔を僅かに近寄せる。


 と、獣人が自分と同じ動きをしたことに気付いて、はっとした。同時に、紫雲の中に警戒心が湧き上がる。その警戒心を表すように、獣人の丸く小さな耳が寝そべった。まるで猫が威嚇でもするかのように。


 ばっと顔を上げ、龍魔を見ると、女は目元と口元を笑ませていた。


「今のがなんなのか分かったかい?」


 紫雲は無言で龍魔を見る。

 心底から警戒心を露わにして。


 その様がよほどおかしかったのか、龍魔は出来の悪い子供を窘(たしな)めるように決定的な言葉を放った。


「今のがお前の真の姿、白虎だよ。白虎は獣人の姿だったんだ。瞳も金色をしていただろう? 神の瞳さ」

「今のが、私だと?」

「そうさ。今のがお前の本来の姿だ。驚くことはない」


 その言葉に紫雲は短く息を吐き出した。それは思わず出たものだ。いきなり獣人の姿を見せられて、それが自分の本来の姿だと言われても到底信じられない。第一、驚くなと言う方が無理な話だ。


 その反応をどう取ったかは知らないが、龍魔は忠告するように言葉を口にした。


「お前には悪いが、青蛇(せいじゃ)の姿は見せられない」


 紫雲は無言で龍魔を見つめた。何故そんなことを言うのかと訝しんだのだ。


「青蛇の姿を見れば、例えそれが獣の姿であったとしても、お前の魂は一方的に惹かれる。何もかも放り投げて、青蛇殿(せいじゃでん)を探しに行くだろうね」

「まさか」


 紫雲は半笑いの態(てい)で言った。

 馬鹿らしいとばかりに。


「いいや、冗談でもなんでもないよ。間違いなくそうなる。お前達四獣の魂とは、生命懸けで欲するものだからだ。人族として生まれ落ちながら、人族とは根本的なところ、魂の次元というものが違うんだよ」

「そんな大げさな」


 あまりにも馬鹿らしくて、紫雲は苦笑と共に言う。

 だが、龍魔は至極真面目な顔をしていた。


 龍魔の真剣な面差しから、紫雲はやがて、その言葉が冗談でもなんでもないと思わざるを得なくなった。龍魔の顔に、全く余裕がなかったからだ。これまでは余裕を持って受け答えしていた龍魔が、今だけは真剣な顔をしている。


 そこで紫雲は考え込んでしまった。

 自分がなんなのか、陸王と雷韋(らい)がなんなのかを。

 認めるべきなのか、馬鹿らしいと鼻で笑っていいのかも分からない。


 だとしても、龍魔がわざわざ自分をこんな場所に連れてきたと言う事実がある。これまでの話に矛盾がなかったことや、理屈が通っていたことも看過できない。

 これが巧妙な作り話だとして、龍魔やシリアにどんな益があるというのか。それに対しては、益など何もないだろうと思うのだ。彼女らの正体、存在がどんなものであれ。

 だが何故、自分に話したのだろうかとは思った。今回の話は、陸王を羅睺から護れという話から端を発している。そこから、羅睺と陸王を対峙させなければならないこと、陸王を始め、雷韋も自分も四獣だということまでが地続きなのだ。


 目の前にある水盤で、陸王と雷韋の様子を見せられもした。

 彼らのかつての姿や魂までも。

 同じく、本来の自分の姿も。


 それらを考えると頭が混乱してくる。いきなり色々な話をされて、精神的な疲れも感じていた。


 一度、どこかで頭を冷やしたかった。神殿(ここ)ではない別のどこかで。


 それを見越したように龍魔が声をかけてきた。


「疲れただろう。一遍に色々なことを告げられて。それを認めろと言われて。そうさね、今夜はこのくらいにしておこう。お前も考えたいことがあるだろうから。でもね、忘れないで欲しい。お前がいくら陸王を嫌おうと構わない。それでも陸王は人として長い間生きてきたんだ。人族と同じ感情を持ってね」


 紫雲が龍魔に目を遣ると、彼女は口の片端を引き上げた。


「それから最後に、これだけはお前に見せておきたい」


 そう言って、紫雲の胸をとんとんと指で叩く。


「ガライ、頼むよ」


 その言葉に、え? と思った。思ったと同時に、背後に人の気配を感じて振り返る。


 いつの間にか、背後には紫雲と同じくらいの上背の男が立っていた。獣の眷属らしく耳は尖っている。長い髪は灰色をしているが、闇の妖精族(ダーク・エルフ)ではなかった。肌も浅黒くはなく、瞳は深い琥珀色をしている。体躯は、身に纏った服の上からでも鍛えられていることが分かった。


「貴方は……?」


 思わず言葉が口をついて出たが、男は何の感情も見せない瞳で紫雲を見遣り、片手を紫雲の胸元へ宛がった。


 男が紫雲の胸に手を宛がった途端、紫雲は急に息苦しさに襲われた。それどころか、立て続けに目眩にまで見舞われる。ほんの数秒で、立っているのがやっとの状態になった。自然、水盤の卓に後ろ手に片手をつく。


 それなのに、男は紫雲から手を引こうとはしなかった。いや、それどころか逆に、胸の中に手を突っ込んでいる。なのに血は流れていない。手を当てていた場所に掌を押しつけると、そのまま胸の中に沈んだという感じだ。


 紫雲はそれさえも理解出来ずに、苦しさに喘ぐ。


 男の手が更に沈んで、その腕に、ふと力が入った。


 紫雲はそれに合わせて苦鳴を上げそうになったが、堪えた。その紫雲の胸から男が手を引き抜くと、ふっと身体から力が抜ける。だが、頽(くずお)れたりはしない。なんとか堪えて、大きく息を吐き出す。まるで苦痛が去ったあとのように。


 男は紫雲の中から引き出した手を、紫雲の眼前に突きつけた。


 紫雲はそれを見て、なんだと訝しく思う。


 男の手にあったのは、直径が三〇センチほどの光の球だった。けれど、根源魔法(マナティア)で顕(あらわ)したような光の球ではない。球体の中央が暗くなっているのだ。その大きさは一〇センチにも満たない。だからと言って、光の球に穴が開いているわけでもなかった。ただそこが別の、暗い光を放っているのだ。つい最近、その光り方をどこかで見た。少しふわつく紫雲の頭の中で、大きな光の球と暗い光の球が一瞬過(よぎ)っていく。はっとした。


 最近見たのではない。


 ついさっき見たばかりだ。


 それは陸王と雷韋を覆っていた、光と闇の球体だった。

 目の前に突きつけられた光の球は、それが合わさったような姿をしているのだ。


 それまで無言だった男が声を発した。


「これはお前の魂だ。これまでお前が朧に感じていた少陰だ。だが、対に出会えていないせいでまだこんなに小さい」


 それだけを無感情に言うと、男は光の球を紫雲の胸に押しつけた。瞬間息苦しくなったが、すぐにその違和感は消え去った。目眩も苦しさも、何もない。男の手からも光の球はなくなっていた。思わず光の球を押しつけられた胸元を触ってみたが、そこにはなんの違和感もなかった。ただ自分の身体があるだけだ。


 顔を上げて、紫雲は男に問う。


「今、一体何をしたんですか」

「お前の魂を引き出した」


 そう言う男の声音にも表情にも、どこにも感情らしきものが含まれていなかった。微塵もだ。


 そんな男から、紫雲は酷く無機質なものを感じていた。人として、どこか不気味に思えるような。


 そこに龍魔が声をかけてきた。


「ちゃんと自分の魂は見たね?」

「あれは本当に私の魂なんですか?」


 振り返って龍魔に問うと、彼女は頷いた。


「嘘偽りなく、お前の魂だ」

「ですが、魂が可視化されるなんて」

「陸王と雷韋の魂も見せたじゃないか」

「あれは……貴女の見せたまやかしでは?」


 訝しげに言ってくる紫雲に、龍魔は小さく笑う。


「まやかしじゃあない。本当のことだよ。いずれ、お前も青蛇と出会えば、魂の力も強くなり、形も大きくなってもとの大きさに戻るさ。なろうと思えば、いずれお前達は獣の姿にもなれるよ。光竜という巨大な獣神(けものがみ)の下にいる小さな獣神だからね。黒狼なぞ、よくその背に赤獅を乗せて世界を駆けていたらしいよ」


 紫雲は視線を俯けて、少しの間考えていた。ここでは常識が通じないなどと。既に、いや、完全に紫雲の理解の埒外のことが起こっているのだ。そう思うのに、頭のどこかでさっきの光の球のことを思っていた。


 少陰とはあのような形をしているのか、などと暢気に。


 その裏では、いい加減、色々なことがありすぎて、神経が麻痺し始めているのかも知れないとも思っていた。


 静かな混乱に意識を明け渡そうとしている紫雲に、龍魔は再び声をかけてくる。


「紫雲。今日、ここで見聞きしたことは決して忘れるんじゃないよ」

「私はまだ、貴女の言ったことを信じたわけではないんですよ」


 視線を上げて龍魔を見る。


「けど、信じかけているだろう?」

「それは……、なんと答えたらいいのか分かりません」


 龍魔があまりにも真っ直ぐに紫雲を見つめるので、彼は暗褐色の目を逸らして答えた。


 それでも龍魔は紫雲から目を逸らさず、碧の瞳で完全に見据えていた。

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