第六二話 結界突破
少しずつリースの叫びが遠くなっていく中で、龍魔はいきなりそれを感じた。いや、この神殿にいる巫女なら、皆気付いたはずだ。
大地の精霊が、勝手に神殿に結界を張ったのだ。それも強固な結界だった。大地を表すように、固く強い結界だ。
その出来事に、龍魔も意識を外へ引っ張られた。ここは既に結界が巡らされて、外界との繋がりは基本的にはない。繋がっている場所があるとするなら、光竜殿と迎賓館へだけだ。結界で護られている神殿では、根源魔法の転移の術も使えない。
新しく張られた結界だが、大地の精霊魔法で結界が張られたわけでもなかった。この結界は精霊の意思によって張られたものだ。他者の意思介入はないと断言出来る。大地の精霊は蛇人族の守護精霊だから、この神殿の誰にでも分かる。
「エイザ、お前のことは後回しだ。それどころじゃなくなった」
「龍魔様!」
外に向かって走りだした龍魔の背中にエイザの声が叩き付けられたが、そんなものを相手にしている余裕はない。今は神殿から出て、表の様子を確認しなければならないのだ。
何がどうなっているのかを確認しなくては。
廊下を外に向けて駆けていくと、途中途中で仕事をしていたと覚しき巫女達が、皆不安そうな顔で天井の更に上、屋根の上の空にまで視線と意識を馳せているようだった。
途中まで来て、龍魔は何かおかしなことに気付いた。何かが急速に神殿へ向かって近づいてきているのだ。まるで、何かの塊のような。それの正体は知れなかったが、とにかく急速に神殿へと近づいてきている。
そうして、あっと思った瞬間、幾重にも重ねた硝子が叩き割られるような甲高く硬質な音が衝撃波を伴って神殿を襲った。瞬間的な出来事だったが、龍魔は身体の均衡を崩して倒れそうになった。慌てて傍の壁により掛かり、身体を支える。同時に、巫女達の悲鳴がいくつも重なった。
神殿を襲った衝撃波は大きく神殿を揺らしたが、それ一度きりだった。
それよりも、甲高く硬質な音の方が厄介だった。耳にじんじんきて、正常な音が聞き取りづらい。耳が聞こえにくいのは時間に任せるしかないが、龍魔は何か怖気を感じた。半分以上は大地の精霊達がざわついていることによるものだ。
精霊の声は聴覚で聞くものではないから、耳が聞こえにくくとも正常に感じられる。
怖気の半分はそのまま不快感に変わっていく。身体の内面に鳥肌が立って、それを撫でられるような不快感なのだ。
何が起こったか分からないが、とにかく、外だ。
外に出ないことには、正確なことは知り得ない。
龍魔はそう判じた。
寄りかかっている壁から身を離し、身体に感じる不快感をそのままにして、龍魔は神殿の外へと躍り出た。
目の前には庭園が広がっている。庭園は広く、地平の果てまであるように見える。しかし背後に山を背負い、周囲を霧で隠された森があるため、遙かな地平のように見えるだけだ。広いとは言えども、実際には周りは囲まれて限りがある。
龍魔は心を落ち着けて空間を見渡した。結界を挟んで、空が見える。宙にまで大地の精霊が結界を張っているが、それは透明なため、空がそのまま見える。その結界を何かが突き抜けたような気がするが、もう精霊が結界に開いた穴を閉じてしまっている。だから、それ以上の異変は感じられない。
注意深く、龍魔は庭園を見て回った。低い垣の向こうをじっくり確認するように見渡していくが、これといった変化はないようだった。その時、風が緩く吹きつけた。その風に、龍魔は生臭さを感じた。どこかで嗅いだ臭いだったが、急には思い出せない。
嫌な臭いであることは間違いない。
また風が臭いを運んできた。今度はなんの臭いかはっきり分かった。血臭だ。それに気付いたのと同時に、龍魔は結界の向こうに嫌な影を見つけた。
堕天使だ。四人いる。彼等の背にある一対の翼は黒く、遠くにいるせいではっきりとは確認出来なかったが、瞳はまだ紅くなっていないようだった。だが間もなくそれらの瞳は、血を滴らせたような紅になるだろう。完全に魔族に転化するのだ。
そんな嫌な気配が彼らにはあった。
そして彼らがいるということは、エリューズが来たということを示していた。
エリューズは青蛇殿に匿って貰いたがっていた。それは文で分かっている。彼女は遂に羅睺のもとを発ったのだろう。更に魔族に転化しかけている堕天使達がここにいると言うことは、そのエリューズを追って来たのだろうと思われた。
羅睺の指示かも知れない。
龍魔はエリューズの名を叫びながら庭園を捜し回った。
風が血臭を運んでくる方向へ向かい、走る。
丈は低いが迷路のように入り組んだ垣が続いていたが、龍魔はその向こうに血塗れの腕を見つけてはっとした。
「エリューズ!」
思わず怒鳴り声に近い悲鳴を上げ、エリューズが倒れている場所まで走る。
垣の向こう側へ回り込んで、龍魔は言葉をなくした。
エリューズは血塗れだったのだ。
頭の先から足の先まで。
腰まである白銀の髪と三対の純白の翼は、白い部分を探す方が大変な有様になっている。その姿に数瞬呆然となったが、すぐに我を取り戻して助け起こして声をかける。
「エリューズ、しっかり。しっかりおし」
助け起こした身体中に傷がついている。美しい顔も血塗れだ。翼もぼろぼろになっている。龍魔はすぐに大地の精霊魔法で傷を癒やし始めた。守護精霊が大地の精霊故に、回復の魔術は言霊封じですぐに使える。
龍魔が大地の精霊魔法を発動させると、エリューズの全身を大地の黄色い光が包み込んだ。彼女の身に纏う血塗れの綠青の衣装が、僅かに色変わりして見える。
しかし、回復の魔術を使ってみて分かった。
身体の表面だけではなく、内臓までずたずたになっているのだ。
それなのに、大きく膨らんだ腹だけは無傷だった。生命懸けで子供を護ったのだろう。子宮内も正常だった。けれど、ほかの傷があまりにも重すぎて、いくら大地の力が光竜と繋がっていると言えど、回復の術が追いつかない。それでも必死に術をかけ続けた。声がけも絶えずした。
必死に声がけしていると、エリューズが薄く目を開けた。最初のうち、視線は定まらなかったが、やがて龍魔に焦点を合わせてきた。
しっかりと碧の瞳に龍魔を映す。
「龍魔」
「エリューズ、しっかりおしよ。今、大地の精霊魔法で身体中の傷を癒やしているからね」
龍魔の言葉に、エリューズは弱々しい笑みを浮かべた。
「ここは、青蛇殿ね」
吐息で言葉を吐き出す。
龍魔はそれに応えてやった。
「そうだよ」
「精霊を上手く召喚出来たんだわ」
精霊を召喚したということは、エリューズは召喚魔法を使ったのだ。召喚魔法は根源魔法から派生している。だから、どの種族でも使えるのだ。
エリューズの言葉に、龍魔は怪訝そうに眉根を寄せた。
「お前、何をしたんだい? 青蛇殿の結界に何かしただろう」
それを聞いて、エリューズは口元をはっきりと笑ませる。
「大地の精霊を召喚して、青蛇殿に結界を張って貰ったの。霧の結界も巻き込んで。そうしないと私には、青蛇殿の結界は破れなかったから」
「まさか。馬鹿な」
エリューズのやったことがあまりにも大胆にすぎて、龍魔は言葉を失った。
まさか霧の結界を巻き込んで、大地の精霊一つに結界を集中させるとは。だが、それだからこそ、エリューズは結界を破って入ってこられたのだ。それも大地の精霊が霧を取り込んで、分厚く結界を張っていたからこそだ。
そもそも、エリューズには迎賓館を経由するという頭がなかったらしい。それも致し方ない。堕天使に追われていたのだから。エリューズにはあまりにも時間がなさ過ぎたのだ。だから召喚魔法で大地の精霊を呼び出して、結界を張らせるような無茶をやらなければならなかった。
その結果、無理に結界を突き抜けたことにより、この怪我を負ってしまった。その傷を龍魔は懸命に癒やしていたが、どうなるか分からない。強く助けたいと思うが、傷があまりにも重すぎる。
「龍魔様!」
巫女達が龍魔の姿を見つけて駆けてくる。
だが、エリューズの姿を見て、皆、眉根を寄せた。それは嫌悪だけではなく、その姿の痛々しさにだ。
「怪我は、癒えそうですか?」
そう聞いてきたのはエイザだった。隣にはリースがいる。リースはエリューズの姿に、口元に手を当てて顔を顰めていた。痛ましさに、思わず顔が歪んだのだ。
その場に集まった皆はうっすらとではあるようだが、大地の精霊が張っている結界の原因を悟ったらしい。エリューズの姿と先ほどの神殿の状態を考え合わせれば、大体想像がつく。
「龍魔」
エリューズが力なく龍魔を呼んだ。龍魔はエリューズの碧の瞳を覗き込む。
「龍魔、お願いがあるの。お腹の子、この子だけはあの方から護って。最後のお願いよ。お腹の子に罪はないわ」
切れ切れに、なんとか言葉を紡ぎ出す。
「何を言ってるんだ。母親が護ってやらなくて、誰が護ってくれるってんだい。腹の子は青蛇殿で産めばいいよ。すぐに産室を用意するから。そしてここで、母子二人で暮らせばいい。羅睺なんて忘れて、ここで暮らしていけばいいんだ」
けれどエリューズは、小さく首を振った。
「私はもう駄目。自分のことだから、分かるわ」
「エリューズ、そんなことじゃ駄目だ。傷は妾が癒やすから、大丈夫だよ」
強い言葉で言うが、エリューズは再び首を振る。
「お腹の子、男の子よ。名前はもう決めてあるの。『陸王』よ。この子は人間族と同じように育てて欲しいの。だから名前も共通語でつけたのよ。いずれ、人間の中で生きていって欲しい」
「それは妾の役目じゃない。お前がそうやって育てるんだよ。陸王の成長が楽しみだろう?」
「それまで生きていたいのだけど、無理だわ」
目尻から涙を流して、弱々しく言葉を呟いていく。
「龍魔。私が死んだら、封印が解ける。八〇年の間封じていたこの子が生まれるわ。私が死ねば、すぐに。この子を恐れないで。嫌わないで。あの方の血を受け継いだ私達の子なの。大切な生命なのよ」
「あぁ、分かってるさ。羅睺とお前の子供だ。だから、お前はこの子のために生きなくては。傷も随分癒えてきたよ」
「有り難う、龍魔。でも、もうね、目が見えないの。貴女の声も聞こえにくくなってる。あと少しで私は死ぬ。そうして動き出すわ、全てが」
流石にこの段まで来て、龍魔には言葉もなかった。少しずつエリューズの生命は消えかけていっている。確実に。
龍魔にとって、回復の術が全く間に合わないのは初めての経験だった。それだけ、変化させた結界が強力だったということだ。




