第四五話 一方的な拒絶
「明日一日くらいは食わなくても保つ。それに、明日は人里近辺に出るかも知れんだろう。だから心配するな」
「そんなぁ。確かに明日一日歩けば人のいるところに出るかもしんないけどさ、その間、腹は減るだろ?」
紫雲はそんな雷韋を見遣って、小さく笑った。
「では、私も辞退して、干し肉は雷韋君に譲りましょう」
「紫雲までぇ!? なんだよ、なんだよ。なんの我慢大会だよ」
「我慢大会だなんて。そんな大げさなものじゃありませんよ。明日中に人里に出られるかも知れませんからね。いや、その可能性の方が大きいんじゃないでしょうか。それに寺院では食べられないことは普通ですから。外に出る方が食べられるんですよ、皮肉なことにね」
そう言って、紫雲は残り一枚を荷物の中から取り出すと、それを雷韋に差し出してきた。雷韋は困惑して陸王を伺ったが、その陸王は顎をあおらせた。お前が受け取れとでも言うかのように。
雷韋は逡巡したが、結局は受け取ることにした。
「ごめん」
受け取るとき、小さくそう言った。
すると紫雲は不思議そうな顔になる。
「何故、謝るんですか? 君は悪いことは何もしていないでしょう」
「いや、飯。みんなの分取っちゃうなって」
そんなことを言う雷韋を優しい眼差しで見つめて、紫雲は言う。
「今は君が一番辛いときでしょう? 常に水脈を辿るのは難しいことだと思います。その分、疲れも溜まっているはずですし、それに元々が雷韋君は食べ盛りの年頃じゃないですか。だったら今は少しでも食べておかないと」
言う声音も言葉も酷く優しくて、雷韋は思わず俯いた。そして、ぎゅっと干し肉を握って、小さく礼を言う。
「……ん。あんがとな」
それから一度小さく頷くと、今度は顔を上げて陸王と紫雲とを交互に見た。
「明日はきっと、人のいるところまで行こうな。保存食とか、そういうの色々買わなきゃだし、それに何より、まともな飯が食いたいから」
最後には、いつもの裏も表もない子供の笑顔を見せる。
「そうだな」
陸王もその笑顔につられてか、小さく笑う。その中には苦笑も僅かに混じっていたが。
それを受けて、
「そんじゃ、飯食ってさっさと寝ちまおうぜ」
言うが、夜にゆっくり眠れるのは雷韋だけだ。陸王と紫雲には見張りの役割がある。そこを陸王から突っ込まれ、雷韋は「あ、そっか」と口中で呟いて、夕食になる干し肉を囓りだした。
それに合わせるように、陸王も紫雲も最後の干し肉を囓る。
雷韋は干し肉を少しずつ囓りながら、「明日は目一杯飯食おうな」とあれこれ料理の名前を口に出す。なかなか腹の減る話題だったが、食糧が尽きているというのに全く暗い雰囲気にはならなかった。
雷韋の明るさに、陸王と紫雲の二人は救われた気分だった。
今の状況は決して明るくはない。食糧も尽き、明日、本当に人のいる土地まで行けるかどうかも分からないのだ。行けると思い込んでいるのは、飽くまでも希望的観測だ。なんの保証もない。
なのに不思議と雷韋が明るい話題を口にすると、それがそのまま希望に繋がる気がする。それは雷韋の子供としての純粋さ故だ。
いつ魔族が襲ってきてもおかしくない状況下にあって、それでも雷韋は明るさを忘れない。誰よりも魔族を恐れているのは雷韋自身のはずなのにだ。
それ以上に、相当の疲労を溜め込んでいる。顔色からもそれは判然としていた。雷韋にとって今の道行きは分の悪い話でしかないのに、それでも疲れたなどとも言うことはなかった。
雷韋はいいだけ喋ったあと、急にその場にこてんと横になった。まだ干し肉は口に咥えている。
「な~んか、怠い~」
「本当にお前は行儀がなってねぇな。飯食いながら横になるんじゃねぇよ」
陸王が注意するが、雷韋は起き上がる気配を見せなかった。それどころか、目を瞑ってしまう始末だ。
「ん~、なんか眠い。川が見つかってほっとしちゃったかなぁ」
「それはあるかも知れませんね。ですが、眠るなら食事をきちんと済ませてからの方がいいと思いますよ」
紫雲にも言われたが、雷韋は「ん~」と鼻を鳴らしただけでそのまま眠りに落ちてしまったようだった。干し肉はあと一欠片ほどだというのにだ。そこまで食べておいて、眠ってしまった。
それを見た陸王が雷韋の傍に近寄って、
「ったく、しょうがねぇ奴だな」
そう愚痴をこぼすように言って、最後の一欠片を雷韋の口の中に押し込んでやった。すると、身体の反射なのだろうが、雷韋は干し肉をもぐもぐと咀嚼し始める。
それを見た紫雲が、苦笑気味に言った。
「今日は随分と疲れたんでしょうね」
紫雲の言葉を聞きながらも、陸王はそれに対して反応を示さなかった。なんの反応も示さずに、雷韋の外套を使って、上手く少年の身体を包んでやっている。ヤブ蚊除けのために。
雷韋の身体を包んでやったあとは元の位置に戻って、残りの干し肉の欠片を再び口に運ぶ。黙々と。日を挟んで座る紫雲とは視線すら合わせようとしなかった。
その態度に苦笑を漏らしたのは紫雲だった。
「そんなに私と話したくないですか?」
それにも陸王は無言を貫いた。
「この三週間ほど、ずっとこんな感じですね。雷韋君を介してしか会話をしていない。それほど私が嫌いですか」
その言葉に、
「煩ぇぞ。飯を食ったならさっさと寝ろ。今夜は俺が先に歩哨に立つ」
そう言って、陸王は口が穢れたとでも言うように水袋を呷った。
「そんなに嫌われるようなことを私がしたでしょうか。下衆な詮索ももうしませんし、雷韋君を取ったりもしませんよ。雷韋君にも怒られましたしね。だから、普通に会話くらいは出来ないでしょうか。嫌いは嫌いなりに。お互い、いい大人なんですから」
「煩ぇと言っている」
陸王は不機嫌に答えて、この会話自体を終わりにするつもりだった。心底、紫雲とは言葉を交わしたくないらしい。
そんな陸王に紫雲は嘆息をつき、
「はい、分かりました。これ以上、貴方を煩わせません。では、先に休ませて貰います」
そう言って、外套を身体に巻き付けて横になる。
紫雲が横になったのをちらと見て、陸王は内心でほっとしていた。面白くもない顔を突きつけ合っているのは苦痛でしかない。起きているのが雷韋ならなんとも思わないが、嫌っている紫雲ともなればさっさと寝入って欲しかった。
それから暫く時間が経った頃、紫雲からも規則正しい寝息が聞こえてきた。その時になって、やっと陸王の緊張は解けた。刀の手入れでも、と思える余裕も出てきた。
野営を張っているだけに、分解まではしないが、刀身の手入れだけでもしたかったのだ。
肩に凭せていた刀の刃を引き抜くと、火影の熾す炎を浴びて暖色の光を反射した。それを見るだけで、陸王の中には心地よい緊張が走る。やはり刀の手入れは好きだと思った。刀身を眺めているだけでも気分が落ち着いていく感じだ。
特に『吉宗』は格別だ。
神剣であり、意思を持っている。その力は神を屠るとも言われているが、一体どの神を相手にすればいいと言うのか。神を屠るとは少々どころか、不可能だろう。
この世界を創り上げた原初神である光竜は大地と一体となって、今は眠りについている。
世界に光と闇、昼と夜をもたらした、兄弟神である光神・天慧と闇神・羅睺は天にいると言われている。天と言っても、この世とは次元の違う天上世界だ。
この世界を創り上げ、整えた神々は、大昔に地上を人族に譲っている。三柱の神々が地上にいた頃を神代、地上から姿を消してからは人代だ。次元も何もかも違う神々相手に吉宗を振るうことはないだろう。
そもそも何故、吉宗にそんな謂れがあるのか陸王は知らなかった。
ただ、日ノ本を出る際に守り刀として持たされたのだ。
これまで雇われ侍として、陸王は傭兵のように戦場を渡り歩いてきた。その際、吉宗は陸王が次にどんな動きをしたいのか知っているように、刃を走らせた。これまでにそれで何度も命を救われていることも事実だ。反対に、吉宗が陸王を護るために刃を走らせることもある。全ては吉宗の神意だ。
神剣だけあって、吉宗の刃は毀れることはない。刀身に錆が浮くこともなければ、曇ることもない。
それでも陸王は毎晩のように吉宗の手入れをしてきた。できるだけ毎晩。こんな野営の時でも、刀身くらいはと。
一通り吉宗の手入れをすると、陸王は刀身を鞘に収めて吐息をついた。それは胸の内で心地よく張っていた緊張感を切った合図だ。そうしてやっと心が満たされるのを陸王は感じた。それから辺りに広げた手入れの道具を荷物の中にしまい始める。
と、そこで雷韋がむくりと起き上がった。




