第四一話 覚悟の言葉
しかし、まさか血の匂いに酔って体調を崩すだなどとは思ってもみなかった。やはり魔族にとって、鬼族の血の匂いは特殊なのだろう。血臭立ちこめる戦場にいてもなんと言うこともないのに、雷韋の血の匂いだけは違ったのだから。
いや、我慢していたのも悪かったのだ。
陸王は血の匂いに酔ってから、何度か魔族の本能に従いそうになった。心配して顔を覗き込んでくる雷韋を、吉宗の刃で切り裂きたくもなった。あるいは己の手そのもので。
だが、その衝動を必死に堪えた。そうしているうちにただ酔っている状態から、気分が悪くなり始めたのだ。水以外、何も口にしていなかったが、幾度か戻した。出てくるのは当然、胃液のみだ。
酒で悪酔いをすると言う話を昔、日ノ本の雇われ侍達から聞かされたことがあるが、それに近かったのかも知れない。酔って、本能にも従えずに我慢しているうちに、酔いすぎたのかと。
酒なら身体が勝手に解毒してくれるが、雷韋の血の匂いだけはどうにもならなかった。
眠っていても、常にどこかが覚醒していて、常よりも眠りが浅くもなった。それこそ、雷韋が立てる寝返りの音でさえ耳の障りになるほどに。吐き出せない本能が胸の中で蟠って、何かを狂わせていたのかも知れない。
それでも思うのは、雷韋を傷つけなくてよかったということだ。意識が正常に戻ってから、それは本当に心の底から思った。雷韋を失うことより、これまで飼い慣らしてきた本能を押し殺すことの方がましだし、陸王には簡単だった。
対を傷つけたり、失うことは恐ろしい。今回のことは、それを心底から教えてくれた。
「なぁ、陸王さぁ」
雷韋は丈高い教会の塀を見上げるようにして語りかけてきた。
「なんだ」
「俺なぁ、考えたんだ。いろんなこと」
「例えばなんだ」
陸王が気のない返事をしていると、雷韋は塀から陸王に顔を向けてきた。
ふとその顔を見遣ると、目尻に紅を差した深い琥珀の瞳がまるごと陸王の中に入ってきた。感覚とでもいうのだろうか。存在そのもののような何かだ。
思わず目が離せなくなる。
「例えば、あんたがあんたである限り、俺はあんたから離れない」
陸王はその言葉にぞっとした。同時に、視界の中が琥珀の瞳で支配される。
「でも、あんたがあんたじゃなくなったら、俺が絶対にあんたをあんたに戻す。そんで、俺はずっと陸王と一緒にいる」
そんな感じかな? そう言って、今度は裏も表もない子供然とした笑顔を浮かべた。笑んだまま、前方へ顔を向ける。
塀の曲がり角はいつの間にか、すぐそこまで迫ってきていた。
雷韋はそれを見遣って、
「紫雲、呼んでくるよ」
と言って、ぱたぱたと駆け出して、そこまで迫ってきていた角を曲がっていった。
そこで陸王は大きく息を吐き出した。無自覚のうちに呼吸を止めていたらしい。息を吐き出し、吸い込んだときに脳が痺れる感じがして、それに気付いた。
それにしても、今、雷韋は何を言おうとしていたのか。
否。何を言った?
それは陸王がなんであるか知っているような口振りではなかっただろうか。体調を崩している間、無意識に正体が知られるようなことでもしただろうか? いや、そんなはずはない。陸王は本能を抑えられていた。
間違いない。
迂闊なことをした覚えがないからだ。
塀の角までやってきて、陸王は足を止めて道の向こうを見遣った。すると見えたのは、片腕を振り上げて、門前に立っている紫雲のもとへ駆けていく雷韋の後ろ姿だ。大きな声で紫雲の名を呼んでもいる。
その後ろ姿はただの子供だった。隙だらけで、いつでも襲いかかれる。
雷韋はいつだってそうだった。陸王の前では隙だらけなのだ。
それを思い起こし、陸王はこちらへやってくる二人を待った。
その間、陸王は己に言い聞かせる。
絶対に雷韋の前では本能を解放してはならないと。それは雷韋を傷つける行為だからだ。それは身体的なことに限ったことではない。
心までも傷つけることだ。
それだけはあってはならないと強く思った。
その思いが両手に拳を作らせる。
「お早うございます、陸王さん」
傍までやってきて、紫雲は何故かほっとした顔を見せる。
「どうした。妙な顔しやがって」
「いえ」
そこで紫雲は小さく笑って言うのだった。
「陸王さんは以前とあまり変わらない服装をしているので、ほっとしたんです」
その言葉で紫雲が何を言っているのか察した。
「俺も雷韋の服には驚いたさ」
嘆息をついて、頭をがりがりと乱暴に掻く。
「だけど似合ってるだろ?」
雷韋が外套を肩まで掻き分けて新しい服をみせた。
紫雲はそれを困った風に見て、苦笑する。
「似合わないとは言いませんけど、でもその柄は驚きますよ、普通。あまりにも派手です」
「もー! 陸王も昨日びっくりしてたしさぁ、紫雲も昨日会いに来たらびっくりしてたよな? なんでそうなのさ。似合うだろ?」
強要するように二人に問いかけると、陸王が答えた。
「あぁ、バカザルにはお似合いだ」
「あー! またバカザルって言ったぁ!」
紫雲も更に苦笑を深くする。
「流石に『バカザル』は酷いですね」
「なぁ!? そう思うよな!? これまでは『クソガキ』か『サルガキ』程度だったのに!」
「いや、それもどうかと思いますが」
雷韋が鼻息を荒くして紫雲に同意を求めると、紫雲も言葉に詰まる。
だが、そこで陸王が唐突にお巫山戯を排した。
「それより、これからのことだが。街や村には立ち寄れても、宿には泊まれねぇからな。覚悟しておけ」
「それって、他人を巻き込むからだっけ?」
雷韋が言うと、陸王は頷いた。
「どこにどうやって現れるか分からん。だが、目標は俺が持っている魔族の核になるだろうからな、それを目印に夜中に襲われるってな可能性もある」
そこで紫雲が口を挟む。
「ですが、妖刀の持ち主は今まで全てただの人間でしたよ。村は無理だとしても、城壁に護られている街になら宿泊出来ませんか?」
「俺もそいつは考えた。だが、妖刀自体に意思を与えてある可能性もある。魔族も『妖刀を操れる魔族』と言っていた。しかもそいつは俺を狙ってるときてる。妖刀そのものだけでも動けるなら、どう対処すればいいか分からん。
この町も、偶然だが魔族に襲われて滅茶苦茶にされている。妖刀そのものが意思を持って動けるのだとしたら、魔族同様、相当厄介だと思うがな。いや、操っている魔族そのものもいる。人に擬態して城壁を越えられる可能性もある。それが一番厄介だ。そうなりゃこの町同様、犠牲者も出るだろうからな」
陸王の言葉に紫雲は暫し考え込んだ。
「確かにそうですね。妖刀はこれまでの情報だと人の身体を介してしか動けないと思っていましたが、妖刀に意思を与えている魔族、ですか。あの魔族よりも強いということですから、中位でしょうか。そんなものにこれ以上、人々を襲わせるわけにはいきませんね」
「そいつが飲み込めたなら、この先は俺の言うとおりにしろ」
それは酷く威圧的な物言いだった。
「貴方の言うとおりに、ですか」
僅かに目を眇めて陸王を見遣る。
それを見て慌てたのは雷韋だった。
「なに険悪になってんのさ。今は手を組んでる仲間だろ? 誰の言うとおりにしろ、その場その場で決めればいいじゃん。一番いいと思う案を提示した奴の言うとおりにさぁ」
雷韋の言葉を聞いて、陸王は鼻を鳴らして言い遣った。
「行くぞ。そろそろ城門が開く頃だ」
一方的に言って歩き出す。
紫雲はその態度に、小さく吐息をついてからあとを追った。雷韋はいつも通りに陸王の隣につく。そして言うのだ。
「頼むから、喧嘩だけはしないでくれよ? 喧嘩してる場合じゃないんだからさぁ。目的は魔剣だろ! それを破壊するまではみんな仲間なんだから」
分かった!? と最後に大声で問うと、陸王も紫雲も無言で小さく頷いてみせた。
その様子に、二人共に不満満々であることを見て取った雷韋は、頭を掻き毟りながら奇声を発する。妖刀がどんな力を持っているのか分からないのに、最初からこんな風に仲間割れを起こしていたら、破壊出来るものも出来ないからだ。
雷韋は雷韋なりに懊悩した。
始まりから雰囲気の悪いまま東門に辿り着くと、丁度、三時課(午前九時)の鐘が響いてきた。城門がそれと同時に開かれていく。閂を掛けた大扉、綱で巻き上げる仕掛けの格子状の門と二重になっている。まず長く太い閂が二本外され、大扉が手前に開かれていった。大扉が開かれると、今度は格子状の巻き上げ式の門が現れるが、その向こうには既に人々が集まっていた。
この光景自体は以前に見ている。護衛の仕事をしたときにだ。
門が引き上げられて、自警団の男達が出て行く者を優先して通行させ始める。皆、ざわめきながら門を潜り抜けていった。
その中に陸王達も混じる。
ざわめきに任せて、雷韋は紫雲に声を掛けた。
「紫雲、結局、魔剣についてはほとんど何も分かってないんだよな?」
「そうですね。この町の方まで噂でさえ届いていないようです」
「ん~、じゃあ、もっと東にあるのか。陸王さぁ、どうすんだ、これから」
「取り敢えず東に進むだけだ。だが、用でもない限り、人の集まる場所には近づかん」
「え? どゆこと?」
雷韋が小首を傾げて問うと、陸王は雷韋を横目に見遣った。
「例えば、水がなくなった場合、保存食がなくなりそうな場合は人里に出る。今はこのまま東に進むが、途中からは街道からも外れるぞ」
「えぇ!? それって厳しくない!? 保存食はなんとかなるかも知んないけど、水はないと困るしなぁ。節約しても二日くらいしか保たないよ」
どこか情けない声を出す。
「なら、途中でもっと大きな水袋を買え。昨日、俺と一緒に来なかったからだぞ」
「先に言ってくれればよかったのに」
恨めしそうに雷韋は陸王を見たが、その陸王は肩から袈裟懸けに大きな水袋を提げている。
「まぁ、途中までは街道を行くから、その間に街か村で買っておけ」
「む~、そうする」
辺りのざわめきにその声は掻き消されたが、文句を垂れたことだけは陸王に伝わっていた。しかし、陸王は無視する。こんなことくらいで、いちいち付き合っていられないからだ。
雷韋もそんなことは分かっている。声が掻き消されようとどうでもよかった。だから話題を変えてみた。
「魔剣ってさ、持っても、傷つけられても精気が抜かれて死んじゃうんだよな?」
「えぇ、これまで確認されていることはそれだけです」
紫雲が答えた。
「はぁ~、厄介だなぁ」
雷韋のぶつくさに答えたのも紫雲だ。
「呪いがかかっている以上、解呪しかないでしょうね」
「解呪か。それなら俺にもなんとかなるかも知んない。でも、神聖魔法にも解呪の力ってあったよな?」
肩口で振り返って紫雲を見る。




