第六話 ジャイアントキリング
痛みを拒み、改革から目を背け続けた果てに、日本は列強の狩場に成り下がった。 主権国家とは名ばかりの姿。かつてこの国が誇ったものは、次々と切り売りされていった。 関東最大の指定広域暴力団 清瀧会の若頭 國定は裏から日本を守る戦いに身を投じ、やがて全てを奪われ凶刃に倒れた。
…気づけばそこは二〇一九年、大学生の肉体に四十八歳の極道の魂が宿った。
天才を口説き、金を作り、政治を動かし、国家を取り戻す。 誰よりも日本が滅ぶ未来を知っている男の、不格好すぎる宣戦布告。
二〇一九年九月二十八日。午後四時過ぎ。
東京・東伏見の安アパート。六畳一間の床には、電源タップから伸びた配線が黒い蛇のように這い回っていた。 ノートPC三台、タブレット二枚。卓上には使い捨てのSIMカードの殻と、海外ウォレットの認証端末が転がっている。
矢久保史嗣の視線は、それら複数の画面の間を狂ったように往復していた。左目でマルタ籍ブックメーカーのバックエンド審査を監視し、右目で住信SBIの生体認証エラーを弾く。使い古したキーボードを交互に叩く指先は、すでに自身の汗で滑りかけていた。脳が焼き切れそうな熱を帯びていく。
「……國定くん」
三台目のPCにVPNを通しながら、矢久保は乾ききった唇を舐めた。眼鏡の奥の瞳は、焦燥と恐怖で細かく揺れている。一週間前のロシア戦で未来予言のノートを見せられた時、確かに興奮はした。だが、あれはスポーツバーという安全圏で見た見世物に過ぎなかったのだ。今自分が触っているのは、もはや大学生の悪ふざけなどと言ってもらえる次元の話ではない。
「なんだ」
背後からの声は、異様に低かった。國定はテーブルの上に置かれた一束の札束を、太い指先で器用にはじいていた。
220万円。学生ローン、カード現金化、自由になる限りの消費者金融、そして昨日、歌舞伎町の狗飼から融通した100万円。
普通の大学生なら、この量の現金を前にすれば、どこかに破滅前夜の投げやりな高揚が滲む。だが、國定の顔にはそれが一切なかった。彼は最初から、この320万円を「使い切る弾丸」としてしか見ていない。
矢久保は喉の奥で乾いた音を鳴らした。ガチガチと奥歯が鳴るのを止められない。
「頭おかしいよ……! 手順を一つ間違えれば不正検知で一瞬で凍結だよ。人生が終わるんだよ!」 「ははっ、こんなはした金じゃ終わんないよ」 「終わるんだってば!」
叫んだ拍子に、アパートの古いブレーカーが、落ちる寸前の頼りないうなりを上げた。
怖かった。元来、極度の人見知りで、他人と関わることすら避けてきた矢久保だ。それが、なぜこんな得体の知れない怪物のような男の剥き出しの狂気に付き合わされているのか。だが、矢久保の細い指先は止まらなかった。理解してしまったからだ。この男は、日本代表の勝利に、自分の人生だけでなく、この国の未来そのものを賭けようとしている。
午後六時、資金投入開始。 矢久保のタイピングとともに、画面の数字がマルタへ、ジブラルタルへ、海外のプール口座へと吸い込まれていく。
50万、30万、45万。 送金。分散。ログアウト。IP変更。再認証。Cookie削除。別回線接続。
「クソ……認証メールが遅い……!」 「焦らなくていい」
國定は、ぬるくなった缶のブラックコーヒーを静かに口に運んでいた。その佇まいは、数万の観客が待つ敵地へ乗り込む直前、ロッカールームの片隅で完全に雑音をシャットアウトしているラグビー部主将そのものの、不気味なほどに凪いだ「肉体の静寂」だった。
午後七時、ベット開始。國定の指示は、驚くほどに冷静かつ合理的だった。
「うまく分散させてくれ。日本勝利だけを狙った大口の愛国ベッターには見せないようにな。偶然が重なって、結果的に勝てたように見せかけてくれ」
矢久保は言われた通り、高速でオッズの隙間を埋めていく。
日本勝利。前半同点。後半逆転。ハンディキャップ。トライ数。スコア差。細く散らされた弾道は、一見するとただの無秩序な分散投資に見える。だが、そのすべてのベクトルの中心には、一つの「確定した結果」が据えられていた。
日本が、勝つ。
矢久保が額の汗を手の甲で拭った。画面に映るオッズの数字が、まるで生き物のように明滅している。
「……國定君。本当に、勝つんだな?」
数秒、沈黙が落ちた。國定はテレビの画面ではなく、何も映っていない安アパートの壁を見つめたまま、答えた。
「ああ。ラグビーの歴史が、今日ここでひっくり返る」
それは勝利を確信する勝負師の言葉ではなかった。すでに通り過ぎた過去の記録を、淡々と読み上げるかのような、冷徹な響きだった。
2
午後七時四十五分。エコパスタジアム。キックオフ。
テレビの向こうでは、赤一色のアイルランドサポーターが地鳴りのような歓声を上げていた。世界ランキング二位。優勝候補。対する日本は、自国開催の熱狂の中で「善戦」を期待される側に過ぎない。オッズの開きが、そのまま世界の評価だった。
試合開始直後、アイルランドが鮮やかなパスワークから先制トライを奪う。 だが、二人の顔色は変わらなかった。
「まずは國定君のノートに書いてある通りだ。先取点をとられて安心するなんて、変な気分だよ」
國定は微動だにしなかった。歓声も上げず、眉一つ動かさない。いく度となく動画を再生して見尽くした試合だ。アイルランドの圧力のピークはここだ。ここから日本の執拗なロータックルが機能し始める。
前半、日本は押し込まれながらも、田村のペナルティゴールでしがみついた。矢久保はとうつい親指の爪を噛み始め、視線は画面と國定のノートの間をせわしなく行き来していた。
正式なハーフタイムを挟み、後半。空気が変わった。日本代表の運動量が、アイルランドの巨漢たちの足を確実に止め始める。
後半十九分、福岡堅樹のトライ。スタジアムが、そしてテレビのスピーカーが壊れるほどの歓声が六畳間に鳴り響いた。
「これは、本当に勝つのか……!」
ここまでノートの記載と寸分違わぬ展開で試合が動いている。あり得ない現実に矢久保は落ち着いて座っていられなくなり、パイプ椅子を蹴立てて立ち上がった。
一方、國定の脳裏には、忌まわしい過去世の記憶が蘇っていた。 二〇四六年、街から活気も色も失われ、主権とは名ばかりで大国に従属する屈辱的な日本の姿。あの冷たい、意思を失った世界へ繋がる破滅の歯車に、今、小さいながらも確実に干渉している。
興奮ではない。鋭利な悪寒が背筋を走る。 国をひっくり返すための最初の種が、今、産まれようとしている。國定の奥歯が、ギリ、と鳴る。
テレビの向こうでは、アイルランドの決死の猛攻を、日本の白い壁が、アイルランドの巨躯を何度も弾き返す。
「いけ! もっと刺され! 止めろぉ!」
気づけば、矢久保はテレビ画面に向かって叫んでいた。最初に見せていた人見知りの殻など、完全に吹き飛んでいた。國定の綿密なノート通りに世界が動いていく圧倒的な全能感と、自分の手で巨額の金が動いているという狂気の熱が、十九歳の若者の血を限界まで沸騰させていた。
後半二十九分、田村優がダメ押しのペナルティゴールを決めた。
「決まったぁぁ! 國定くん、見たか! 君の予言通りだ!」
矢久保は興奮のあまり、隣に座る國定の分厚い肩を、壊れんばかりの勢いでパンパンと何度も叩いた。
國定の眉がわずかに動く。冷や汗が頬を伝い、顎先から落ちた。
---そして試合終了のホイッスル。
【日本 19 ― 12 アイルランド】
世界が揺れた。実況が絶叫し、SNSのタイムラインが限界を超えて爆発する。だが、東伏見の六畳間だけは、奇妙な静寂に包まれていた。二人の荒い呼吸音だけが、排熱するPCのファンの音に混ざる。
「……勝った。本当に、勝っちゃったよ……スコアもノート通りだっ!」
矢久保は震えながらつぶやいた。次の瞬間、抑えきれない感情が弾けたように、國定の胸元へと飛びついた。頑強な國定の体に細い腕で思い切り抱き着き、その広い背中を叩きながら、言葉にならない歓声を叫び続けている。
「やった! やっぞ! 1,500万だ! 僕たちの勝ちだ!」
各ブックメーカーの画面、リザルト反映のローディングスピナーが回る。数秒の後、画面中央の数字が一斉に書き換えられていた。ディスプレイの青白い光に照らされたのは、わずか二時間弱で1,500万円に化けた、圧倒的な数字だった。
「す、すごい、すごいよ國定くん! すべて計算通りだ!」
矢久保は顔を輝かせて振り返った。 だが、國定はその画面を見つめたまま、微動だにしなかった。その双眸が、すっと冷たく細くなる。
「……國定くん?」
「最後のペナルティキックだ」
國定は静かに、手元のノートのある箇所を指さした。
――『後半三十二分、田村優によるペナルティーゴール。三点ダメ押し』 ――
「それが、どうしたの……? ノート通りの展開じゃないか」
「今の試合では、二十九分だった」
國定の声は、凍りつくほどに冷たかった。
「わずか三分早いだけだ。だが、あまりにも大きな三分だ」
國定の眉間には深い皺が刻まれていた。テレビの向こうでは、日本中が歴史的快挙に狂喜乱舞している。だが、矢久保の暴走する知性も、その言葉の持つ真の意味を即座に理解し、戦慄した。
三分、ズレた。 歴史の歯車が、本来の軌道から外れて動き出したのだ。
「でもそれって、君の記憶違いって可能性は」
言いかけて、矢久保は言葉を飲み込んだ。ここまでの二試合、國定がラグビーに関して発揮した記憶力は、異常の一言に尽きる。過去世で彼がどれほどこの試合を繰り返し見返してきたか、その執念の深さを矢久保は知っている。彼が誤差だと言い切る以上、それは絶対的な事実だった。
未来は固定されていない。 あの手この手で300万円を超える弾を引っ張り、海外のブックメーカーへ隠密に変則的なベットを行ったという、過去世には存在しなかったノイズ。それがバタフライエフェクトとなり、すでにこの世界のタイムラインを揺らし始めているのだ。
たた三分のズレ。しかしそれは、ここから先の未来予言のすべてが、いつでも容易に裏返り得るという絶望の証明でもあった。
長い沈黙のあと、國定が低く言った。
「サモア戦を回避して、スコットランド戦で終わりにしよう」
「……え? だって、そのあとは決勝トーナメントもあるんだろ? このまま張り続ければ、億だって簡単に──」
「駄目だ」
國定は遮るように即答した。
「まだほとんど表に出ていない俺たちの動きだけで、すでにスコアに変化が生じてきている。オッズと試合展開、および『ズレ』のリスクを考えれば、狙いはスコットランド戦の一択だ。そこで確実にもうひと稼ぎして、ワールドカップの賭けからは降りる」
矢久保は反論しかけ、その言葉を完全に飲み込んだ。國定の目を見たからだ。
それは、大金を手にして悦に入る勝負師の目ではなかった。もっとずっと遠く、一度すべてが焼け落ち、滅び去った未来の地獄を見て帰ってきた、修羅の目だった。
ゴクリ、と矢久保は生唾を飲み込んだ。 歴史がズレた恐怖、そして目の前の男が背負うものの重さに背筋が震える。だが同時に、十九歳の知性は、たったいま自分たちが「1,500万円」という巨額の富を現実にした全能感の余韻にも浸っていた。三分ズレたとはいえ、勝った。この男についていけば、本当に世界が変わるかもしれない。恐怖の裏側で、そんな熱い昂ぶりが矢久保の胸を焦がしていた。
「……わかった。次のスコットランド戦が、僕たちのラストゲームだね」
矢久保はそう言って、どこか晴れやかな、しかし緊張の入り混じった笑みを浮かべた。人見知りだった少年が、明確に國定の片翼として歩みを進めた瞬間だった。
矢久保の仕事は完璧だった。 ブックメーカーの規約を調べ上げ、アラートを回避し、明日狗飼へ返済する150万円の現生も完璧に差配し終えている。1,500万円という原資は、彼らの未来を切り拓くために、これ以上ない最高の結果だった。
だが、矢久保はまだ知らない。
隣で静かに佇む國定が、この完璧な計算の枠組みだけで満足する気など、さらさらないということを。
スコットランド戦まで、あと十五日。
國定は「金稼ぎ」とは別に、もうひとつの大勝負を見据えていた。
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興奮も収まり借金返済分の現金化を進める矢久保へ振り向き、
思い出したように笑顔で國定は言った。
「あ、それから矢久保、スコットランド戦はラストゲームじゃない、俺たちのキックオフだ」
そのセリフはさすがに恥ずいと思ったが口には出さない優しさも持ち合わせる矢久保だった。
「次回、國定はさらに暴れます」
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
『CROWNED CROW』は、
未来を知る男の成り上がりだけでなく、
AI・国家・資本・災害・人間の欲望を描く物語でもあります。
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