第五話 百万円の品定め
痛みを拒み、改革から目を背け続けた果てに、日本は列強の狩場に成り下がった。 主権国家とは名ばかりの姿。かつてこの国が誇ったものは、次々と切り売りされていった。 関東最大の指定広域暴力団 清瀧会の若頭 國定は裏から日本を守る戦いに身を投じ、やがて全てを奪われ凶刃に倒れた。
…気づけばそこは二〇一九年、大学生の肉体に四十八歳の極道の魂が宿った。
天才を口説き、金を作り、政治を動かし、国家を取り戻す。 誰よりも日本が滅ぶ未来を知っている男の、不格好すぎる宣戦布告。
二〇一九年九月二十一日。金沢からほど近い、石川県小松市。
日本海からの強い潮風が吹きつける県道から、一本奥へ入った細道は昼なお薄暗い。塩害でところどころ錆が浮いた古い鉄製の看板に、「喫茶ネルハ」の文字が頼りなく揺れていた。白いモルタルの壁に、足元を彩るくすんだ青いタイル。店先には、母が何年も世話をしているオリーブの木が、海風にしなっている。
大学生の國定にとっては一年ぶりの風景だが、死に戻りの國定にとは二十数年ぶりの帰郷であった。
重い木製の扉を押し開けると、深く煎ったコーヒー豆の匂いと、フライパンから上がる油の香りが混ざり合った、酷く懐かしい空気が顔を叩いた。
「……なんや、急に」
カウンターの奥、ネルドリップの器具を拭いていた母――沙耶が手を止め、顔を上げた。
「大学は」
「サボり」
「馬鹿やねぇ、高い学費払っとるがに」
呆れたような、だがどこか安堵したようなその声を聞いた瞬間。
國定の視界が、不意に激しく歪んだ。胸の奥から、せり上がるような熱い塊が喉を焼く。
(……生きている)
目の前にいる。生きて、動いて、自分を叱っている。 過去世の二〇二〇年、世界を襲った未曾有の疫病。この店は客足を奪われてシャッターを下ろし、沙耶は当時中学生だった妹を育てるため、工場の過酷な夜勤業務に身を投じた。そして瞬く間に体を壊し、冷たい病院のベッドで逝ってしまった。國定が二十代半ば、まだ何一つ力を持たない無力な若者だった頃の、生涯最大の傷だ。
「あんた、どうしたん。変な顔して」
沙耶が怪訝そうに眉をひそめる。 國定の目頭に、みるみるうちに熱い涙がたまっていった。大粒の涙が、頬を伝って床の青いタイルへと落ちる。
「おい、ちょっと、いね。何泣いとるん。東京でなんかあったんか!?」
慌ててカウンターから出てこようとする母を見て、國定は慌てて手の甲で手荒に涙を拭い、無理やり豪快な三枚目の笑みを作った。
「ぶはっ……! いや、違うて! 海風が強くて砂埃が目に入ってな。」
「な、なんやそれ……。本当に人騒がせな子やねぇ」
沙耶は呆れ果てたように胸をなでおろした。國定は笑いながら、心の中で固く誓っていた。 もう絶対に、あの夜勤の工場になんか行かせない。この小さな体を、二度とボロボロにさせはしない。
「腹減った。なんか食わせて」
「トルティージャならあるけど。すぐ温めるわ」
ジ、と静かな油の音が店内に響き始める。 卵とじゃがいも。味付けは塩だけ。母が死んでから、二度と食べることができなかった、世界で一番愛おしい家庭料理の匂い。
皿が置かれるのとほぼ同時に、店の扉が勢いよく開いた。カランカラン、と激しい鈴の音。
「ただいまー! お母さん、リードの予備って──」
大きな楽器ケースを背負った女子中学生が、転がるように入ってきた。セーラー服の襟元には、吹奏楽部の青いリボン。國定の妹――詩織だった。
「あ……」
詩織は足を止め、丸い目をさらに大きく見開いた。
「お兄ちゃん!?」
次の瞬間、詩織は楽器ケースを床に放り出すような勢いで駆けてくると、國定の太い脇腹に全力でタックルするように飛びついてきた。
「ちょっと! なんで帰ってきとるん! 連絡してよ!」
「うおっ、バカ、苦しい、お前デカくなったな」
頭をくしゃくしゃに撫で回す。小さくて、柔らかくて、温かい。 過去世の國定は、母が死んだ後、ヤクザの道へ進んだ。詩織をカタギの親戚の家に預け、自分という「汚れ」が妹の人生に付着しないよう、徹底的に距離を置いた。親戚に裏から莫大な金を送り、不自由のない平穏な暮らしだけを担保し続けたが、詩織が成人して結婚するまで、一度も正面から顔を合わせることはなかった。妹の結婚式すら、遠くの車中から眺めることしかできなかったのだ。
その妹が、今、自分の腕の中で生身の文句を言っている。
「もう、急に帰ってくるからびっくりした。東京のお土産は?」
「あるわけないやろ、サボって帰ってきたんやから」
「サイテー!」
詩織はぷくっと頬を膨らませて笑う。その屈託のない笑顔を見て、國定はまた胸の奥から込上げてくる熱い何かを必死で抑え込んだ。
國定はフォークを手に取り、分厚いトルティージャを口に運んだ。素朴な塩の味が、五臓六腑にしみわたる。
「……美味いな、やっぱり」
「うちのはケチっとらんからね」
沙耶が淹れたてのコーヒーを置きながら笑う。
きたるコロナ禍からネルハを守ること。それは沙耶を救うだけではない。詩織に二度とあの寂しさを味わわせないためであり、なにより――ここは、俺の帰る場所なのだ。
國定は背負ってきたバッグから、一冊の大学ノートを取り出してテーブルへ広げた。
「母ちゃん。これ、大学の経営学の課題なんやけど。地方の個人飲食店の改善モデルのレポート。ちょっとネルハをサンプルにさせてくれ」
開かれたノートの白ページには、國定の無骨な文字で幾つもの項目が羅列されていた。
- QR決済の早期導入
- テイクアウト・メニューの強化
- 事前電話注文のシステム化
- 一人用カウンター席の拡充
- 客席間隔の拡張(レイアウト変更)
- 換気設備の増強
「東京はな、もう現金を持たん若い奴が目に見えて増えとる。それに……これは俺の勘やけど、今後は『店に人を集めて食わせるだけ』の商売は、一気に厳しくなる。持ち帰りと、一人客の囲い込み。これを今から徹底して叩き込まんと、この店はもたん」
「そんなに変わるもんかねぇ。田舎はまだまだ現金社会やよ」
「変わるよ、間違いなく」
國定はフォークを置き、母の目をまっすぐ見据えて即答した。その瞳の奥にある絶対的な光に、沙耶は一瞬だけ気圧されたように瞬きをした。
変わるどころではない。あと数年もすれば、この街から、世界から人が消える。飲食店は次々とシャッターを下ろし、社会そのものが強制停止する。だが、その確定した最悪の未来を、今の母に口にすることはできない。
「なんかあんた……急に商売っ気が出たね。お父さんが生きてたら喜びそうな顔しとる」
「単位がかかっとるから必死なんやて」
國定はあえて三枚目の笑みを浮かべ、頭を掻いた。沙耶は「はいはい」と呆れたように笑い、詩織はノートの文字を覗き込んで「お兄ちゃん、なんか字が汚い」とケラケラ笑っている。
國定は改めて店内を見回した。擦り切れてスプリングのへたったソファ。潮風で茶色く錆びついた真鍮の窓枠。カウンターの柱で静かに時を刻む、父の遺品である重厚な船舶時計。
この店は、ずっと激動の時代から取り残されていた。だからこそ、次に来る嵐の前に、絶対に生き残れる形へと変革させなければならない。 家族。この二人だけは、絶対に、何があっても俺が守り抜く。
日本海のどんよりとした曇った光が窓から差し込み、床の青いタイルを鈍く、だが確かな足元として照らし出していた。
◆
二〇一九年九月二十七日。
二十三日に金沢から東京へ戻って以来、國定の肉体は過労の極致にあった。日中は大学で「いつも通りのラグビー部主将」を演じてグラウンドを走り回り、一歩キャンパスを出れば、軍資金調達のために東京中を文字通り奔走した。
前日の二十六日は、終日かけて都内のクレジットカード現金化業者と学生ローンをハシゴした。さらにカードのショッピング枠で高級ブランドバッグを複数購入し、そのまま質屋へ持ち込んで即座に現金へ変えた。そうして表の世界から「引けるだけの限界の枠」を掠め取り、手元に120万円の現生を作った。だが、まだ足りない。手持ちは大いにこしたことはなかった。
だから今日、二十七日――彼は新宿・歌舞伎町の地下深くへと足を踏み入れた。
喧騒から外れた裏通りにある雑居ビル。四軒のヤミ金事務所を回ったが、まだ一円も追加の借り入れは得られていない。利息や条件の問題ではない、二、三往復の言葉を交わしたあと、借り入れ相談については全て國定のほうから取り下げてきたからだ。
國定は、五軒目のドアの前で足を止めた。見上げる位置にある、英字のアクリルプレート。
【CREST FINANCE】
ここだけは、これまでの四軒と明らかに空気が違っていた。 静かすぎる。品性のない怒鳴り声も、受話器を叩きつける音もない。廊下に漏れ出る空気は妙に乾き、張り詰めている。
國定は少しだけ目を細め、重いドアを押し開けた。
数分後、パーテーションの奥にある社長室へと通された。 社長である男――狗飼強は、デスクの上に数枚の「メモ書き」を置いたまま、顔を上げようとはしなかった。
「國定……二十一か、W大のラグビー部、えらく健全なガキが来たもんだ」
地を這うような、低く掠れた声。 狗飼が細い指先でトントンと叩いたのは、國定が提出した身分証のコピーではない。裏の情報網から買い取ったメモだった。
「昨日、うちの系列の質屋に、学生ローン三社から限度額いっぱい引っ張った足で、ヴィトンのバッグ四つ持ち込んで叩き売ったアホな学生がいるって報告が入ってな。名義を照合させたら、お前だ」
狗飼がゆっくりと顔を上げた。射すくめるような、底の知れない双眸が國定を捉える。 ヤミ金は表の信用情報機関にはアクセスできない。だが、歌舞伎町の裏で回る「金と人間の情報網」を、この男は完全に掌握していた。
「短期間で全方位から目一杯に現生をかき集めて、今日、ヤミ金のうちに来た。総額で120万円。普通なら、ギャンブルの追い込みで頭がパニックになって、人生終わったようなツラで泣きつきに来る段階だ」
狗飼はポケットからタバコを抜き取り、カチリとジッポを鳴らした。
「だがお前には、そういう"焼きが回った人間の匂い"が、欠片ほどもねえ。買い叩かれるのを見越して、一番早く現金化できるルートを最短距離で叩き潰して歩いてる。……お前、その金を何に使う気だ?」
◆
國定は表情を変えず、正面の狗飼をまっすぐに見つめ返した。
完璧に整理整頓されたデスク。ドアの向こうを行き交う部下たちの、足音の静かさ。無駄な虚勢や威圧で客を呑もうとしない、合理的な空気。 目の前の男は、歌舞伎町のただのゴロツキではない。数字の冷徹さと情報の価値を理解している、本物の「裏のプロ」だ。
國定の口元が、わずかに不敵に歪んだ。
(ココかな)
「二日後に、確実に150万円以上にして戻せるアテがあります。そのためのあとすこしの弾(原資)が足りない」
「アテ、ねえ」
狗飼は咥えていたタバコを、灰皿の淵へゆっくりと押し付け、揉み消した。
「そいつはこっちにゃ関係ねえ話だ。どんなに威勢のいいことを言っても、お前はただの、担保もねえ多重債務のガキだ。うちが金を貸す理由がねえ」
「担保ならありますよ」
國定は、自身の頑強な肉体を軽く叩いた。
「W大学ラグビー部主将。実家は石川県小松市の喫茶店。逃げも隠れもしない。もし俺が二日後に飛ばれたら、明後日の朝にW大のグラウンドに来ればいい。俺の身元も、引きずり下ろせる社会的地位も、全部そこにある」
狗飼の太い眉が、ピクリと跳ねた。 普通の多重債務者は、身元を隠そうとするか、虚偽の申告をする。だが目の前の若造は、自分の「逃げられない価値(担保)」を冷徹に理解し、自ら人質として差し出している。
「……飛ぶ度胸もねえのに、ハッタリか」
「度胸の問題じゃない。合理性の話です。あんたにとっても、これは悪い取引じゃないはずだ」
國定はデスクに両手を突き、狗飼の目を正面から射抜いた。
「100万円貸してください。基本のトゴ(十日で五割)でいい。ただし、俺が返すのは十日後じゃない。二日後――二十九日の朝一番に、利息の50万円を乗せて、150万円を一括でここに持ってくる」
「……ほう?」
「あんたにとっちゃ、十日間金を寝かせるリスクを、わずか二日間に圧縮できる。しかも丸々十日分の利息が手に入る。回収率と時間対効果を考えれば、極上の案件だろ。その代わり――二十九日の朝までは、俺の動きを一切追うな。お互い、ビジネスをしよう」
濃密な沈黙が、社長室を支配した。
狗飼は、冷徹に頭の中で算盤を弾いた。 二十一歳の学生。身元はガチガチに割れている。逃げようがない。もし明後日、150万円を持ってこなければ、大学に追い込みをかければいいだけの話だ。頑健な体だ、最悪、裏の労働市場に沈めても100万円程度なら一瞬で回収できる。 つまり、狗飼側のリスクはほぼゼロに近い。それでいて、わずか二日で50万円の利益が転がり込む。
(……こいつ、金貸しの心理とリスクヘッジを完全に理解してやがる)
狗飼の脳裏に、冷たい戦慄が走った。試していたつもりが、最初からこの若造の計算の枠の中にハメられていたのは、自分の方ではないか。ただの学生が、ヤミ金の社長を相手に、これほど無駄のない「win-winの合理的交渉」を組み立てられるわけがない。
数秒の後。 狗飼の口元が、皮膚を引き剥がすようにゆっくりと吊り上がっていった。それは、得体の知れない怪物を前にした時の、ゾクゾクするような愉悦の笑みだった。新たに火を点けたタバコの紫煙を、國定の顔に向けて思い切り吹きかける。
「……なるほどな。最高に面白ぇビジネスだ、國定」
狗飼は静かに立ち上がると、部屋の奥の耐火金庫から、銀行の帯がついたままの一束――100万円の札束を抜き出し、デスクへと放るように置いた。
「明後日の朝九時だ。一分でも遅れたら、お前の言う『担保』を、文字通り根こそぎ剥ぎ取りに行くからな」
「ああ。二日後にな」
國定は、煙の向こうで不敵に笑う狗飼を見据え、ただ無言で100万円の札束を掴み取った。 明日、九月二十八日。アイルランド戦。 手の内は一切明かしていない。これですべてのピースは揃った。ここから、世界をひっくり返す最初の博打が始まる
今週中に4話アップしようと頑張っています。
ラグビーW杯2019編、一気に進めますのでお楽しみに!
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『CROWNED CROW』は、
未来を知る男の成り上がりだけでなく、
AI・国家・資本・災害・人間の欲望を描く物語でもあります。
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