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第四話 証明の尺度

痛みを拒み、改革から目を背け続けた果てに、日本は列強の狩場に成り下がった。 主権国家とは名ばかりの姿。かつてこの国が誇ったものは、次々と切り売りされていった。 関東最大の指定広域暴力団 清瀧会の若頭 國定は裏から日本を守る戦いに身を投じ、やがて全てを奪われ凶刃に倒れた。


…気づけばそこは二〇一九年、大学生の肉体に四十八歳の極道の魂が宿った。


天才を口説き、金を作り、政治を動かし、国家を取り戻す。 誰よりも日本が滅ぶ未来を知っている男の、不格好すぎる宣戦布告。




この数日、國定は未来を変えないように生きてきた。徹底して「いつも通りの一大学生」を演じ続けていた。


自らが描いた絵を狂わせる最大のリスクは、既知の未来が変わること。現時点で國定が最も警戒すべきは、その一点だった。


講義室の隅でノートをとり、グラウンドで泥にまみれる。神妙な顔をして、二十一歳のラグビー部主将として世界に溶け込む。いつもと変わらず大声で練習を鼓舞し続ける主将が、その内面では日本を立て直す壮大な計画の前夜の昂ぶりを必死で押さえていることを、ともにボールを追うチームメイトたちには誰ひとり知る者はいなかった。



2019年9月20日 19時10分 東京ドームシティ、成城石井ラクーア店前


「――遅い。僕の時間は安くないんだ」


矢久保にとって、外で人と待ち合わせるなど初めてのことだった。 ぎりぎりまで来るつもりはなかった。だが18時を回ったあたりから、妙に落ち着きが損なわれていった。やがていてもたってもいられなくなり、あるだけの勇気を奮い立たせてここまで来た。にもかかわらず、そこにあいつの姿はなかった。


矢久保は苛立ちを隠そうともせず、貧乏ゆすりをしていた。眉間に深い皺を寄せ、踵を返そうとしたその瞬間、人混みをかき分けて國定が走ってきた。


「悪い、待たせたな!」


豪快に笑う姿は、どこからどう見ても、ただの三枚目の大学生だった。悪びれる風もなく肩を叩き、先導し始める。促されるままスポーツバーに入り、席につく。國定は躊躇なく店員に「オレンジジュース二つ」と告げた。泥臭い酒を煽るのが似合う顔で、柑橘のジュースを頼む。その奇妙な違和感に、矢久保は眉をひそめた。


「あぁ、ガラじゃないだろ。今日は頭をクリアに保っておきたいからな」


矢久保の視線に気づいた國定はそう答え、カバンから一冊の大学ノートを取り出して、机の真ん中に開いて置いた。びっしりと書き込まれた、ラグビーの緻密なデータ。


「何これ。証明するって言うから来てみれば、スポーツ観戦?」 「まあ見てろって」


國定が指差した先、店内のモニターには2019ラグビーW杯・開幕戦「日本対ロシア」開始前の味の素スタジアムの映像が流れていた。ユニフォームを着込んだ客たちで満員の店内は、熱気と喧騒に包まれている。矢久保には、ひどく居心地の悪い空間だった。


満を持して、ホイッスルが鳴った。


「見てろ、開始五分で日本はロシアに先制される」


國定はノートの一角を指さし、読むよう矢久保に目配せした。


――『前半5分、日本のノックオンからロシアがカウンター。キックを処理できず、ウラジミール・オストロウシコがトライ。0-7』。


その瞬間、スピーカーから実況の叫びが響いた。店内から地鳴りのようなため息が漏れる。日本のミスからロシアが先制のトライを決めたのだ。矢久保は凍りついた。


時間、選手名、流れ。すべてが完璧に、過去形で記載されていた。


「ただし」と、國定がオレンジジュースを喉に流し込みながら続ける。「すぐに松島が取り返す」


わずか6分後。ノートの記述通り、松島幸太朗が電光石火のトライを奪い返した。


矢久保の脳細胞が、必死に現状を拒絶する。偶然だ。ラグビーに精通した人間なら辛うじて予測できる範疇だ。まだ、手品か何かのタネがあるはずだと、眼鏡の奥の瞳を狂ったように動かす。


しかし現実は、容赦なく矢久保の知性を圧殺しにきた。


前半33分、選手交代。前半39分、松島の再びのトライ。 的中するたびに、國定は無邪気な少年のように目を輝かせ、赤ペンでノートの頭に「〇」をつけていく。冷酷な修羅の気配など、影も形もない。しかし、その無邪気な赤丸の羅列こそが、矢久保にとっては底知れない恐怖だった。


(……僕の脳がバグを起こしているのか?)


あり得ない。手品やトリックの介在する余地など、この開かれた空間のどこにもない。偶然の一致などという確率は、もはや天文学的という言葉ですら届かない。狂っているのは自分ではなく、目の前の現実だ。


その後も、ハーフタイムを挟んだ後半戦に至るまで、世界はノートの筋書き通りに淡々と、しかし確実に侵食されていった。日本が重ねる追加点も、キックの成否も、何一つとして予測から外れない。矢久保はただ、めくっても、めくっても、寸分違わず未来を的中させ続ける不気味なノートとモニターを交互に見つめ、息を呑むことしかできなかった。


やがてノーサイドの笛が鳴った。30対10。日本代表の歴史的勝利。


「ふう……今のところバタフライ効果の影響は見えないな」


國定は予言を全て的中させたことを誇るでもなく、心底ほっとしている様子だった。


「もう少し話がしたい。場所を変えよう」


いつもの平熱の声で、国定は静かに促した。



國定のワンルームマンション。


鍵を開けて部屋に入るなり、國定は机の上に「これ」とあの大学ノートを無造作に放り投げた。


「2046年、48歳だった俺は死んだ。そして気がついたら、この2019年に戻っていた。タイムリープだ」


荒唐無稽。だが、あの試合を見せられた矢久保に、それを拒絶できるだけの理知は残っていなかった。矢久保は震える指でノートの先をめくる。


『2020年:新型ウイルスの世界的大流行』 『2022年:ウクライナ侵攻、世界情勢の激変』


冷徹な事実として書き連ねられた、未来の年表。矢久保の暴走する知性は、國定が口を開く前に、そのデータの真贋をすべて察知し、結論を弾き出していた。


――「すべて本物」。


理詰めの極致にあるはずの自分の世界が、いま、非科学的な怪異を前にして音を立てて崩壊していく。


幼いころから理解力で抜きんでていた矢久保は、どのコミュニティでも浮いた存在だった。同世代はもちろん、親世代ですら、どこか下に感じてしまうほど。当然、周囲も彼を薄気味悪がって距離を置いた。だから矢久保は、基本的に人間を信じない。知り合ったばかりの他人の言葉を鵜呑みにすることは、自らの知性を放棄するに等しい敗北だった。


こみ上げる動揺を隠すように、矢久保は細い指先で自分の前髪を強くかきむしった。 ここで流されれば、自分の世界が根底からすべて呑まれる。壊れかけた現実の境界線を必死に繋ぎ止めるように、呼吸を荒くし、指先を小さく震わせながら、矢久保は泥臭い難題を叩きつけた。


「じゃ、じゃあさ……N工科大学の桑田教授。僕の論文を盗んだんだけど、君の未来知識を使ってあいつを潰してよ。それができるなら、君の言うことを信じてあげるよ」


逃げ道を作るための、子供の泣き言のような悪あがきだった。未来を知っているといっても、己の私怨の範疇にいる桑田のような小者のことなど、知るはずもない。


國定は眉一つ動かさず、淡々と言い放った。


「知らん。桑田なんて男の名前は、前の人生でも聞いたことがないな」


予想通りの答えに、矢久保は内心で安堵した。ほんの少しの優越感が、胸を満たそうとした――その瞬間だった。


國定の双眸から、ふっと光が消えた。 未来の預言者ではない。長く他者の欲望を覗き込んできた男が姿を現した。


「たぶんそいつは今、自分の研究が手詰まりになって焦っているな」


地を這うような低い声が、部屋の空気を一瞬で凍りつかせる。


「学生の成果を掠め取るような奴だ、自力での開発限界は見えている。この2019年って……AIだなんだと世間が浮かれていた頃合いだろ。そいつ、大学の看板使って、中身のないカタカナの会社でも立ち上げて、せっせと国から金を引っ張ってんじゃないか」


「え……」


高度なIT事情の予測などではない。目の前の男は、二十数年前のぼんやりした記憶と人間の本質だけで、桑田の現状を正確に看破した。


「そいつの未来は知らないが……地獄に導くのは案外容易だぞ」


國定は無表情のまま、ちらりと矢久保を見た。その瞳の奥にある昏い光を、矢久保は直視できなかった。


「ネットで英語のファンドサイトを一夜で作る。名刺を刷って、俺が話に行く。『資金提供をしたい』と囁いて、社内審査のためにソースコードを提出しろと言えば、かならず食いつく。あとは学会に匿名で流すだけだ。……2カ月で自滅させられるな」


二十一歳の声帯が出していい声音ではなかった。


「ま、待ってくれ! 冗談だよ……!」


気づけば矢久保は、國定の言葉を遮っていた。激しく脈打つ心臓。なぜ自分が止めたのか、理由が分からなかった。ただ、本能の何かが悲鳴を上げていた。


遮られた國定は、不思議そうに矢久保を見た。 数秒の、奇妙な沈黙。 それから、すっと重圧が抜けた。


「そっか。……そういや腹減ったな。よっしゃ、カップ焼きそばでも食うか」


「……え?」


あまりの変わり身の早さに、矢久保の思考は完全にフリーズした。目の前で國定が電気ケトルでお湯を沸かし、棚から安っぽいカップ焼きそばを二つ取り出して、手際よく準備を始める。


カチャカチャと剥がされるプラスチックの蓋。 やがて、シンクのステンレスが「ベコッ」と大きな音を立て、熱湯が捨てられる。 狭いワンルームに、ジャンクで暴力的なソースの匂いが充満していく。


パイプ椅子に座ったまま、矢久保は自分の指先を見た。冷え切っていたはずの指が、かすかに熱を帯びて震えている。


世界の壁が壊れていくのを、矢久保は止めたかった。自分がずっと退屈だったことを、認めたくなかったから。だがパンデミックだの日本が凋落するだの、妄想狂のたわごとような話の真横であまりにも生々しい日常の音と匂いがそこにある。その異常な落差に、矢久保の心臓は静かに、しかし確実に昂ぶっていた。


「ほら、お前の分」


目の前にプラスチックの容器が置かれた。


國定はパイプ椅子を引き、自分の分の焼きそばを豪快にすすり込む。口の周りに少しソースをつけたまま、いつもの平熱のトーンでぼそりと言った。


「まずは、種銭作りだ」

「次回、ノートに書きだしたあの人を救うために動きます。そしてアイツと出会います」


ここまで読んでいただき、ありがとうございました。


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感想も歓迎しています。

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次回も、よろしくお願いします。

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