第一話 運命の咆哮
顔面に、衝撃が来た。
冷たい。鼻腔の奥を通って、喉の下まで一気に流れ込む。
肺が、勝手に動いた。
「——ぶはっ、げほっ、ごほっ!」
咳が喉をひっくり返す。泥と胃液が口の端からこぼれる。視界が白く明滅して、それから——世界が、像を結んだ。
太陽だった。
雲ひとつない秋の空だった。
芝の匂い。汗の匂い。乾きかけた土の匂い。さっきまで全身にこびりついていたはずの——血の匂いが、どこかへ消えた。
やかんを両手で抱えた女が、こちらを覗き込んでいた。
ショートカット。
健康的に日焼けした頬。
汗で前髪がひと房だけ額に張り付いている。白いポロシャツの上に、見覚えのあるマネージャーのビブス。
「キャプテン、指、何本」
鼻先に、ピースが突きつけられた。
喉が、塞がった。
北川日菜子が、そこにいた。
ついさっき小さな画面の中で動かなくなった姿を見せられた女が、息をしている。付き合うよりずっと前のまだ幼さが残る顔で、やかんを持って、こちらを見ていた。
「もう一回、いっときます?」
日菜子がやかんを少し持ち上げる。
「冗談です。ほんとにびっくりしたんですから」
國定は答えなかった。
(……あぁ、そうか、……俺、もう死んでるんだっけな)
(最期に見る夢ってやつなら、悪趣味だな)
血の臭いがまだ鼻の奥に残っている。
これが走馬灯というものなのか、あるいは地獄なのか、とりあえず國定は考えるのをやめた。
(どうでもいいか、最期の夢ん中ぐらいは好きに暴れさせてもらおうか)
國定は肘で芝を突き、ふらつきながら立ち上がった。腹に力が入る。腹にあるはずの穴がない。 若い。軽い。それは二十一歳の体だった。
袖で顔をぬぐうと、泥と草と鼻血が白いジャージに長くのびた。
「キャプテン……?」
日菜子が、ほんの少しだけ後ずさる。
國定はその目を見なかった。
見たら、足が止まる気がした。
◆
グラウンドへ目を向けた瞬間、息が止まった。
十三番が、走っていた。
與田雄輝。
忘れるわけがない。
二〇一九年九月中旬。大学対抗戦。 相手は当時急激に力をつけてきたP大だった。 P大の監督、米山はあまり良い噂を聞かない人物で、俺たちはP大が仕掛けてくるラフプレーにリズムも身体も削られ、前半を五点のリードを許して折り返した。 それは後半の立ち上がり、俺たちのチームのエース與田がこぼれたボールを拾いに走った時、P大の20番は悪意を持って與田の膝に飛び込み、そして絶叫が響いた。 その後エースを欠いた俺たちはP大に逆転を許し、試合を落とした。 このケガは、ラグビーがすべてだった與田から選手生命を奪うことになった。 そして半年後、與田はひとり部室で首をつった。
試合後の記憶は赤かった。 気づけば俺は、米山の顔が潰れるまで殴っていた。 俺は與田の訃報を留置所で聞かされることになった。 葬式で見送ってやることさえできなかった。
(夢なら何してもいい)
(だったら全部ぶち壊してやる)
「——イッテキ!」
その與田本人が、こちらへ走ってきた。
「頑丈だけが取り柄だろ、さっさと戻れッ!」
太陽みたいな笑顔だった。
何も知らない笑顔だった。
<間違いない、この夢は與田のすべてを奪ったあの試合だ>
合点はいく。 その後の人生で忘れることがなかった、悔いても悔やみきれない瞬間を、死の間際にまた見させられているんだ。
◆
ハーフタイム、國定は目の端で相手ベンチを観察していた。
敵監督、米山が20番の耳元で何かを伝えていたところはすでに確認した。 米山の本性を知っているからか知らないが、國定には米山の顔にかなり気味悪い笑みがはりついて見えた。
「ユウキ」
國定は與田にだけ聞こえるように耳元で声をかけた。
「ん?」
「後半、ベンチの指示は無視して俺が指示を出す」
「は?」
「うかつに前に出るな。絶対だ」
「何だよ急に。サインは?」
「いいからだ」
「……お前、どうした」
「いいから来い」
声が、自分でも驚くほど低かった。
與田がそこで黙った。何かを言い返しかけて、やめた。
「……わかったよ」
笛が鳴った。
後半開始とともに國定は、その空気ごと正面から殴りに行った。
最初のボールを受ける。真っすぐ行く。目の前の一人を肩で跳ね飛ばす。次の一人を押しのける。倒れてもすぐ立つ。もう一度行く。
綺麗ではなかった。
変えてやるよ、おれの意図が効く夢なら、この試合を変えてやるよ。
俺のひとりよがりな熱い決意は、なぜか夢のなかのチームメイト達にも伝染したように見えた。
押されていたはずの体が、急に下がらなくなる。スタンドのざわめきが変わる。
さっきまでただの一試合だったものが、少しずつ、別のものになっていく。
そして、その時が来た。
ボールが外へ展開され、俺の後ろから與田が走り込む。
P大の20番が、與田ではなく、その膝だけを見ていた。
國定はボールを追わなかった。
20番へ走った。
横から、肩から、全体重をぶつけた。鈍い音がした。20番が吹き飛ぶ。その襟を掴み、芝の上に引きずり込む。外からはただのもつれにしか見えない。
その一番下で、國定は20番の耳元に顔を寄せた。
「與田に近づくな」
國定に肩を決められ、20番の表情はこわばる。
「與田より先に、お前の右肩を終わらせてやろうか」
声に熱はなかったが、少しの感情のブレでやってしまいかねない程度には國定の情緒は危うかった。
それは相手にも伝わっていたようだ。
顔色が真っ青になった20番をその場に残し、國定は試合へ戻る。
そこから先は、國定が前に出るたびに空気が動いた。味方がつられて前へ出る。P大が初めて後ろへ下がる。與田がボールを持てば、閉じていたはずの道が、なぜか開く。 流れは完全にW大に来ていた。
敵ベンチへ目をやると、下げられた20番が米山に怒鳴られていた。 激高しながら罵しり、ハタいてくる米山にされるがまま、20番はずっと俯いて震えていた。
與田が左の隅へ飛び込んだ。
スタンドが、遅れて爆発した。
コンバージョンキックも決め、W大は逆転した。
◆
ノーサイドの笛が鳴る。
誰かが背中に飛びついた。誰かが「イッテキー!!」と怒鳴った。笑い声、泣き声、スパイクが土を削る音。汗の匂い。芝の匂い。口の中に残る泥の味。脇腹の痛み。
全部、本物だった。
仲間の波が引き、國定はグラウンドの真ん中に一人残った。
自分の影が芝に落ちている。
影が、ある。
脇腹が痛い。
呼吸は熱く、肺が苦しい。
応援テントの脇で、日菜子がタオルを抱えたまま跳ねていた。誰かと笑って、またこっちを見る。
遠くで歓声が波みたいに揺れていた。
芝を掴む。
指の間に、土が入り込む。
涙が止まらなかった。
生きていた。
それだけで、腹の底がひっくり返った。
戻されたのだ——と、國定は確信した。
訳もなくではない。偶然でもない。
喉の奥から、笑いに似たものがせり上がった。けれど笑いにはならなかった。もっと大きくて、もっと荒くて、もっと深いものだった。
國定は空を仰ぎ、吼えた。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッッ!!!!!」
それは勝利の雄叫びとは違った。
生き返った男が、両肩に落ちてきた重みごと呑み込んで、なお立つと決めた声だった。
スタジアム中が、止まった。
グラウンドで抱き合っていた仲間も、ベンチのマネージャーたちも、帰り支度を始めていた観客も、P大のベンチも、いっせいに動きを止めて國定を見た。
声が大きかったからではなかった。
身体の芯に、何かが響いたからだった。
大半は「でかい声だったな」で済ませただろう。
けれど何人かは、胸の奥のどこかが妙に熱いままでいることに、少しだけ首をかしげた。
◆
歓声が、潮のように、引いていく。
(——もうひとつ)
(片づけることが、ある)
殴って済む話じゃない。
殴って済むなら、こんなに長く胸に残っていない。
これは勢いじゃない。これから先、自分の足で歩き直すための——最初の片づけだった。
通路脇の荷物棚から、スマホを抜き、ジャージの背中へ挟んだ。
◆
関係者用通路の脇、薄暗い男子便所。
蛍光灯が一本、ジー、と鳴いている。
扉を押した。
奥の小便器の前に、紺のチームブレザーが立っていた。P大のエンブレム。猫背気味の、薄くなりかけた後頭部。
P大監督——米山達夫。
「ちっ、戸田があんな役立たずだったとは。相手ひとりを壊すこともできんとか、カスがッ」
ぶつぶつと独り言ちながら、その男は用を足していた。
國定は、何も言わず、隣に立った。
米山に並んで用を足し始める。
ちょろ、と、二人分の音がタイルに落ちた。
「へぇ、あの20番、戸田って名前だったんですね」
抑揚のない声だった。
「おま、聞いてたのか」
無視して続けた。
「そんなことより監督、就職先ちらつかせて、選手の母親を食い物にするのも潮時じゃないですか」
米山の手元が、止まった。
「……何だ、お前」
「あとバカラもほどほどにしとかないと、負けがこみすぎじゃないですか。確か島津組んとこの竹村さんの店だろ、追い込むときは容赦ない人だぜ——」
沈黙。
水音だけが、やけに大きく響いた。
米山の喉仏が、ごくりと動いた。
「……知らんな」
「へえ」
國定は、少しだけ笑った。
笑ったが、目は壁から動かない。
それきり、口を閉じた。
沈黙が、伸びた。
——そこで、國定の声の温度が落ちた。
落ちた、と分かるくらい、落ちた。
「米山ぁ」
もう、21歳を装うのはやめた。
「相手の選手を潰させる指示——次使ってみろ」
それは、二十一歳の主将の声では、なかった。
三十年近く、暴力の側で生きてきた男の声だった。
米山が、ゆっくりと、こちらへ顔を向けようとした。
向けかけた、その瞬間——
國定は、目だけを動かした。
横目で、米山の眼の奥を、ひと撫でした。
「——消すぞ」
声に怒りはなかった。
あるのは、ただの、確認だった。
次の瞬間、米山の視線が、完全に宙を泳いだ。
水音が、床へ散った。
膝が抜けた。
百八十センチ近い男が、自分が作った水溜まりに、ぺちゃん、と座り込んだ。
下顎が、上顎にぶつかる音が、止まらなかった。
◆
折れたな——それを確認した瞬間、國定の顔から、若頭が、すっ、と抜けた。
ジャージの背中からスマホを抜く。
便所の床に崩れ落ち、自分の小便まみれで震えている五十二歳に、ようやく視線をやった。
カメラを、構えた。
「あ、撮りますね」
無機質なシャッター音が、タイルに跳ねた。
脂汗にまみれて真っ青な米山の顔が、さらに動揺でみすぼらしく震えた。
國定は画面をちらりと確認し、一度も振り返らずにトイレを後にした。
※※※
かつて試合後に與田のケガの具合を聞き激高した俺は、帰りのバスに乗り込もうとしていた米山を引きずり下ろして、顔の形が変わるまで殺すつもりでボコボコに殴り続けた。 最後は我に返ったP大の連中に組み伏せられ、その後俺は警察へと引き渡された。 俺がラグビー界と大学から追われ前科を負うことになった、まぁ俺自身の分岐点でもあった。 そして俺が與田の訃報を聞かされたのは拘置所の中だった。
※※※
◆
夕暮れのスタジアムの廊下。
歩きながら、右手を、開いて、閉じた。
震えては、いなかった。
W大側のロッカールームへ戻る廊下の突き当たり。重い扉の前に、人影があった。
日菜子だった。
ビブスを脱いで、クリップボードを胸に抱えて、扉の脇の壁にもたれている。仲間たちと一緒に飯へ行かず、ここで待っていたのだ。
國定の足音に気づいて顔を上げ——ああ、よかった、という顔をした。口には出さなかった。ただその目が、そう言っていた。
「遅いです。みんな先に行っちゃいましたよ」
責めているのではない。ただそれだけを言って、また壁にもたれた。
十八歳の、まだ丸みの残る顔が、夕暮れの廊下の薄明かりの中にある。
國定は、その前で立ち止まった。
この女のことを知っている。怒り方も、笑い方も、泣いたときに必ず左手で目を押さえる癖も、全部知っている。二十七年分の記憶がある。一緒に年を取って、白髪が増えて、娘が生まれて——そして最後に、動かなくなった。
今この娘は、まだ十八歳だ。
付き合ってもいないし、お互い何も知らない時期だ。
それでも、ここで待っていた。
國定はゆっくりと右手を伸ばし、日菜子の頭に手を置いた。ショートカットの髪が、掌の下で柔らかく沈む。くしゃっと、一度だけ、撫でた。
「……待ってたのか」
「なんか、心配で」
日菜子は少し首をすくめながら言った。照れているのか、それとも意味が分からないのか、自分でも判断がつかないような顔をしている。
國定は、前を向いたままだった。
日菜子には見えない角度で、目の端から、静かに涙が伝った。一粒だけ。それきりだった。
(今度こそ.....)
誓うというより、それはただの確認だった。前世でできなかったことを、今度は最初からやり直す。ただそれだけだ。
「行くぞ」
手を離して、歩き出した。
「え、ちょっと待ってください、歩くの早いですっ!」
日菜子が小走りで後を追ってくる。その足音が、廊下に響いた。
國定は振り返らなかった。ただ、少しだけ歩くのを遅くした。
烏の一擲——その名は、まだ誰も知らない。




