プロローグ 泥濘に沈む国
二〇四六年、東京・文京区音羽。
雨が、護国寺の石を黒く沈めていた。山門はまだ形を保っている。だが、その向こうに広がる街の空気は、もう昔の東京のものではなかった。湿った土と線香の気配に、錆と排気と、淀んだ水の臭いが混じっている。
見上げれば、首都高五号池袋線の高架が空を塞いでいた。ところどころ腹を裂かれたようにコンクリートが剝がれ、赤茶けた鉄筋が雨の中へ突き出ている。上の車線では、自動制御の高級車だけが音もなく灯を滑らせていく。下には、行き場を失った廃材や壊れた家電が黒い水の脇に積み上がり、雨を吸って沈んでいた。国の骨だけが、先に剥き出しになっていた。
音羽通りの高層ビル群も、まだ立ってはいた。割れた窓の奥は暗く、壁面のホログラム広告だけが遅れて明滅する。古いニュース映像は途中で裂け、無音のまま同じ口の動きを繰り返していた。街路樹の銀杏は枝を伸ばし放題に伸ばし、看板の文字を半ば呑みこんでいる。通りには、もう言葉の熱だけがなかった。
寺の奥、墓地へ抜ける小径の先に、黒い背広の男が倒れていた。
雨と血で布地は重く沈み、裂けた背中から濡れた彫り物が覗いている。烏だった。翼の片側だけが、泥と血のあいだから鈍く浮いて見えた。
墓石は雨を受けて白く光り、遠くの式場から読経だけがかすかに流れてくる。
三日前。
◆
世田谷の外れにある清水邸は、同じ東京とは思えない静けさに包まれていた。手入れの行き届いた庭で、池の水だけがわずかに揺れている。
縁側に座る清水龍稔の横で、國定一擲は庭を見ていた。陽は出ていたが、空気はまだ少し冷たかった。
「幹事長、最後まで顔色変えませんでしたね」
國定が言うと、清水は湯呑を手の中で転がした。
「変えんさ。ああいう顔で、切るものを決める連中だ」
「公安まで噛ませて、ようやくです」
「ようやく、か。警察の力を借りた時点で、半分負けだ」
國定は黙った。
清水は庭の松を見たまま続けた。
「だが、お前の働きは見事だった。自由民生の幹事長を引っ張り出して、稲木まで動かした。頼まれて動く連中じゃない。得になると見たから動いた」
「得になるように見せただけです」
「それができるのが才覚だ」
清水はそこで國定を見た。
「家のほうは」
「妻も娘も、公安の保護下です」
「そうか」
頷いたが、その顔に安堵はなかった。
「中華の連中は、近ごろ雑じゃない。金の流れも、鉄砲の入り方も、街の潰し方も妙に手慣れてる。本土の影が濃い」
「承知してます」
「してる顔じゃない」
「……してるから、こうしてます」
國定の声は低かった。
清水は小さく鼻を鳴らした。
「まあいい。案じるなとは言わん。だが、警察に預けた以上、腹は括れ」
「親父は信用してない」
「してないさ。だが、使えるものは使う。役人は正義で動かん。損得で動く」
「それでも、今は守らせるしかない」
「そういうことだ」
少し風が吹き、池の水面が細く震えた。
清水は湯呑を置いて立ち上がる。
「ほら、行くぞ。今日は天気がいい。病院日和ってやつだ」
「そんなもん、聞いたことないですよ」
「今つくった」
國定も立ち上がった。
その背中を見て、清水が笑う。
「久しぶりだな。お前に車を回させるのも」
「昔は送るだけじゃ済まなかったでしょう」
「今も似たようなもんだ」
二人はそのまま玄関へ向かった。
◆
病院の待合に、春の光が四角く差していた。
診察券を受け取った清水は、腰を下ろさず立ったまま言った。
「毎度悪いな」
「何がです」
「送らせてることだ」
「送ってるんじゃないです。ついて来てるだけです」
清水は、少しだけ口元をゆるめた。
「言い方だけは昔より偉くなった」
「立場がありますから」
「立場で人は守れん。顔を見りゃわかる。お前、昨夜も寝てないだろ」
國定は答えず、ネクタイを指で直した。
その仕草を見て、清水はそれ以上言わなかった。
「家のことは気にするな。気にしたところで、なるようにしかならん」
「……気にしないで済むなら、苦労しませんよ」
「苦労してる顔を表に出すな。下の者が不安になる」
看護師が清水の名を呼ぶ。
清水は顔を上げ、その方へ向いた。
「じゃ、行ってくる」
「ええ」
「終わったら電話する」
「車、下で待ってます」
「待たなくていい。戻れ」
「そういうわけにもいかないでしょう」
清水は鼻で笑った。
「頑固なやつだな」
「親父に言われたくないですよ」
清水は肩を揺らしただけで、そのまま白い廊下へ入っていった。
扉が閉まる。
待合には、自販機の低いうなりと、絞られたテレビの音だけが残った。
國定は立ったまま透析室の表示灯を見ていた。
胸ポケットから携帯を出し、画面を確かめる。着信はない。妻からの短い連絡も、娘の他愛ないメッセージも来ていなかった。指で一度だけ画面をなぞり、戻す。
しばらくして、奥で金属の落ちる音がした。
続いて、女の声が張る。
「先生、来てください!」
國定は顔を上げた。
若い看護師が廊下から飛び出してきて、慌てて両手を広げる。
「ご家族の方ですか、お待ちください」
「中にいるのは清水龍稔だ」
看護師がひるんだ隙に、その脇を抜ける。
透析室の扉は半分開いていた。消毒液の匂いが濃い。
ベッドの上で、清水の体が大きく跳ねていた。
肩が浮き、首が引きつり、開いた口から泡がこぼれる。目は半ば裏返り、焦点を失っていた。モニターの数字が崩れ、警告音が部屋に刺さる。
「親父!」
誰かが腕を掴んだが、振り払った。
ベッド脇に寄り、清水の手を掴む。乾いた、見慣れた手だった。だが指先だけがひどく冷たい。
医師が胸元へ手を入れ、看護師が酸素マスクを当てる。白い袖が視界を横切るたび、清水の顔が隠れる。國定はそのたび前へ出た。
「親父」
返事はない。
喉の奥で濁った音が鳴り、背中が弓なりに反ったあと、急に力が抜けた。
國定は掴んだ手に力を込めた。
それでも、その手は握り返してこなかった。
警告音が長く伸びる。
医師の声がして、看護師が時刻を告げた。
清水の口が、かすかに動いた。
國定は顔を寄せた。薬品と泡の匂いがした。
「……まも、れ」
息の切れ端のような声だった。
それで終わった。
國定はしばらく、その顔を見ていた。
さっきまで暴れていた機械のほうが、死んだ身体より落ち着きがなかった。
看護師がそっと手を外そうとしたが、國定は離さなかった。
もう一度だけ握り直し、やがて布団の上へ戻す。指を揃え、掛け布を引き上げる。
窓の外は、よく晴れていた。
國定は一度だけ頭を下げ、透析室を出た。
廊下は来たときと同じ明るさで、テレビの中では誰かが笑っていた。
◆
護国寺の式場は、広さに比べて人が少なかった。
清水龍稔の名なら、本来もっと黒い背広がるはずだった。だが来ているのは、古い義理を切り損ねた者たちだけだった。空いた席のほうが目につく。焼香の煙がまっすぐ上がり、まだ組は生きているのに、弔いだけが先に済まされていくような空気があった。
國定は参列者の顔を見ていた。
去った者、逃げた者、すでに他所へ座った者。清水の死は病院の一室で起きた。だが、あれを病死と呼ぶ気にはなれなかった。
焼香の列が切れたころ、その男は現れた。
「……張世杰か」
呟いたのは國定だけだった。
黒いスーツに乱れはなく、足音は線香の煙より静かだった。見知った顔だった。こちらが歯を食いしばる頃には、いつも向こうはもう一段先にいた。
張は祭壇の白菊を一瞥し、國定のそばで足を止めた。
「何しに来た」
「お見送りに」
声に熱はなかった。
「清水さんは、いい極道でした。うちで腎臓を入れ替える話、受けてくださっていれば」
そこで張は、ほんのわずかに目を伏せた。
「もう少し、長く座っていられたでしょうに」
線香の煙が、二人の間で細く折れた。
國定は黙ったまま、膝の上で拳を握った。布の下で関節が白くなる。式場の入口には所轄が立ち、各地の親分衆もまだ席を埋めている。今ここで動けば、すべてが終わる。それを、張のほうがよく知っている顔だった。
「先日は、自由民生の中嶋先生の娘さんにも、肝臓をひとつ」
張は香典返しの礼でも述べるように言った。
「先生、たいへん、お喜びでした」
煙が、目の高さで一度乱れた。
中嶋。公安を動かしたあの幹事長のことだ。
「ところで」
「このあとの挨拶で、君の口から述べてもらう。清龍会は旧来の対立を終え、新たな秩序のもとで安定を選ぶ、と」
「……ずいぶん丁寧な降伏勧告だな」
「君ほどの男なら、露骨な言葉を使わずとも意味は通せる。参列者も、不自然には思うまい」
國定は答えなかった。
張は胸元からスマートフォンを出し、画面を少しだけ傾けた。
薄暗い倉庫だった。
椅子に座らされた妻と娘が映っている。手も足も後ろで縛られていた。娘は青ざめた顔のまま、まっすぐこちらを見ていた。隣の妻は、娘の肩へわずかに寄るように座っている。
張が画面を伏せる。
「簡単な話です。あなたが賢ければ、家族も無駄死にせずに済む」
読経は途切れない。
参列者の誰も、このやりとりを知らない。
やがて、國定が前へ呼ばれた。
マイクの前に立つ。
白い花、遺影、焼香の匂い、並んだ背広の列。どの顔も、若頭の挨拶として聞く構えしかしていなかった。
國定は一礼した。
「本日はご多用のところ、清水龍稔のためにお集まりいただき、誠にありがとうございます」
声は低く、よく通った。
「故人は長くこの会を支え、多くの者に道を示してきました。厳しい人でしたが、その背中で守ってきたものの大きさは、残された私どもが最もよく知っております」
式場は静かなままだった。
國定は正面を見たまま続ける。
「清水の親父を失ったことは、会にとっても、私にとっても痛恨の極みです。ゆえに若頭として、ここで明言いたします」
一拍だけ置く。
「清水の親父を死に追いやった者は、地の果てまで追い込み、必ず根絶やしにいたします」
年嵩の幹部がひとり目を伏せ、別のひとりが小さく頷いた。
式はそれ以上乱れなかった。
國定が席へ戻ると、胸ポケットの携帯が震えた。
張からだった。
動画が一件、送られている。
開く。
さっきと同じ倉庫。
椅子に縛られたままの娘が、こちらを見ていた。涙は浮いているのに、目だけは逸らさない。隣で、妻が國定を見た。
唇が動く。
「ごめんなさい」
それだけだった。
次の瞬間、映像が大きくぶれた。
二つの身体が、糸の切れた人形みたいに横へ崩れる。首の角度だけが、生きた人間のものではなかった。椅子が倒れ、鈍い音が床を打つ。娘の髪が顔へ落ち、その上へ妻の肩が重なった。
そこで動画は止まった。
國定の指が、携帯を握ったまま固まった。
画面の光が落ちても、黒い面の上にさっきの像だけが残っている気がした。喉がひくつき、息が浅くなる。指先が細かく震え、携帯の縁を二度、三度となぞる。閉じようとして、うまく力が入らない。ようやく画面を落とすように閉じたときには、肩が目に見えて上下していた。
読経は続いている。
焼香の煙も流れている。
参列者は誰一人、若頭の手の中で何が終わったのか知らない。
國定は立ち上がった。
膝がすぐには伸びず、椅子の脚が畳を擦って小さく鳴った。近くの古参が怪訝そうに目を向ける。祭壇へ向けるべき顔の向きも定まらず、一度立ち止まり、また歩き出す。古参のひとりが半歩だけ腰を浮かせたが、國定は見ていなかった。若頭が抜けたあとの読経だけが、場違いなくらい整って続いた。
式場の外へ出ると、雨脚が少し強くなっていた。
冷たい雨だった。石畳は濡れて色を失い、山門の向こうの空まで鈍い鉛色に沈んでいる。
國定は傘も持たず、墓地のほうへ歩いた。
足元は危うく、石段をひとつ下りるたびに靴裏がわずかに滑る。手すりへ手を伸ばしかけて、途中でやめる。指先はまだ携帯を握っているみたいにこわばっていた。背中では読経が遠のき、かわりに雨が木々を叩く音だけが強くなる。
人の気配はそこだけ途切れていた。
墓石の列のあいだを、濡れた土の匂いだけが細く通っていた。
國定は胸ポケットから煙草を出した。
箱の口を押し開ける。
一本つまもうとして、指が滑る。
もう一度やる。今度は爪だけが紙に引っかかり、白い筒が箱のなかで折れた。乱暴に引き抜こうとして、煙草を地面へ落とす。
拾えなかった。
そのまま立ち尽くし、濡れた煙草を見下ろす。
肩がひとつ落ち、もうひとつ落ちた。喉が詰まり、息を吸うたびどこかが痛む。顔は上がらない。
息を吸った拍子に、喉の奥で音が割れた。
次の呼吸でもう抑えがきかず、濁った声が雨の中へこぼれた。肩が震え、背中が小さく折れる。濡れた前髪の先から雫が落ち、黒い革靴の甲を叩いた。
その背後で、砂利が鳴った。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
気配は六つあった。
短い中国語が交わされる。
気配の数だけはわかった。だが首は上がらず、足も引かなかった。
最初の刃が、脇腹へ入った。
熱い鉄を押し込まれたみたいな感触だった。
次の一本が肩口、三本目が脇を裂く。黒い背広の中へ立て続けに痛みが入り込み、遅れて、身体の奥から何かが噴き上がる。背中にも長く深い一閃が走り、布とシャツが大きく裂けた。
そこから、八咫烏が覗いた。
背中いっぱいに彫られた一羽の烏。
若いころ、その刺青を見た者たちが口々に呼び、それがそのまま國定の通り名になった。
烏の一擲。
血と雨に濡れた羽の筋が、墓地の薄闇のなかでぬめるように浮いた。
次の瞬間、國定の喉が裂けた。
「——ああああああああああああああああッ!!」
喉から出たのは声というより裂け目だった。
雨も墓石も、その一息でひしゃげた。
國定は一人目の喉を肘で打ち潰した。
返す腕で顔面を墓石へ叩きつける。骨の砕ける音が近すぎた。二人目の手首を掴んで捻り上げ、そのまま石塔の角へ額から沈める。三人目は胸ぐらごと引き寄せられ、石垣へ何度も顔を打ちつけられた。四人目は逃げきれず、首を抱え込まれたまま地面へ倒され、濡れた石に後頭部を打ち据えられるたび動かなくなった。
國定は倒れた男の上を踏み、次のひとりへそのまま噛みつくように向かった。
だが、四人目が崩れたところで膝が折れた。
血が止まらない。雨がそれを薄めながら、石畳の窪みへ運んでいく。残った二人が距離をとる気配がある。國定はなお立とうとして、足をもつれさせた。石へ手をつく。掌の下で、自分の血がぬるく広がった。
最後の刃が肋の下へ深く入った。
大きな身体が前のめりに傾ぎ、そのまま水たまりのなかへ崩れ落ちた。
黒い背広は泥と血を吸って重く、破れた裾が雨水に貼りついている。肩も背もぼろぼろに裂け、さっきまで人を叩き潰していた腕だけが、もう行き場を失ったように地面へ投げ出されていた。水たまりの表面へ赤い色がひろがり、細い雨粒がその輪を絶えず崩していく。読経はまだ遠くで続いている。式は終わっていないのに、國定だけがそこから零れ落ちていた。
唇が、泥水のすぐ上でかすかに動いた。
「……守れなかった」
それきりだった。
雨に打たれた背中では、さっき裂け目から覗いていた片翼の烏が、見間違いでは済まないほどはっきりと、両翼をひらいていた。




