肆拾參
一階に下りた清把は台所に行った。
「あら清把、おはよう。早いわね」
「おはよう」
清把は台所の壁にかけてある時計を見た。
八時三十分過ぎだった。起きて一時間ぐらい布団の中で悶々としていた様で、もう早いと言える時間ではないが、まだ起きてこないだろうと思っていた母親からすれば早かったのだろう。
「お母さんはもう朝御飯食べちゃったから今用意するわね」
「うん」
母親は洗い物を止め、テーブルの上に用意してあったお椀に手早く雑煮を作ってよそった。
「どうぞ」
「ん、いただきます」
いつもなら美味しく感じるはずの朝御飯も、瑣高の事で頭が占められている今は、ああ、味がするな程度にしか感じられない。
母親もなんとなくいつもと違う娘が気になったので、洗い物をしながら声をかける。
「清把、体調でも悪いの?」
「え? 元気だけど」
「あらそう。ならいいけど」
「体調悪そうに見えたの?」
「そうね」
「そっか」
清把は雑煮を食べ終わると母親に声をかけた。
「お母さん、話があるんだけどいい?」
ちょうど洗い物が終わった母親が振り返る。
「なあに。お年玉ならちゃんとあげるわよ」
「え、ああ。それは勿論貰うけど。それとは別の話」
「そう。じゃあ先に着替えてきなさい。それからね」
「わかった」
返事をして、清把は空になったお椀と箸を流しに持って行った。
朝の身支度を終えた清把は居間に行き、テレビを見ていた母親に声をかけた。
母親はお年玉を渡し、清把は「ありがとうございます」と受け取り、それをカーディガンのポケットに入れた。
それから瑣高の事を話し始めた。
瑣高の話を一通り聞いた母親は重苦しい表情になり、はあ、と溜息をついた。
「だから清把は田舎に行くのね」
「うん。絶対に行く。でもお母さんにちゃんと話しておかないとって思って」
「当たり前でしょ。他所の人に迷惑かけるんだから」
母親はまた重い溜息を吐いた。
「……でもそんな事になってるなら兄ちゃん達は大変な事になるわね」
「だろうね」
母親は暫く沈黙した後、清把に言った。
「わかった。お母さんも一緒に行くわ」
「え!?」
「何、お母さんが一緒だと困るの?」
「え、違う違う。だって今から行くんじゃ電車も高速バスもチケット取れないだろうし。車はお母さん長距離無理じゃん」
「うん、だからお母さんも清把と一緒に行くのよ」
「?? ……あ、もしかして私と一緒に佳奈恵さんに連れてってもらうってこと!?」
清把は母親の言葉の意味を理解した。
「そう。それに今まで清把が世話になってたのに一度も挨拶してないのよ。ちょうどいい機会だから会ってお礼言わなきゃ。だから清把、後で電話してよ。お母さん、話すから」
母親はサラッと言ってのけたが、それは図々しくないだろうか。そんな図々しい母親を紹介するのは嫌だなと清把は思った。
「お母さんそれ、ちょっと図々しくない? 佳奈恵さんだってちょっと引くよ」
「お母さんだって初対面の人の車に乗るなんて嫌よ。でも今一番手っ取り早くて確実な移動手段なんてそれしかないのよ。それにあんた一人で田舎には行かせないからね。何されるかわからないんだから」
「ゔっ。それは……そうだけど」
母親の言う通りだ。
うっかり伯父達に見つかればそのまま田舎に住まわされそうだ。
他に行く手段はないか考えてみたが、先程思いついたものしか浮かばない。
「でもさ、やっぱり佳奈恵さんに悪いから、お母さんも一緒なら電車で行こう。チケット取れるかもしれないし」
特急のチケットが取れなければ快速でも急行でもいい。行けないわけではないのだ。時間がかかるだけで。
「それじゃあ効率が悪いわ。どのみち篠原さんには電話しないといけないのよ。清把の保護者として。ほら、電話して。もう十時だし電話しても大丈夫でしょ」
母親は諦めてさっさと電話をしろと清把を促す。確かに保護者なら、娘が世話になっている事実を知ったら挨拶しないわけにはいかないだろう。
清把は渋々頷いて電話をかけようとしたが、母親を目の前にして電話をかけるのはなんとなく恥ずかしいので、台所でかけた。
「……もしもし、佳奈恵さん。清把です。あの、今、大丈夫ですか?」
『ええ大丈夫よ、清把ちゃん。あけましておめでとう』
「あ。あけましておめでとうございます、佳奈恵さん。それでですね、瑣高君の事なんですが」
『うん、決まったの?』
「はい、行きます。行きますが、その前にうちの母が……」
清把は瑣高に逢いに行く事を母親に言い、佳奈恵に挨拶したいと言っている事を話した。
『あらそれはそうよね。母親からしたら自分の知らない大人に娘を預けるんだから心配するわよ。私もちゃんと清把ちゃんのお母さんにご挨拶したいもの。気にしないで』
「すいません、佳奈恵さん。じゃあ電話代わりますね」
清把は台所から居間に移動し、携帯電話を母親に渡した。
「もしもし、清把の母の久桷実夏子です。娘が世話になっていたのに気づかず申し訳ございません」
『いえこちらこそご挨拶できずに申し訳ございません。篠原佳奈恵と申します』
互いの挨拶から始まり、他愛もない雑談も混ぜつつ、田舎に行く日時を決めた。母親も佳奈恵の車に同乗する流れで話は終わった。
母親は電話を切って清把に返す。
「お母さんも一緒かあ」
「何、お母さんも一緒じゃ不満なわけ? 篠原さんは快諾してくれたわよ」
「そりゃ息子の友人の母親の申し出じゃ断れないでしょ」
「当たり前じゃない。もしそれを断るならお母さん、篠原さんとの清把のお付き合いを考えさせてもらうわよ」
「何で!?」
「あんた馬鹿ね。ここら近所を出かけるならともかく、あんな田舎までまだ高校生の娘を親の許可無く連れて行く大人なんて信用できるわけないでしょう。清把は篠原さんを信用できると思ってても、お母さんは会った事無いんだから。お母さんは信用してないの。いくら清把が信用してても、親としては心配なの。わかる?」
「ゔっ……」
確かに親から見ればそうだろう。
そう言われたら清把は何も言えない。正論だからだ。
「はい……」
清把は頷いた。
母親は急遽田舎に行く事になった事を父親に電話した。父親達が家に帰って来る日に、清把達は日帰りで田舎に行くのである。泊まりではないので父親も気をつけて行ってこいぐらいで特に何も言われなかった様だ。
決まってしまえばのんびりお正月を味わえるのは今日と明日だけだが、瑣高の死を知った今ではただのんびりと過ごすことなどできない。
清把は部屋に戻り、ベッドに横になる。
「瑣高君……」
清把の頭の中は、瑣高と過ごした時間で溢れ返っていた。他愛のない日常。思い出しては嬉しくなり、楽しくなり、悲しくなる。
でももう、そんな日々を重ねる事はできないのだ。
そう思う度、心が絶望的に重苦しく澱み、沈んでいく。
(瑣高君、瑣高君……)
思い出せば思い出す程、瑣高への恋慕う想いが尽きる事なく溢れ出る。
(逢いたい、逢いたいよ、瑣高君……)
ぽろりと涙が零れ、清把はそのまま声を押し殺して泣いた。




