第二十七話
それは八月の始めのことだった。日差しはその強さを一層増し、灼熱の直射日光を大地に照り付けている。駅に向かえば、高校生だけでなく、大学生や社会人が軽装で休暇を楽しむ姿が見え始めていた。そんな中、望は相変わらず、顔も知らぬ男の在処を求めて逢見を彷徨い続けていた。
既に四件の学校を回った後だった。結果はどうにも思わしくない。夏休み中は多くの学生が学校に来ておらず、残っているのは部活動に来ている生徒くらいだ。そういう人間たちに、怪しまれぬよう細心の注意を払って調査してきたが、耳に入ってきたのは引っ越しや家庭の事情で転向していった学生の話くらいのもの。流石にこのご時世とはいえ、突然行方を暗ました謎の少年というのはそうは見つからない。
犯行がこの逢見市で立て続けに起きているからと言って、犯人が逢見の人間とは限らない。当初から考えていたことではあったが、それを考慮すれば、調査の必要な範囲は無限に拡大していってしまう。自力での捜査に、望は限界を感じ始めていた。
月が変わろうとも、事件の新たな被害者が現れることはなかった。犯人は未だに沈黙を続けている。ともすれば、次の犯行を待ち望んでいる自分に気付く。新たな事件が起これば、新たな犯行現場に犯人に繋がるものを見出せるかもしれない。しかしその度に望は自分を殴り、そしてひたすらに足を動かす。その頻度は最近、徐々に増していった。
気が付けば望はとある裏路地にいた。時刻は既に午後八時をを回り、真夏の長い日も既に落ちきっている。今日の捜査はここまでにするか。そう決め、最寄りの駅に向かおうとした、その時だった。
何かが望の足を止めた。それは通常の、人間に備わった本来の感覚ではなかった。しかし、望の全身は、何か背筋を冷たい手で撫でられるような感覚を覚えていた。それは非常に弱く微かな”流れ”であったが、続いて何者かの悲鳴が夜の帳の降りた街に響くと同時に、望は走り出していた。
アドレナリンの分泌が活性化しているせいか、その日の疲れは感じられなかった。むしろあまりに力が入り過ぎ、時々躓きそうになるくらいだ。体中の汗腺は昼間以上の冷や汗を吹き出し、体中の神経は本能から危険信号を発していた。この感覚には覚えがあった。しかし、そんなことは有り得ない、はずだった。自らの身体の訴える信号を必死に否定しようとするが、それは依然としてサイレンのように鳴り続いている。
悲鳴の方向と自らの感覚を頼りに、望は走った。これほどまでに全力で疾走したのは、久しぶりのこと。しかし望にそうさせるだけの異常な感覚を、身体は鋭敏にも感じ取っていた。
どれほどの時間疾走していただろうか。数分か、それとも数時間か。無骨なビルとビルの狭間、薄暗い路地裏の奥に先程の異常な"流れ"の源を感じる。息と唾を一緒くたに飲み込み、望はそちら側に向かって歩を進めた。一歩ずつ。確実に。
街灯の明かりも遠くなってゆき、更に濃い闇が辺りを覆い始める。携帯電話の液晶の明かりを利用して周囲を確認しようとしたその時、照らし出された光景の中で得体の知れぬ影が、動いた。
「おいっっ、そこで何をしてるっっっ」
見紛うことなく、それは人影だった。望は確信するなり叫んでいた。途端に早くなる鼓動。しかし、目の前の正体不明な者に対する恐怖心よりも、強く自身を突き動かす感情があった。それが良い意味で望を冷静に行動させた。
人影は路地裏のさらに奥へと逃走していった。そこで望は、コンクリートの地面に横たわる人影があることに気付く。
「あんた、大丈夫かっっ?」
若い女性だった。どうやら悲鳴の主はこの人物のようだ。倒れてはいるが、時折体を動かしていることからどうやら生きていることがわかる。短い時間と暗闇の中で慎重に目を凝らすと、彼女の首元には傷痕があった。致命傷とまではいかないが、赤い筋のように血痕がそこから流れ出ているのが見える。
「ここで待っててくれ」
望は身につけていたベストを脱ぐと、倒れている女性に羽織らせた。意識を速やかに彼女から回帰させ、路地裏の奥へと身を投げ出していった。数メートル先に奔走する影の気配を感じる。望はその足音や動悸、障害物と接触するような物音を察知するのに全神経を集中。絶対に逃がさない。逃がしてなるものか。ずっと探していたんだ。お前のことを。
助けを呼ぶ、警察に通報する、そんな当たり前の選択肢は今の望の脳内からは排除されていた。意識は数メートル先を行く何者かの挙動にのみ向いていた。行く手はビルとビルの壁によって狭まってゆき、大の大人が一人通るのに最低限の広さしかない。体中を壁に打ちながら進み、しかしそれに構うことなく追跡は暫くの間続いた。
薄暗く狭い道に奴の気配を見失わぬよう、全神経を総動員して追跡。呼吸は荒く、早くなる。
お前が、浅間を殺したのか?
お前が、八重垣を悲しませるのか?
お前が、吸血鬼の真似事をしているのか?
だとしたら、決して許すわけにはいかない。逃すわけにはいかない。叶望という人間にかけて、ここは譲れない。八重垣は苦しんでいた。浅間も苦しかっただろう。お前さえいなければ、彼女たちは今も――。
その時、前方の気配の異変を感じた。気配が速度を落としたのである。足音の感覚が長くなり。やがて途絶える。丁度狭い間隙を抜け、ビルディングの狭間に存在する少々広い空間が目の前に現れる。そこには一つの人影が在った。呼吸を徐々に整え、目の前の暗闇に目を凝らす。
背丈は望よりも頭一つ高い。体格からして男だろう。フードを被っている。こちらに対して背を向けている。もう逃げられないと観念したのか。それとも逃げる必要がないと判断したのか。月明かりと僅かな街灯の明かりだけが、この空間の輪郭をぼんやりと縁取り、浮かび上がらせていた。鼓膜を震わせる音は、自分の鼓動と動悸、ただそれだけ。
呼吸が落ち着いていくと、望は覚悟を決めてこちらから動く。ずっと前から、考えていた。この事件の犯人。そいつに言ってやりたかったこと。聞きたかったこと。内に秘めたその全てを、ようやく捉えたその対象に向けて吐き出す。感情が昂っていく。
「お前は、あそこで何をしてた」
「……………………」
「言い逃れられるなんて思うなよ。さっきの女の子、首筋から血が流れてた。お前が血を奪おうとしたんだろう? 今までみたいに。かの化け物よろしく、吸血しようとしたんだろう? でも、俺達にはそれは必要ない。俺逹はそんなことをしなくたって、生きていける。水を飲んで米を喰い、肉や野菜を喰えばそれで十分のはずだ」
暫くの沈黙の後、男はその重い口を開いた。
「必要は、ある」
「何だと」
こいつは吸血鬼ではない。望は吸血鬼をラミアしか知らないが、吸血鬼と人間を見分ける方法は独自に考えていた。その鍵となるのはプシュケー、だ。吸血鬼の欲する概念。生きとし生けるものの魂に該当するそれである。人間は吸血鬼に血を吸われると同時にプシュケーを奪われる。魂を失った人間は、容れ物を残すのみとなり、その中身を満たすことに飢えて吸血鬼に成り果てる。
ならばその違いは何か。プシュケーの流れを感じることができれば、見分けがつく。人間の場合は、その全身を流れる血管をプシュケーが巡っているイメージ。吸血鬼では、人間でいう胸の辺りにプシュケーが渦巻いていて、更にこちらのプシュケーをも引きつけてくるような感覚がある。その理屈でいえば、目の前の男は前者だ。しかし。
こいつはなんだ。
この時間に、人気のない場所で、人を襲っていた。その事実に由来する違和感、不気味さだけではない。この男は明らかにおかしい。正確には、この男のプシュケーの巡りが妙なのだ。望はこの特別な感覚を得てから、毎日それを試してきた。ラミアのプシュケー、街を往く人たちのプシュケー。そして自分のプシュケーを観察し、感覚し、それらを比較してきた。この男のそれは、今まで見てきたどれのものとも違っていた。
いや、この流れは――以前に感じた事が……。
「必要は、ある」
男は突如としてこちらを振り返った。そして見せつけるように被っていたフードを浅くし、その相貌を部分的に露わにした。
それは望の知っている顔では勿論なかった。暗くて良くは見えない。しかし、視覚として捉えた情報が、望の新しい感覚を補正し、糸を繋いでゆき、その結論に至った。違和感の源である妙な流れの原因を、望はその双眼に収めた。
「お前、まさか」
辛うじて視認できる男の口元。そこには妙なものがあった。顔の部品は揃っている。しかし男の口周りを、黒い糸で縫い付けたような荒い縫い目が走っていた。その縫い目は顎の下をくぐって左右から延び、そして鼻孔の下で交わって、正に男の顔下半分を囲っていた。よくよく見ると、その囲われた縫い目の内と外の肌、肉がずれているようだった。まるで下手な手術で顔の部分部分を縫い合わせたかのように。
流れの違和感は、明らかにそこで生じていた。男の口から口腔、果ては喉にかけてのプシュケーの流れが存在し、そして胸の部分に通じてそこで渦巻いている。これでは、まるで。
「お前は、神器を身体に植え付けているのかっ」
男の口もとに、明らかな感情の変化を表す緊張が走った。それは明らかに、その言葉の意味を知る者の反応だった。望の疑念は確信へと昇華する。自分はとんでもない思い違いをしていたのだ。この事件の犯人は吸血鬼ではない。しかし、明らかに吸血鬼の息がかかっている。
神器を備えた者の犯行。となればあらゆる常識は通用しない。全身の血液が逆流したかのような錯覚に襲われ、鼓動がその荒さをさらに増していく。途端に震えだす脚。あたかも自分の胴体から切り離されているかのように、壊れたように狂ったリズムを刻みだす。世界が歪んでいく。
”恐怖で口もきけませんかぁ。それにしても運がありませんねえぇ、あなたはぁ。こんなところで、まるで交通事故にでもあったかのように、終わってしまうなんて、……同情しますよ。情けはかけませんがねえぇ”
駄目だ……。
一番思い出したくない記憶の底に封じていたはずのものが、這い出して来る。その心臓を鷲掴みにされるような不快な波長をもつ声が脳裏に蘇る。悪夢のような夜。悪魔のような人間。今思えば、奴が持っていたあの十字架も神器に他ならないと思えた。まだ悪夢は終わっていなかった。
「お前は一体、なんだ。この、忌々しい代物のことを、何か知っているのか」
影は言う。
「頼む、助けてくれ。”これ”から解放されるためなら、なんだって――」
「どういう、ことだ」
男の態度の急変もそうだが、どうにも様子がおかしい。神器を手に入れて私利私欲の為に使っているというよりも、これは……。
「あああっ、ぐぁぁぁああああああああああああ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっっっっっっっっっっっっっっ」
静まり返った闇夜に、男の断末魔が響き渡る。男は急に苦しみにもがき出し、その首を両手で押さえつけた。男の顔は苦痛に歪み、全身は小刻みに痙攣している。望はその急変に対してどう行動するか僅かな時間迷ったが、震える脚を叩いて強引に従わせ、男の傍へ駆け寄った。
「どうしたっ、何がおきてるっ」
男の両肩を掴み、男をこちらへ向かせる。その顔にはやはり覚えはなかった。汗の玉が無数に浮かび、瞳を見開き、宙を見上げるも焦点の合わない眼球。望は男の体を揺すりながら幾度となく呼びかけるが、正常な反応は得られない。
「おいっっ! しっかりしろっっっ!」
「た、助けてくれ…………。こんなのは、もう嫌だ……。なん、で、どうして俺がこんな――ぐああああああっぁぁぁぁぁぁぁぁああっっっっっっっっっっっ」
まるで。まるで見えない何者かの意思によって首を絞められているかの様だった。しかし望にはどうすることもできない。ただ立ち尽くし、ただ眺めることしかできない。どうして俺は、いつもッ――。
男は瞳に光を失うと、望の腕を振り払った。何者かの意思が、男の体を支配しているかのように。そして闇夜の何処かに消えていった。望は追いかけようとするが、再び震える始めた脚がそれを許さなかった。男の気配がずっと遠くへ離れてゆき、だんだん弱くなり、消えていく。
暫くの間、望は冷たい地面に蹲っていることしかできなかった。




