第十二話
「いや、ちょっと待ってくれ。俺は今まで剣道なんかやったことない」
「誰でも最初のときはあるわ。それが今日だった、それだけのことでしょう。逃げるの? 女の私から」
「逃げ、る……」
逃げる。それは今まで自分がしてきたこと。し続けてきたこと。
「私から逃げるようじゃ、思ったより大したことないな。お前に、敵の多いあの子が守れるのか。そんなことで、あの子を支えられるのか? 」
目の前にいるのは確かに、この前知った八重垣命のはずだ。しかし趣がどこか違っている。これは剣士としての顔か。戦う者の顔。ある種のスイッチが入ったかのような、豹変。
こちらを向いた視線は更に鋭さを増し、背筋を凍らせた。恐ろしいことにそれには殺気が混じっていた。一介の女子高生が、である。
「何でお前なんだ。どうして、お前なんだ。あの子には私が必要なんだ。お前じゃない。私だ。私なんだ」
彼女の豹変は、周りの部員には気付かれていないようだ。彼等は以前として打ち込みを続けている。この広い道場で、この殺気は自分だけに向けられている。不良を撃退したときも思っていたが、この人は常人ではない。動物的な本能が、望にそう告げていた。
「あんたを納得させるためには、やらなきゃならないんだな」
「……ついてこい。場所を移そう」
八重垣はそう言うと踵を返し、道場の壁に沿って歩き出した。その後姿には無言の圧力があり、望にここから逃げるという選択肢を与えない。
入り口とは反対側の扉を開けて、彼女は入っていく。望はそれに続く。中には先程の道場よりもかなり狭く、しかし畳が敷かれていて試合を行うのに十分な空間が保たれていた。比較するとこちらは達筆な字の掛け軸が飾られていたり、装飾が所々高級で、何より空気が重かった。あちらは激しい熱気で満たされていたが、それに対してこの場所は何といえば良いか、息が詰まった。
「先生達が使っている場所。特別な試合をする時にも使う。……そこで待ってて」
有無を言わさず別の扉から消える彼女。まさかと思うが、自分はこんなところで彼女と打ち合わなければならないというのか。成り行きと言うのは恐ろしい物である。自分は今日、ただ勉強をしに来ただけだと言うのに。
「サイズはそれで合うと思うわ。さっさと付けて」
「付けろっても着け方が……」
「…………貸しなさい」
すると彼女は面から胴、小手に至るまで一揃い丁寧に着け方を指導してくれた。そういうところは普通らしい。よくわからない人だ。学ランは上だけ脱ぎ、シャツの姿になってから防具を身に付けた。
彼女の観察力の賜物か、サイズは的確だった。着終わると竹刀を渡される。握ってみた感想は、思ったよりも軽い、だった。最近の筋力トレーニングの成果だろうか。両手で握り込むと、腕と一体化する。
「稽古じゃないからこの先は何も教えないわ。後は自分で試して、自分で感じて。無知だからって悪戯に手を抜くんじゃないわよ。怪我したくなければ」
「ああ」
言いたいことは色々あるが、叶望は覚悟を決めることにした。男がとやかく言ったところで、格好つきはしない。男としてのプライドがあるのなら、今はただこの手合いに全神経を集中させることだ。
まるで牢獄のように視界を遮る面。暑苦しく肌に張り付く肌着。鎧のように身動きを鈍らせる防具。それらの中で、望は己の感覚を研ぎ澄まして行く。そうだ、相手は吸血鬼でも吸血鬼狩りでもない。ただの一つ上の女子高生に過ぎないではないか。何を恐れているんだ、俺は。
狭まった視界で目の前の相手を捕える。彼女もまた、面を付け直してその手に竹刀を握っていた。こちらにその先を向けて構える様は、まるでいくつもの戦場を経験した剣士の様だった。いや、まさにその通りなのだろう。そうでなければ、この肌を刺すような重厚な殺気を纏えるはずがない。彼女もまた、闘いに生きる者なのだ。
望は剣道を嗜んだことはないが、それでも一般常識として、本やテレビの知識としてその作法を多少は知ってはいた。彼女が礼をするのに倣ってこちらも礼。足元に引かれた開始線まで歩み寄り、そして竹刀を抜いて剣先を交える。彼女の面の奥に、曇りない済んだ瞳があり、それは真っ直ぐこちらを見据えていた。それに怯むことなく睨み返す。
「始めっっっ」
その合図とともに、試合は始まった。望は床板を強く踏み込み、彼女の懐に踏み込む。素人が熟練者に勝つ方法があるとしたら、それは先手必勝、先制攻撃。策や技術の介在しない瞬間に切り込む他にはない。彼女の面に向かって望は竹刀を打ち込む。
しかしそんなことは彼女には自明のことだ。八重垣は難なくこちらの竹刀を打ち返し、気合と共に強烈な打ち込みを返してくる。その一撃一撃が重い。金属バットか何かで殴られているかのようだ。
集中しろ。感じろ。俺にも、見えるはずだ。
全神経を持ってして、彼女の怒涛の打ち込みを受ける。彼女は一切の手加減もなく、ただこの叶望を一人の敵と見なしている。まだ数秒も経っていないはずなのに、両手が痺れてきた。それでも望は竹刀を弾かれまいと、その手に一層の力を込める。
「はああああああああああっっっ」
声は無意識に声帯から出ていた。一瞬の隙を、今の望は見逃さなかった。彼女の剣がその一瞬だけ、僅か一瞬だけ止まる。
「はあああああああっっっ、はあああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁっっっっ」
竹刀の振り方など知らないが、望は夢中で彼女の面を目掛けて竹刀を打ち込んだ。当然のようにそれは軽くあしらわれ、一旦間合いを取られる。
「どうして、お前なんだ」
八重垣命は、悲痛な声で絞り出した。
「どうして、お前みたいなやつがいつの間にか現れて、私からあの子を奪っていくんだ。どうして」
あれだけの打ち込みを仕掛けて置きながら、息の一つも切らしていない。大したスタミナである。それに対して瞬間的な体力では劣り、防戦一方であった望は既に息を切らしていた。
「何の、ことだ。……あの子、って、浅間のこと、か?」
「どうして、どうしてどうしてどうしてどうしてぇぇぇぇっっっ」
更に切れ味の増した殺気が、望の背筋を冷たく撫でた。そのせいで何とか彼女の鋭い突きを防ぐことができた。気配がなければ、それが首筋を捕えていたかと思うと肝が冷えた。躱し際に身を翻し、もう一度間合いを取り、息を大きく吸う。そして吐く。真っ直ぐに彼女の姿を睨み返す。彼女は既にこちらに向き直り、臨戦態勢。次はもう逃げられない。無意識にそう感じた。
「あん、たは……」
「………………」
この場に言葉は不要に思えた。彼女は言った。竹刀を交わせば互いの心中は計れると。ならば、今必要なのは言葉ではなく。
望は、最後の打ち合いのつもりで構える。もう次は堪え切れない。ならば堪える必要はない。もうどれだけ経っただろう。五分だろうか、十分だろうか。もう何時間も経っているような気もする。しかし今、望の頭の中には、ただ一つの思考以外は存在していなかった。そうしなければ、とてもこの目の前の強者を相手など出来なかった。僅かでも目を逸らせば、それが最後になることだろう。瞬きも忘れ、息を止め、思考を収束させ、感覚を限界まで研ぎ澄まし、その時を待つ。その時を。
隣の道場から、打ち込みを始める合図が聞こえてきた。それが切っ掛けとなり、両者は再び竹刀を交わす。彼女の一挙手一投足を見逃すまいと、目を見開く。速い。速いが、見えないこともない。両腕と一体化した竹刀を操り、必死の思いでそれを受け流す。一撃を受けるたびに腕の痺れが増していく。もう既に感覚は殆どなくなっていた。しかし気力だけで望は竹刀を放さなかった。
「「はあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっっっっっ」」
もう既にそれは剣道の体を成してすらいなかった。竹刀をつかっているというだけの、ルール無用の打ち合い。しかしその中で、何かが望の中に伝わってくる。この打ち合いに虚偽やまやかしは存在しない。お互いの一挙手一投足に偽りはない。ただ目の前の相手を打ち倒すという、単純明快な真実のみがそこにはあった。
最後の力を使って、彼女の面を目掛けて竹刀を打ち込む。しかしそれはやはり難なく凌がれ、とうとう望の竹刀は弾かれてしまった。両腕の感覚は既に失われていた。
「面えええええええええええええええええんっっっっっっっっっっっっっっっ」
軽快な衝撃と共に、彼女の竹刀は望の面に向かって振り下ろされた。強烈な一撃に望はその体を支えること叶わずにその場に倒れ込み、天井を見上げた。息を荒げ、指先一つ動かすこともできず望は仰向けになって動けなかった。昨日の修行よりも体力的に来るものがあった。気付けば足の感覚も弱くなっていて、なぜ今まで経っていられたのか疑問になるほどであった。
望は今まで気が遠くなる程の数、敗北をしてきた。逃げて負けて、また逃げて負けての繰り返しだった。しかしこんなにも後味の良い敗北は初めてだった。全力を出し切ったからこそ、このような気持ちになれたのだろう。
「中々やるね」
自分では面も取ることもできない望の代わりに、八重垣はそれを外してくれた。牢獄から解放された望の視界は一気に広がり、まるで世界までもが広くなったかのような錯覚を覚える。閉じ込められた熱気が放散していき、心地よい空気が優しく肌に触れた。
「あん、た…………容赦、無さ、すぎだ…………」
面を外した彼女の顔は熱気に包まれ、軽く朱がかかっていた。
「まあ半分くらい本気にさせたのは褒めてあげる。ここまでとは私も思ってなかったし」
「あんた、強いんだな。歯が、立たなかったよ」
「当たり前だ。私を誰だと思ってる」
上から覗き込まれる形で、彼女は凛とした笑みをして見せた。この表情に心を奪われる異性は多いだろう。実際、ほんの僅かだけだが動揺したことは事実だった。
「ところで、お前栞と付き合っているのか?」
「何を、馬鹿なことを言ってる。んなわけ、ないだろ」
「……ええっ、そうなのか? 栞がやけに君のことばかり話すものだから、……いやー、そうか、そうなのか、いやー悪い悪い。勘違いしてた」
「ってあんた、まさかそのせいで今日俺はこんな目に……。竹刀を交わせば互いの心中は図れるってのは何だったんだよ?!」
急に馬鹿馬鹿しくなってきた。思いっきり力が抜けてしまう。この人は。
「ああ、あれはなあぁ、あれだ。こうして全力を出し切った後じゃあ、本心を偽るだけの気力もないだろうと、そ、そういうことだ」
「絶対に適当じゃねーかっ!」
本当に。この人は。
「まあまあ、掴まれ」
そう言うと彼女はこちらに手を差し伸べてきた。そんなことで許されるとでも思っているのだろうか。しかし、結局のところ自分はこの人を許してしまうのだろう。女性というのは、狡い。
「あんた、浅間先輩のことが好きなのか」
今度はこちらが質問。
「……別にそういうんじゃ無いんだけど、どうしてかあいつはだけは放っておけないんだ。少し目を離すと、いつも勝手に悩んで、から回って、勝手に傷ついている。あいつはそういう奴なんだ」
浅間栞。望は彼女のことが少し羨ましくなった。俺もそういう奴と出逢いたかったよ。
「今日は存外に楽しかったぞ。また何かこの前のような事があったら言ってくれ。この私が力になろう」




