第十一話
「望はもう十分強くなった。もう、一人でも大丈夫だな」
「……そんなことはない。まだ」
「私がいなくても生きていける。お前はもう」
「何で。……俺は、まだ」
「ではさようならだ」
その手からすり抜けていく彼女の姿を、最後に叶望は目を覚ました。
頭には軽い疲労感が残っていて、不快な汗を全身にかいていた。場所は自宅アパートの部屋。ベッドの上で叶望は体を丸めて横たわっていた。どうやら悪い夢に魘されていたようである。曖昧だが、記憶の所々にそれが残っていた。
日曜日の朝。望はいつもより早めの時間に目を覚ました。既に消え去った眠気に、望はこれ以上の睡眠を諦める。昨日は一日中ラミアの隠れ家で過ごし、夜にはアパートに帰宅していた。あの後何回か”修行”を繰り返したので、疲弊した精神が悪夢をみせたのだろう。
今日の”修行”は午後から行うことになっていた。日曜の夜は、その後に二人で食事をすることが習慣となっているからだ。夏休み前の定期試験が近い。授業の内容はほぼ頭に入ってはいるが、望は日曜の学校に行って勉強をすることにした。最近は、学校の図書室が最も集中できる場所となっていた。
簡単な朝食と弁当を用意しながら、望は先ほどの夢のことについて思考を巡らせる。
今に現実に起こってもおかしくないことだ。
もう吸血鬼の力にもある程度抵抗できるまでになった。彼女が言うには、自分には才覚があるらしい。日頃の筋トレも欠かしていない。脂肪が減り、筋肉も大分ついてきた。自分がここまで変わることができたのは、全て彼女のおかげだ。
彼女は一緒にいてくれると言ってくれた。しかし最近は、その言葉を彼女は言ってくれない。望は確証が欲しかった。もう一度その言葉を口にしてほしかった。でないとあの悪夢が、現実のものになってしまいそうで、怖かった。今にもこの手からすり抜けて、どこか遠くへと行ってしまうような気がして。
恐ろしかった。
平日の彼女は、隠れ家の廃工場で何かの研究をしているようだった。彼女は過去に大学の研究室に潜り込んでいたときがあったらしく、吸血鬼であるにも関わらず学問を好んでいた。望がここまで勉学に励むようになったのも、彼女の影響が大きい。彼女には、明らかにここにいる目的が、自分の知らない別の目的が存在していることは明らかだった。
自分はそのついでだろう。傍をうろついていた餓鬼が、あまりにも不憫そうに見えたから、同情して助けてくれたのに違いない。彼女には何か、ここにいなければならない別の目的がある。しかし彼女はそれを決して話してはくれない。そしてその目的が果たされた時、彼女はどこかへ行ってしまう。そんな気がした。
「……俺は、怖いのか」
目の前で手を握り込み、そして開く。指先は震えていた。
それを見ないように遠ざけ、望は弁当箱を袋に詰めて鞄へと放り込んだ。
日曜日の逢見学園は人が少なく、当然だが普段よりも閑散としていた。望にとっては他人は無視される存在でしかなく、集中を乱されるものがないのはありがたかった。そんな中、一部の運動部は休日返上で活動している。グラウンドには野球部やサッカー部が、この暑さにも関わらず精を出していた。そういう者達の一生懸命な姿を卑下する程、望は螺子曲がった性格をしてはいなかったし、それに関しては普通にうらやましいとさえ思った。
今更、部活動なんて無理だろう。
既に構築された人間関係の中に割っていって、それを滅茶苦茶にするような趣味は自分には無い。額に汗をし、走り込みをしたり、白球を追いかける彼らを横目に、望は踵を返して校舎へと向かった。
1年生の校舎はグラウンドに面していて、更に武道館と繋がっている。図書室は武道館側の2階に位置していた。望はそこを目指して廊下を歩み進める。
校舎や図書室は普段なら平日以外は封鎖されているが、テスト期間前のような時にはその限りではなかった。しかし休日までわざわざやってくる勤勉な者は少なく、それもやはり望には好都合だった。
暫く歩いていると、武道館の方から何人もの声が聞こえてくる。それも無秩序な話し声といった風ではない。一部の隙もなく統率された、揃った掛け声である。その掛け声と同調して、武道館の床を踏みしめるいくつもの音がし、硬いものが打ち合わされるような音が響いた。
どうやら剣道部が武道館を使っているようだ。剣道部と言えば、彼女がいるのだろう。よく耳をすませてみれば、掛け声の中には女子のものも含まれていた。空気の振動がここまで伝わってくるかのようだ。望は本能から好奇心が湧き上がってくるのを、自身に感じた。
気が付けば望は武道館の扉の前にいた。ここまでくると、最早振動は大地が揺れているかのようである。高濃度の殺気が、扉から漏れ出している。望は自分がここへ何をしに来たかも忘れ、その扉に手をかけた。
鉄製の重い扉は、それでも力を少し入れることで苦もなく開いた。途端に隙間から熱風の如く熱気が吹いてきて、望は一瞬怯むことになった。そして眼前に広がる光景に、再び望は圧倒された。
広さは一般的な体育館ほど。しかしバスケットゴールや壇は無く、一面に畳が敷き詰められていた。その上を何人もの道着と防具を身に付けた部員が並び、1人の掛け声を合図に、強烈な打ち込みが始まった。空気を裂くような気合が轟き、相対した片方がもう片方に怒涛の打ち込みを仕掛ける。それはまさに戦場だった。僅かでも気を抜けば死を免れない。命のやり取り。
そう、まるであの夜の時のように。
「ちょっと、あんたそこで何してるの」
扉の前で呆けたように立ち尽くす望に、話しかけるものがあった。
「そこで立たれていると部員の気が散るわ。ってあんた、あの時の」
その喧騒の中でもよく通る、意思のこもった声を聞けばわかった。目の前の防具と面を身につけた部員が、八重垣命だということは。垂に付けられた名前にも、八重垣とある。彼女は自分に気付くと面を取った。髪の毛を纏めた姿の彼女が顔を出す。
「いや、すまない。凄まじい音がするものだから、つい」
言い訳になっているのだろうか。
八重垣命はこちらを暫く訝しげに睨んでいたが、少しして悪意がないのを察したのか何なのか、その警戒を解いた。
「音が出るのは私達は仕方ないわ。そういう作法だからね。それよりもそこは邪魔だわ。見学なら中に入ってなさい」
言われるがままに道場の脇へと通される。見学のつもりは無かったのだが、仕方がない。望は黙ってついて行くことにした。
「それにしても、こんな日曜日にわざわざ剣道部を見に?」
「いや、本当は図書室に勉強に来たんだ。テストが近いからな。剣道部はこんな時期にも練習があるのか」
「夏にも大会があるからね。それにうちには、稽古と勉学を両立できないような軟なのはいないわ」
なるほど相当な自信だ。流石インターハイに行くような部活だけある。
「……それにしてもあんた、ついこんなところまで迷い込んでくるなんて、満更でもないんじゃないの。これに興味あるの?」
竹刀を突き上げる彼女。
「いや、そんなつもりじゃなかったんだが……いや、確かにこれは凄いな」
自分たちが話している間も、稽古は続いていた。会話するにも一苦労な怒号。熱気。振動。何の覚悟もなしにここにいることが、間違いなのではないかという気持ちが湧いてくる。
「……そうか」
彼女は得心行ったという様に、口の端を釣り上げる。
「私もあんたが気になってたんだ。栞の心を開くような男、興味がある。丁度いい。お前ちょっと付き合え」
「は……?」
竹刀の切っ先をこちらへ向けられる。その鋭い視線はこちらの脚を縫い付けて、身動きもできない。
「竹刀を交わせば、互いの心中は計れる。私と打ち合え」
望はようやくここに来たことを後悔し始めた。




