第十話
お前は頭が悪い。学校の成績も悪いし、何もできない。お前など俺の子供ではない。二度と俺にその生意気な口をきくな。
忘れるなよ。
仕方ないですねえ……その口から、知っていると言うまで手足を一本づつ奪っていくしかないですねえぇ。さて次はどこがいいですかあぁ。
てめえ調子のってんじゃねえぞ。わけわかんねえことしやがって。それは何のつもりだ。それで格好いいつもりか? 何が”俺”だよ。お前は”僕”だろうがよ。弱い癖に強がってんじゃねえぞ望。
痛い。苦しい。やめてくれ。やめてくれ。
どうして僕なんだ。どうして僕ばかりがこんな目に遭わなければならないのだ。
どうして、どうしてどうしてなのだ。当たり前の普通のありふれた幸福さえも、許してはくれないのか。
この世に救いはないのか、
この世に希望はないのか。
意識は黒い渦を描いて、暗い水の中に沈んで行く。そんな自分を、誰かが上から、水面から覗いている。
父、溝口、吸血鬼狩り。
彼らは笑っていた。こんな惨めな自分をみて笑っていた。それもそうだろう。これが他人なら、笑いたくもなる。弱くて弱くて、耐えられないのだ。誰かに傷つけられる度、自分が消えてしまいそうになる。
叶望は弱い。どうしようもなく弱い。未だに心の中に拭えない記憶を、悪夢を抱えている。かつての苦い記憶。それが望の中にまだ巣食っている。それは望という人間の奥深くまで根差している。それがいつでも望の足をとる。
被害者面して、自分は悪くないとでも思ってんのかてめえ。てめえがやったことは犯罪なんだよ。わかるか? 叶望。どうなんだ。わかっているのか叶望。
既視感を望は覚えた。自分はどこにいるのだろう。これはどこかであったことだ。もう、過去のことだ。終わったことだ。
終わったことに、いつまで自分は囚われている。
そうだ。こいつらは。
「お前らは吸血鬼だ」
そう気付いた瞬間、纏わり付く重い水から解き放たれ、望は自由となった。身体が妙に軽く、思い通りに動く。この水の正体は過去だ。この水が自分に過去の悪夢を見せていたのだ。
「お前らは吸血鬼だ」
彼らの影が次第に姿形を変えて行った。それは巨大化し、蒼白となり、口元から八重歯を覗かせた。人間の精神を犯し、尊厳を喰らう吸血鬼そのものだった。それはこちらを窺うと、素早く飛びかかって来た。
望は反応できた。この世界では自分の精神が力そのものとなることを、望は思い出していた。一体目の俊敏な飛び付きを躱し、右拳を思い切り握り込んで放った。それは吸血鬼の右こめかみを捉え、後頭部を吹き飛ばす。何か脳漿の様な気味の悪いものを飛び散らせて。
後に三体の吸血鬼が同時に襲い来る。面白いことに、人外の如きその動きが望には見えていた。まるでスローモーションのように、映画のコマ送りの様に、望には感じられた。吸血鬼達の包囲から逃れ、後方に跳ぶ。もう失敗したりしない。
彼らは呆気にとられ、こちらを見上げていた。余裕を持ってから辺りを見渡すと、そこは何処かの山中らしかった。木々が生い茂り、頭上を覆い隠していた。しかし何かがおかしいと思えば、そこには陽の光がなかった。木漏れ日が差してこないのである。しかしどういうわけか、周囲の光景はその目ではっきりと見えた。少ししてそこが白樺山だと分かった。
「性格の悪い、女だ」
そう誰にともなく呟き、目の前の異形の人外を見据える。3体の吸血鬼はすぐさま此方へ囲い込んで来た。体格や力では圧倒的な差が感じられる。けれど、望は決して勝ち目が無いなどとは思わなかった。
「いつも、そうだった。……俺はこんな時にいつだって自分を卑下し、貶めて来た。いつからだったか、それがこの世界で、弱い自分の身を守る唯一の方法だと思っていた。けどそれは違う」
それは結局のところ言い訳だ。何もできない自分を正当化する為の、言い訳。
弱い自分は、非力な自分は、こんなにも弱くて、非力だから、だから何もしなくて良い。諦めて良い。だからいつまでも地獄の様な状況に甘んじ、何かを変えようなどと思えなかった。
「それが俺の弱さだ」
その時、今まで光の差すことのなかった世界に、日が差した。光の無い世界に、光が生まれた。それは目に見える光景の全てを塗り替えていき、やがて世界を色で満たしていった。吸血鬼は恐れんばかりに目を覆い、大地を這いずり回り、強烈な光に肌を焼く。
言葉とも取れない荒唐無稽な奇声をあげ、蒸発して行く吸血鬼達。その様は正に地獄の様であった。肉が焦げ、灰色の煙へと昇華するのを、望はただ見つめていた。血液が沸き、蒸発するのを望はただ寂しそうに見つめていた。
「今回は随分早かったな」
パンという破裂音が鼓膜を響かせると同時に、望の意識は再び埃塗れの薄暗い部屋の棺桶の中にいた。それまでの樹々や吸血鬼は当然どこにもない。少々の混乱の後に、それでも望は現在の状況を何とか把握することができた。
「頭の中を掻き回されるような、ことも、何度かされれば、慣れもする……。はぁ、はぁ……」
しかし頭の強い疲労感は中々収まらなかった。暫く望はその場から立ち上がることもできなかった。まだ誰かに頭の中身を、鷲掴みにされているかの様だ。しかしこれでもまだ良くなった方なのだ。最初は吸血鬼に捕まり、まやかしとは言え血を吸われてしまって一日中気を失っていた。
これは望が進んで毎週やっていることだった。自分の中の弱さに打ち勝つ為の修行。吸血鬼の力で自らをかどわし、その中で我を取り戻し、幻想を跳ね除ける。彼女と出逢った春から望はこれを続けていて、最近になってようやくその中で吸血鬼を倒せる様になった。
「これは吸血鬼狩りの訓練の一つだ。吸血鬼の精神干渉への抵抗力をつける為のな。プシュケーの感覚を養うこともできる。それにしても、短期間でよくもここまでにしたものだ」
何とか棺桶に震える手をつき、半身を起こす。まだ頭は痛むが、呼吸は徐々に落ち着いてきた。
「そのプシュケーと言うのは、こう全身を巡る様なイメージ、何だろうか。それなら最近は、少し感じられるようになった」
ラミアは一瞬驚いた様な顔をし、間も無く何が可笑しいのか笑みを浮かべた。
「早いな。もう感じたか」
「言うなら、全身の血管の一つ一つに感覚ができたように、普段なら感じないはずの血の流れの様なものが、感じられるっていうのか。上手く言えないんだけれど」
「……ああ。望は恐らく掴みかけている。プシュケーの何たるかをな。見込みがあるぞ。吸血鬼への抵抗は元より、神器を扱えるまでになるかもしれないな」
「神器、か」
神器。
それは人間によって吸血鬼に対抗する為に生み出された、人類の知恵と血の産物である。吸血鬼の遺骸を材料とし、特殊な工程を経てそれは作られる。神器には生前の吸血鬼のプシュケーが宿され、その特異な能力を人間をも操ることができる。これは以前にラミアから聞いたことだ。
「ってことはこの棺桶もそうなんだよな。吸血鬼の亡骸から、出来ているのか」
漆黒の棺桶。望を悪夢へ誘った、神器。
「そいつはいつだったか、ヨーロッパの僻地で喧嘩を売って来たから、返り討ちにしてやった。名前を何と言ったかな」
「……その吸血鬼にも同情するよ」
吸血鬼を倒す為の道具が、まさに今、吸血鬼の手に渡ってしまっているのだ。世話もない。そしてどうにか体が動くようになった望は、棺桶から這い出て立ち上がる。まるで死人から生き返ったような気分である。せめて死んだ後くらいは、安らかに眠りたいものだ。




