第九話
郊外の廃工場地帯は週末にも関わらず閑散としていた。駅前から外れ、住宅街からも離れたそこはいつも人の気配がない。たまたますれ違った親子が、あそこに一人で行っては行けない、と躾けているのを聞いたことがある。残酷な事件は人目の無いところで起こると皆、経験的に知っているからだ。
連なる廃工場は、バブル時までは労働者で溢れ、活気付いていたらしい。しかし不景気の煽りを受け、連鎖的に会社が倒産。我先にと人は去って行った。ここはまるで、その時から時間が止まっているようだった。時の流れというのはもしかしたら、人間の営みそのものなのかもしれない。
そんな場所に、土曜日の朝から叶望はいた。朝早く起きて朝食を取り、その足でやって来ていた。当然、ただの散歩などではない。これは最早習慣になりつつあることだった。
携帯電話の時計は午前9時となっている。今週も時間通りだ。彼女には時間の概念があまりないが、望はいつもその時間にここを訪れる。あまり遅くなると日差しが強くなって辛くなるというのもあった。
錆びた建物の中の一つ。巨大な煙突を何本も生やした、無骨なそれを見つけて入って行く。辺りに散らばった鉄屑を掻き分けながら。それを見て思った。吸血鬼は血を好む。そして鉄は血の味がするという。なるほど、と自分の中で、何かが繋がったような気がした。
今にも崩れそうな錆びきった階段を登り、開きっぱなしの非常扉を開けて中に入る。建物の内部は日中だというのに薄暗い。光が入るはずの窓は全て塞がれている。こちらとしては不便だが、何度か入った時の感覚で中へと進んで行く。
「ラミア。来たぞ」
自分の声が反響して建物中に届いて行く。こんなことをしなくとも、彼女にはわかるのだろうけれど。反響が収まり、再び静寂がやってくるその前に。
「おはよう望」
背後から、たった今まで何の気配もしなかった場所から、突如として何者かが現れ、望の肩を掴んだ。冷たい手、だった。人間のそれとはとても思えない。
「おはよう、ラミア」
「ふん。もう可愛らしく驚いてはくれないか。こちらとしてはやりがいの無いことだ」
戯けたように彼女は言う。
「そりゃ毎回やられたらな。てか毎回俺を驚かす為に、わざわざ吸血鬼の力使ってんじゃねえよ」
吸血鬼の力。
影への同化。
「まあもともと一々歩いたりしないんだよ。面倒だからな。こうして建物の中を影で満たしておけば、何処へでも現れられるからね」
「便利なことだな」
望はそれまでずっと閉じていた左目を開けた。予め暗闇に慣れさせておいた片目は、赤髪の吸血鬼の姿をぼんやりとだが、映し出した。
吸血鬼ラミア。望が高校生になり、この逢見市にやって来た春に出逢った、異形の存在である。その後諸々の事があって、未だにこうして会い続ける状態が続いている。彼女は基本的にここの住人だが、稀に望のアパートまでやって来たりもする。最初は暗闇から神出鬼没にも現れるので気が気でなかったが、最近は最早それにも慣れつつあった。
「それにしても、君も律儀だねえ。せっかく友達もできたというのに、未だにたまの週末にこんなところへやってくるとは。誘って何処へなりとも遊びに行けば良いのに」
「……別にそんなんじゃねえよ。そんなんじゃあ、ないんだ」
「そうか?私にはそうは見えなかったがな。あの娘、君に心を開いていたように思うぞ。人間というのは、そう簡単にああは気を許さない」
「そんなことより……あんたこの街で一体何をやってる? 噂になってるんだぞ」
「ん……? 噂とは何だ」
望は、浅間栞から聞いたことを簡単に説明した。
すると彼女は思考するように右手指を口元にやった。
「成る程。吸血鬼の噂、か。まあ噂程度ならどんなところにでも起こり得るものだけれどな。吸血鬼の逸話はそうやって出来たのだし。しかしそれにしても、よりにもよってこの逢見でか……」
「夜になる度に、街を徘徊しているんじゃないだろうな。この前あんたも聞いていたんだろう? 生きた心地がしなかったよ。俺のところにまでその"噂"が広がってきてるんだ」
「……そんなことはしていない。目立つことは控えているつもりなんだが、けれど誰かに見つかっていたのかも」
「いたのかもって……」
そんなんでいいのかよ。
「まあ噂は噂だよ。実害はないさ。要はその本人である私がこれ以上何もしなければいいのだろう? その内、時が経てば皆忘れてくれる。噂なんてそんなものだ」
「そう……ならいいけどな。俺は別に、あんたの正体が広まったら、あんたがやり辛くなると思って、それで、それだけで」
「ああ、ありがとう」
その声は耳元でした。気が付くと、彼女は望の首にその両腕で抱きついていた。吐息が鼓膜にかかり、その青白い冷たい腕にじわじわと体温を奪われて行く。それとは反対に、顔が熱を帯びていく。
「こっちの方はまだ慣れないんだな」
「うるさい」
何も言い返せない。この吸血鬼には、敵わない。きっと一生そうだろう。
しかし、一体いつまでこんな時間が続くのだろう。きっと永久には続かない。彼女がここにいるのは、自分の為。あの時交わした約束を、果たす為。彼女は自分と一緒にいてくれると言った。しかし元々そんな義理は彼女にはないのだ。
今はいい。まだまだ自分は弱い。
しかしそうではなくなったら? 彼女の力が必要でなくなったら? 自分と彼女の間に、一体他にどんな繋ぎ止めるものがあるだろうか。
「ラミア。そろそろ始めよう」
「ああ。そうだな」
やめろ。今はそんなことを考えても仕方が無い。それに、彼女には何もかも……。
地下への階段を降りて行くと、外からの光は殆どなくなり、視界は完全に失われた。仕方なく望は彼女に手を引かれて進んで行く。今彼女がどんな顔をしているのかも、見えない。しかし何と無く想像はついた。
暫くすると階段が終わり、扉の開く音がした。手を引かれるままにそれを潜ると、そこは狭い小部屋のような空間だった。それが分かったのは、部屋の四隅に蝋燭の炎が灯っていたからだ。
そして、その部屋の中央には、薄暗いなかでもはっきりとわかるほどの漆黒の棺桶が置かれている。銀で縁取られ、豪勢な装飾の施されたそれは、望には見覚えのあるものだった。最初にここに来た時に、寝かされていた棺桶である。
「いつものように」
言われるまでもなくその棺桶まで近づいて行き、重厚な蓋に手を掛ける。中はやはり一部の隙もなく黒く塗られており、上からは底の無い闇に見えた。
その中へと自ら望は入って行く。まずは足を踏み入れ、その中に腰掛け、そして仰向けに横たわった。視界に映るのは、四隅の蝋燭の灯りが朧げに天井を照らしている光景だけだった。まるでこの中の空気だけ重さが違うかのように、息苦しい。
「やってくれ」
「そう言われると、何だか誘われているような気になるな」
「……俺はあんたの、そういうところが嫌いだ」
「悲しいねえ。では始めよう」
最後にその視界に映ったのは、彼女の蒼白な掌だった。意識が自由落下していくように遠のいていった。




