第七話
「そうか。屋上は盲点だったな。今度からは気を配ることにしよう。わざわざ報告にきてもらって悪いな。非常に助かる」
染谷明は来客用のテーブルの向こう側から、書類に目を通しながら言った。場所は上級生のクラスのある棟に位置する、生徒会室である。彼の他にも何人かの生徒会役員がいて、皆それぞれに作業をしている。部屋の広さはクラスの教室と同程度だが、棚や机で至る所を区切られていて異なる様相を呈している。ここだけが、学校とは異なる空間のようだった。
「そんなことはいいんだ。他にやることもないし。けれど、いくらなんでも多すぎないか? あんたこの前言ってたよな。”この学校は何かと荒れている”だったか」
彼は眉間に皺を寄せ、右手を額に当てた。
「……確かにそう言った。今この学校にはトラブルが頻発している。生徒会でもその対応に追われていてな、猫の手も借りたいほどだ。ところが教師側の意見は、大事にしたくない、だ。警察沙汰にでもなったら、学校の信用問題になるからな。だから学校の問題は内々で処理するしかない」
目をつぶり、重々しい溜息を吐く。どうやらそうとう堪えているらしい。よく見ると目の下に隈までできている。この男の人間らしい姿をようやく目の当たりにした気がする。
「このままでは夏休みもないだろうな。まだ今は学校の中で収まっているが、長期休暇に入ってしまったらどこで何が起こるか分かったものではない」
「何か、大変なんだな……」
望は彼に激しく同情した。人の上に立つというのは、生半可なことではないのだろう。望の父親も、人の上に立つ側の人間だ。しかし彼が仕事のことで弱音を吐く姿は、望は見たことがなかった。上司としては優秀な人間だったのかもしれない。それとも人の上に立つ者は、普通の人間には務まらないのだろうか。
少し考えてそれを口にする。
「……俺でよければ、何か手伝えることはないか?」
「叶……」
その考えは自然に湧いてきた。自分に何かできるとも思えないが、しかし時間だけは持て余している。週末にはラミアの修行があるが、平日ならその限りではない。染谷の負担を少しでも減らすことができるのなら、それもいいだろう。彼には借りがある。
「いや、気持ちだけもらっておこう。生徒会でないものにまで迷惑はかけられない。俺なら大丈夫だ。お前はお前で、学生の本分を全うしろ。まあ任期が終わったら正式に勧誘するかもしれんが」
染谷は最後に少しだけ口の端を釣り上げた。
「あ、やっぱり来た。叶くんこんにちわ」
「ああ。今日は借りていた本を返しに……って、やっぱりってどうしてだ?」
浅間栞は慌てて本で顔を隠した。
「あ、ええぇと……なんでもないよ?」
まさか貸出履歴を調べたのではないだろうな。
「まあいいけど、じゃあこれを頼む」
「はいはい。うわぁこれも洋書かぁ。叶君やっぱすごいねえ」
何だか体の至る所がむず痒くなってくる。普段慣れていないせいだろう。誰かに普通に褒められるということに。
「あんたこの前から妙に馴れ馴れしくないか? 俺とあんたは友達でも何でもないだろ」
言ってから後悔する。叶望の悪癖。しかし彼女は。
「そんなこと言わないでー。あ、私もうすぐ終わるから一緒に帰ろうよ。ちょっと机にでも座って待っててくれる?」
「……あ、ああ」
放課後の学校は既に生徒は皆下校していて、残っているのは部活動をしているものくらいだった。この暑いのに、精の出ることだ。逢見学園高等学校は部活動に力を入れている。野球部は甲子園出場、剣道や水泳、サッカー等はインターハイ出場。中には望のように俗にいう帰宅部に属するものもいるが、多くの生徒は何らかの部活動に所属している。
昼のジリジリと焼くような日差しを受け、二人は学校を後にして歩いていた。逢見学園の制服は男子が学ランであり、女子はセーラー服である。黒を基調として白いラインの入ったセーラー服は、彼女の清楚な印象を引き立たせ非常に良く似合っていた。
「あれからまた何かなかったか? 」
「うん、大丈夫だよ。命ちゃんが先生に言ってくれたから、生徒への指導が強化されるだろうって」
「そうか」
しかし頼みの教師達があれでは、どうなるかわかったものではない。こんなときに、一体どうやって自分の身を守れば良いのだろう。やはり根元を断たないことには、きりのない問題のように思える。
「こんなに荒れてるのって春先からだよね。君達が入ってきてから少したった頃。去年はそんなこともなかったんだけどね」
「一年生の中に原因となる人物がいるってことか?」
彼女は申し訳なさそうな顔を一瞬浮かべた。
「ううん、君達のことを悪く言うつもりはないんだけれど、そうね。ことの発端ではあるのかもしれない」
望は頭の中で同学年の者たちを振り返る。思い当たることだらけで気が滅入るだけだった。
「こんなときに会長がいたら、全然違ったんだろうけど」
「会長?」
「そう。生徒会長の望月さん。去年は副会長を務めていて、凄かったんだよ。綺麗で、優しくて、それなのに嫌味もなくて。一年生の頃から学校中に働きかけていたみたいでね、選挙のときも圧倒的だった。私、望月さんに助けてもらったことがあるんだよ。当選した後も心変わりすることなく、一年間務め上げたの。ああゆう人が政治家になったらいいなって何となく思う」
どうやら聖人のような人物らしい。
「その望月さんが、今はいないのか」
そう言えば生徒会室にはそれらしき人物はいなかったように記憶している。そのときは忙しいからなのかと考えていたが、生徒会長のものと思しき机には誰も座っていなかった。
「四月から休んでるの。噂だと怪我とか病気とかって。よく考えたら会長がいないから、こんなことになってるのかも」
「……でもあの生徒会には副会長もいるだろう」
「ああ、染谷君ね。確かにそうだけど、彼最近荒れてるというか、焦ってるんだよね。不良生徒には問答無用で暴力を振るうし。もう何回もトラブルを起こしてる。ちょっと大丈夫かなって思う」
「……そう、か」
彼も彼なりに会長の不在を埋めるために尽力しているのだろう。しかし言われてみれば、そういう見方もある。彼のやり方は些か刺激的でもある。
しかし自分は彼に救われたのだ。その一点は変わることはない。
「俺は大丈夫だと思う。あの人はただ自分の正義を体現しようとしてるだけだ。俺はあの人を信じたい」
「……ふうん」
彼女は意味ありげな顔でこちらを眺め、得心いったかのように頷き、前を向き直した。
「うん。私もそう思うよ。思いたい」
駅前に近づくにつれて徐々に増してゆくビル街。学校帰りの学生や、スーツの上着を腕に抱えたサラリーマン、厚く化粧を施した女性などが二人の前を通り過ぎたところだった。鉄のジャングルは真夏の熱気を閉じ込め、非常に暑苦しい。浅間栞は不快そうにハンカチで首筋をぬぐい、手で風を送っていた。
「暑いね。どこか建物に入ろうよ」
「……そうだな。駅ビルでいいだろう」
その提案には望は賛成だった。二人は駅と繋がっている、飲食店や家電量販店の複合したビルに入ることにした。




