第五話
窓の外を冷たい雨粒が叩きつける。しんと静まり返った廊下は、放課後の寂しげな空気に包まれていた。誰にでも覚えがあるものと思う。授業の終わった学校というのは、まるで終わった世界のような寂寥感がある。
さて、厄介な問題事を回避したところでこれからどうしたものか。さすがに勉強という気分にはなれなかった。さっさと帰ってもいいが、とくにやることもない上にこの雨だ。今日の天気予報は深夜まで雨。これ以上強くならないうちに、晩飯を調達して帰るのが無難か。望はその前に図書館に戻って本を借りることにした。
「In the depression」というタイトルの文庫本をカウンターの女子学生のところへ持って行くと、快く貸し出しを受け付けてくれた。雨が降っているせいもあるのだろう。館内は普段よりも人で溢れていた。雨宿りという口実は、普段本を読まないような人がそれに向かう良い機会なのかもしれない。窓の外を雨粒が濡らす中ひたすらに物語の世界に没入するというのも、風情があってなかなか良い。
「貸し出しカードをお預かりします。いつもありがとうございます」
「どうも」
頻繁にこの場所を利用するせいか、どうやら顔を覚えられてしまったようだ。その女子生徒は、日本人形のようなおかっぱ頭に、黒縁の眼鏡をかけている。見るからに文学少女、というような外見。小説の登場人物として出てきたところで、なんら違和感はないだろう。落ち着いた様子からは、上級生と予想される。
「洋書を読まれるなんて、凄いですね。私英語は苦手で。国語と古典は得意なのですけれど」
そんな風に話しかけられた。
「…………ああ、俺もつい最近勉強し始めたばかりなんだ。ちょっと、その必要に駆られたものでね。こういうのは教科書よりも、実際に本を読んでみるのがいいと思う」
そう返すと、彼女は感心したように頷き、手元の小説を閉じた。
「そうなんですか。私もそうしてみようかな。世界が広がるようで、なんだかわくわくしますね」
その純粋さに、ひたむきさに望は何だか心の底が温まるのを感じた。
「そう思える人なら、すぐに読めるようになるさ。俺だってまだ辞書を片手に時間をかけながら読んでる。がんばってみなよ」
「はい。がんばりますね」
会釈をして図書室を後にした。思えば久々に人と会話したものだ。あまりにも自然な流れで話しかけられたので、無意識に返してしまったのだ。抵抗もなかった。
自分のクラスでこそ望は孤立しているが、教室外では特にそんなことはなかった。しかしそんな時に、どうしていいかわからずに戸惑ってしまう。
名前、聞けなかったな。またどこかで会うこともあるだろうか。
らしくないことを考えながら、雨の降りしきる中を帰路についた。
このような理不尽なことがあってたまるか。このような報われないことがあってたまるものか。こんな、こんな、非道が、許されて良いはずがない。
彼女は何のために生きてきたのだ。彼女は何のためにこれまでその身を呈して、やってきたというのだ。この世に神はいないのか。この世に救いは無いのか。だとしたら、私の今までやってきたことは全て無駄なのか。その考えに至った途端、底知れぬ恐怖と絶望が 全身を包んでいった。
無駄。
無意味。
今まで自分を支えてきた、ものが脆く音を立てて崩れ去って行くような気がした。私は一体、これから先、何を思って何を糧に生きて行けば良いのだろう。
何を憎んで生きて行けば良いのだろう。
何もできない自分が憎い。彼女のために何もできない自分が憎らしい。こんなときに、こんなときに自分にもっと力があれば。
「誰が悪いのか。そんなことは明らかだ」
そんなときに、深淵から響くような囁きが私の鼓膜を震わせる。私の心を惑わせる。
「奴等全てが悪いのだ。彼女を救わなかった者達、その全てに罪はある。迷うことはない。苦しむことはない」
私にはもはや、その声が誰のものか、はたまたその真偽などはどうでもよかった。
目の前に垂らされた一本の糸が、どうあれその時の私にとっては救いだった。
それがたとえ悪魔の囁きだったとしても。
「私の言う事をお前が聞くのなら、お前の望みを叶えてやろう。どんな願いでも、私は実現することができる。そう、例えそこの少女を救うことであろうともな」




