第四話
染谷明。逢見学園生徒会副会長。確かにそれは昨日見たその人だった。写真の向こう側からも、相変わらず彼は険しい表情でこちらを睨みつけている。
学校が毎年発行している生徒会誌にその名前はあった。現在二年生。去年度に学校選挙で当選し、生徒会副会長に決定している。その誠実な立居振る舞いと高校生離れした威厳から、多くの票を集めたようだ。実際に彼と会った望にも、それは決して間違いではないと思わせた。
そして現三年の生徒会長には望月燕とある。こちらは対照的に温厚そうな、誰とでも仲良くできそうな印象のさせる女性だった。今の今まで望はこの学校の生徒会長の名前など知らなかった。副会長も昨日偶然出逢わなければ興味さえ持たなかっただろう。しかしこういう人達が、陰ながら自分達の学生生活を支えているのだという事実くらいは知っておいた方が良いかと思った。そうでなければ、彼らも報われないだろう。
しかし彼の残した一言が、望には引っかかっていた。今この学校は何かと荒れている。誰か一個人の問題というよりは、学校全体の問題というようなニュアンスだった。あの彼をさえも手こずらせるような何かが、今学校で起きているのだろうか。確かに昨日のことといい、学校の治安は保たれているとは言い難い。生徒会も学校の秩序を守るのに必死なのだろう。
教室の自分の席から外を眺めると、ポツポツと雨が降り始めていた。折りたたみ傘を持ってき正解だった、と心の中で望は安堵する。曇った空は、不安な感情を増長させる。これ以上悪いことが起きなければいいのだが。
叶望は平和な日常を愛する。過ぎたことは何も望まない。ただ昨日のような毎日が続いていけばそれでいいのだ。数学教師が黒板にXやYの織り交ぜられた数式を書き連ねていくの横目に、望はそんなことを思う。
自分を虐げていた溝口も、昨日の連中も、誰かを傷つける以外の方法をとれなかったのだろうか。それ以外の方法を考えることができなかったのだろうか。これだけ科学技術が発達し、人が地球の外へと出ていくこともあるというのに、人の心は変わらない。どころかより荒んでいっているようにも思える。それが人間の限界なのだろうか。望が吸血鬼の吸血行動に嫌悪感を抱いているのは、きっと心のどこかでまだ人間というものが好きだからなのかもしれない。あれだけの仕打ちを受けながら、あんな目に遭っておきながら人間を諦めていないのか。しかしふと自分は思う。人間という存在が、果たしてそれに値するかどうか。
昨日の染谷明のような人間もいるではないか。自分の身をかえりみず、誰かを守るようなことが本当にできる奴もいる。きっとまだ人間は捨てたものではない。望はそう思っておくことにした。
「叶は放課後私のところにくるように。以上、解散」
いつも通りのHRを、いつものように担任教師が締めようとしていると思ったところで、その口からそんな言葉が発された。少しの沈黙が広がり、クラス中の人間が自分の方を見たのがわかった。
「叶。私と一緒に来てくれ」
教師はそういうと自分を連れて教室を出た。望は仕方なくそれに続く。特に話すこともなく、終始無言。教師に名指しで呼び出されるようなことといえば、一つだけ心当たりはあった。その予想がもし当たっていたなら少々面倒なことになりそうだ。
クラスが並ぶ棟を出て、職員室や備品室等の存在する棟へと入っていく。そこは普段は生徒が通ることもない特別な空間。空気までもが緊張しているのか、あまり居心地が良くはない。階段を上って二階へ上がると、更に廊下を進んで突当りにある一つの扉にたどり着いた。
「ここだ。入れ」
望は言われるがままに扉を開けると、そこは教室の半分程度の広さの会議室のような場所だった。縦長の空間に乱雑に物が置かれ、奥に机が置かれていて人間が何人か座っていた。そこはまるで望という犯罪者を裁く法廷のようだ。その中の一人に望は見覚えがあった。
「叶。お前がここに呼ばれた理由がわかるか?」
確か生徒指導の体育教師だったか。体つきのがっしりした男性教師がまずはそう切り出してきた。あまり下手に何でもかんでも喋るのは得策ではないか。
「何でしょうか」
「……お前はクラスの溝口、高坂、伊藤がこの間から学校を休業していることを知っているな。何か心当たりはないか?」
悪い予感は的中した。最早白を切り通すことは叶いそうにない。
「……そうですね知ってはいますけれど」
「そいつらは叶、お前をいじめていたそうだな」
苦い記憶。触れて欲しくない場所ではあるが、それは事実。
「はい」
「そいつらは揃って街で暴力沙汰を起こして、今病院で療養中だ。一体何があったのかあまり口を開かないんだが、そのうちの一人がようやく話してくれた。……お前にやられたといってるんだ」
「はい。俺がやりました」
「…………叶、お前は最近授業の成績も上がっていた。先生方は皆お前に期待していた。しかしお前はやってはならないことをやっていた。お前は私たちを裏切ったんだ。わかるか? 叶」
この場所はどうやら、自分を加害者に仕立て上げる為の場のようだ。しかし殆どは真実なせいで弁解も何もない。学校側としても四人の暴力事件としてことを荒げるよりも、一人の人間を悪者にして一件落着させる方が無難。望はだんだん質問に答えるのが億劫になってきた。こんなことに意味などあるのだろうか。
「叶、例えどんなことをされたとしても暴力はいかん。それをやったらそいつらと同じレベルになってしまう。わかるな? お前は奴らと同レベルだ。お前はいじめを働いた共犯者と、何も変わりはしない」
「…………」
ここでその言葉に反論したところで、自分の正当性が認められることはないだろう。ここは低姿勢でこの場を切り抜け、何もなかったことにする。それがいい。
「被害者面して、自分は悪くないとでも思ってんのかてめえ。てめえがやったことは犯罪なんだよ。わかるか? 叶望。どうなんだ。わかっているのか叶望」
まるで呪いのように自分の名前を連呼される。自らの存在を否定されているかのようだ。しかし望には何も失う物がなかった。いくら汚名がつけられようと、罵られようとかまわない。叶望はその程度の人間だ。
「先生、それはおかしいのではないでしょうか」
周りの教師達でさえ沈黙を保っていた中、それに割り込む一人の声があった。それは強い意志の感じさせる声色をしていて、丁度昨日聞いたばかりの物だった。忘れもしない。
「叶はその三人に迫害を受けていたのですよね? どうして叶だけが責められるのですか。そんなのは理に適っていない」
染谷明は相手が例え教師でも、その姿勢を崩すことはなかった。
「……染谷、私は今叶に話しているんだ。お前じゃない」
「俺はあんたに向かって言ってるんだ。他の誰でもない」
「貴様……」
染谷明は万に一つも揺るがない。何なんだこの人間は。どうして昨日会ったばかりの俺なんかの為に、そこまでのことができる? この人は一体何のために闘っているのだろう。
「高坂の父親が、この学校に多額の援助をしていることは知っています。それがあなた方の都合というわけだ。下らない。……あんたらみたいな大人がいるから、いつまでたってもガキが道を違えちまうんだ」
周囲の教師達が揃って言葉を失う。
「…………染谷。お前今自分が言っていることがわかっているんだろうな。俺は教師だ。そしてお前は学生――どっちがこの学校という場所で立場が上だ?」
「何が正しくて何が間違っているかに、そんなものは関係ない。論点をずらすな。この卑怯者」
「この……若造が調子に……」
我を失った体育教師は、その歪んだ感情を暴力に変えて振るわんばかりに染谷に詰めかかろうとする。流石にそれはまずいと考えたか、周りの教師達が男をなだめた。こめかみに筋を浮き上がらせていた男も、ようやく我を取り戻したのかその手を下げた。
「……覚えていろよ染谷。無事で済むと思うな」
「勝手にしろ。こいつは貰っていくぞ」
呆気にとられる大人達を横目に、逢見学園生徒会副会長は堂々と踵を返し、こちらへと歩み寄ってきた。
「いくぞ」
「…………」
呆気にとられていたのは望も例外ではなかった。後ろの教師達を見ると、先ほどの体育教師がこちらを物凄い形相で睨み付けていた。しかしそれ以上は何も言ってはこず、この場の沈黙は自分にここから出ていけと言っているようだった。
望は染谷の後に続いて扉を潜っていった。
「大丈夫、だったのか? あんなことを言って。あんたこれからやりづらくなるんじゃないのか」
それまで沈黙を保っていた染谷は、そこで口を開いた。
「……そんなことを気にしていては副会長は務まらない。お前も納得のいかない事をのたまう奴は、例え目上の人間だろうと従う必要はない。大人というだけで、教師というだけで自分が神にでもなっているつもりでいる人間があまりにも多すぎる」
それは人間の弱さなのかもしれない。今はそう思うこともできるが、もし自分が権力を得たとしたら、その時も同じように考えることができるだろうか? わからない。人間は力を持てば、それを誇示したがる。周囲に見せつけて、自分をもっと大きく見せたい。自己顕示欲の塊が人間だ。上に従うしかない大人達の考えも、多少は理解できる。
「とりあえず面倒にならずに済んだのは、あんたのおかげだ。ありがとう。昨日の今日でいきなり世話になって悪いな」
「別にかまわない。それが俺の仕事だ。それにしてもお前、意外と根性あるんじゃねえか。三人まとめてねじ伏せたのか? あの三人は俺達も手を焼いていてな、別件で手いっぱいで野放しになっていたんだ。さっきも言ったが、あの内の一人、高坂辰也の父親は国会議員でな。上の人間も逆らえない。政治家が国のためにではなく、自分の子供の我儘の為に権力をふるうのだからおかしな話だ」
「……あんたは俺を責めないのか」
望には、彼が自分の味方をする理由が分からなかった。
「お前は何も間違ったことはしていない。自分の正義に従っただけだ。そうだろう?」
「自分の、正義」
この世に正義など存在しないのだと思っていた。苦難に苛まれる自分の運命を呪うことしかできなかったころの自分。正義の味方は小説やテレビの世界にしかいない。彼の中には確かに彼の正義がある。ならば叶望はどうだ? 自分の中には、一体何があるのか。
「お前が正しいと思うことをしろ。大抵の場合はそれで間違いない。……もうこんな時間か。俺は会議に行かなくてはならない。気を付けて帰れよ」
「……ああ。ありがとう――ございました」
染谷明は少し笑って返した。
「ああ。良かったな」
その大きな背中が廊下の突当りに消えるまで見送った。彼のような人間がいる限り、この世界はまだ捨てたものではないのかもしれないと望みは思った。人間の生み出す悪意に立ち向かう存在がいる。それだけでそこはかとなく救われるものだ。
対照的に、窓の外はいっそう強くなった雨がうねりを上げていた。




