第三話
特に物が多いわけでもない高校生にしては質素な六畳一間のアパートの一室。それが望の帰る場所だった。もはやルーチンワークと化している帰り道を辿り、外に備え付けられている階段を上って二階へとあがる。夏の太陽はまだ傾く気配すらなく、学ランを着込んだ望を首元からジリジリと締め付けていた。
ようやくその扉の目の前にたどり着き、スラックスのポケットから部屋の鍵を取り出す。扉を開いて中へ入ると、見慣れた光景が出迎えてくれる。暑苦しい制服を脱ぎ捨てると洗濯機に突っ込んだ。一人暮らしで大きな洗濯機まで揃っているのは、父がせめて人間らしい暮らしをしろと無理矢理送ってきたせいだ。テレビや冷蔵庫や勉強机など、それなりのものが揃っている。
別にテレビなどなければないで問題ないが、外からの情報を拒み続けていたらいずれ世間知らずになってしまうかもしれない。それならと望は暇な時にそれを使うことにしていた。スイッチを入れると流れてくるニュース番組は、さして興味を引かれるものもなく頭の中を素通りして行く。
ふと授業で課題が出ていたことを思い出し、鞄を引き寄せようとした。
「このテレビというやつは、いやに綺麗に映るものだな」
「……急に現れるな。心臓に悪い」
今まで誰もいなかったはずのその空間に、この世のものとは思えない面妖な存在が望の勉強机に足を組んで座っていた。それは目が眩むような真っ赤な髪の毛を肩まで伸ばし、夏だというのに厚手のコートにマフラーをしていた。外人のように整った彫りの深い顔付き。背丈は望よりも頭一つ高い。
しかし彼はそれ以上驚くようなことはしなかった。もはやこれは彼にとっては既に日常の一部だった。
「どれ、何か面白そうな番組はやっていないのか?存在は知っていたが、わざわざ観る機会もなかったからな」
ラミアという名の吸血鬼は、実に庶民的な台詞と共に現れた。
「俺だっていつもは見ないんだ。この時間に何がやっているかはわからない。新聞もとってないしな。ちょっと待ってくれ」
適当にチャンネルを回すと、警察24時実録凶悪犯罪捜査という番組がやっていたのでそれにしておいた。画面には慌ただしく動き回る警察官が映し出されている。殺人事件は毎年のように起きていて、犯人の正気を疑うような無差別殺人や子供の親殺しなど様々だ。法律はあるが、しかしこうした悲劇は現に起こり続けている。
不景気も関係しているのだろうか、自殺者も後を絶たない。毎日のように希望を失った若者達が、人生を諦めて何もかもを諦めてこの世界の片隅で誰にも気付かれずに死んでいく。望はそうした人達の気持ちが分かってしまうだけにいたたまれなかった。
「何だ、こんなところでも現実か。変わり映えしないなあまり」
彼女は呆れたようにテレビ画面に目を向けていた。
「私が食糧を摂取しようがしまいが、勝手に人間は死んでいく。一人二人血を吸っても、今更たいして変わらないんじゃないのか?」
「……うるさい。そんなのは関係ないんだ」
彼女はあの一件から人間の血を吸っていなかった。吸血鬼は何も日常的に血を吸わなくては生きていけないわけではないらしい。望が吸血鬼の吸血行為にあからさまな不快感を示すので、彼女が気を使っているのか何なのかあの件からずっと血液を摂取していない。
「心配は無用だ。血に飢えてお前の首に噛み付いたりはしない」
「……頼むぜ本当に」
彼女との関係は、言葉ではうまく表現できないものだ。しかし望は彼女に命を救われた。そしてそれだけでなく、叶望という人間を変えた。ある一件を境にこの二人の奇妙な関係は始まった。今では望の部屋にまで、まるで同居人のように入り浸る有様である。それを敢えて拒むこともしないのが、結局のところ受け入れてしまっているということか。
「お前の気が変わるまでは大人しくしているさ。……代わりに何か、胃袋を満たすものをつくってくれ」
やけに尊大な態度で、彼女はそんなことを言うのであった。吸血鬼にもどうやら人間と同じような胃袋があり、普通に食事もするようだ。この間から、望が作る料理を好んで食べている。しかし彼女に言わせればそういうただの食事と、血液の摂取は全くの別物なのだそうだ。空腹感はあまり感じず、吸血鬼にとってのそれは吸血衝動――味などは普通に感じるらしいが、大抵の吸血鬼は生きるために人間でいうところの食事をすることはない。それは趣味の範囲でしかない。
備え付けのコンロに鍋を火にかける。買い置きのパスタを出して沸騰した鍋に投入。塩を軽く振ってしばらく茹でる。帰ってきたばかりで手間のかかるものは面倒だったので、彼女にはこれで満足してもらおう。冷蔵庫に昨日作ったミートソースが残っていたはず、と望は思考を巡らせる。
「あれから本当に吸血鬼狩りは、もう来てないんだろうな」
暗闇。
右腕。
阿鼻叫喚。
それらは、あまり思い出したくない記憶である。
「あいつらは見てわかっただろうが、この国の吸血鬼狩りではないんだ。十字にユニコーンの紋章、英国教会の影の暗躍者――裏の汚れ仕事を一手に引き受けるプロ集団だ。吸血鬼に限らず、聖域を犯す存在を毛嫌いしている。私も幾度となくそいつらを相手にすることになった」
「……そんなにやばい奴らなのか? ちょっと待て、じゃああいつが死んだことがもしその教会ってやつに知れたら、仲間が潰しに来るなんてことに」
「大丈夫。百人きたって私が返り討ちにしてやる」
彼女なら本当にそうしてしまいかねない。ある種の安心感はあったが、心のどこかで不安もまたあった。うまく言葉にできない危うさのようなものが。
「それより学校ではうまくやっているのか? 多少ましにはなったんだろう」
「……人間関係なんて、そんなに簡単に変わるものでもないさ。別に今更普通の幸せなんて望まない。もう俺はこっち側の世界を知ってしまったんだ。もうそちら側には戻れないさ」
「何に固執しているのか知らないが、そんなに固く考える必要はどこにもないと思うがね。楽しめるうちに楽しんでおけばいいじゃないか。学業生活という奴を。青春というやつだ」
「もう楽しみ方を忘れちまったよ」
遠い昔、自分にも普通の友達がいた。その時は自分以外の誰かと一緒にいることが、普通に楽しかったのだ。しかし今はその感情を欠片も思い出せない。どこかが壊れてしまったのだろうか。
「まあ無理にしろとは私も言わない。私が言えたことではないしな。しかしだからこそ言えることもある……おおこれは美味しそうだ」
茹であがったパスタをミートソースに絡め、二人分の皿に盛ってテーブルに置く。ラミアは望の勉強机から降りてテーブルに行儀よく座り、俺からフォークを受け取った。その仕草の一つ一つに気品が溢れている。
「あんた西洋の出身なんだろ? こんなの安物のパスタだぞ」
彼女は少し不思議そうにそれに返す。
「それが何か問題があるのか? 望が私の為に手間と気持ちをかけて作ってくれたものだ。美味しくないはずがないだろう」
「……そうか。そういう、ものか」
「そういうものだ」
そんなに堂々とされては、素直に納得するしかない。何か上手く丸め込まれてしまった感じだ。彼女のそういうところが、望は嫌いではなかった。妙に心地よいとさえ感じさせる。そうしてまた自分はこの吸血鬼に料理を作ることになるのだろう。これが吸血鬼の人心干渉能力というやつなのだろうか。もしそうなのだとしたら、望は少し操られてもいいような気がした。
「ラミア、そのまま食べたらそのマフラーが汚れるんじゃないのか?」
「ああ、これか。そうだな」
彼女は身につけたマフラーを外すと、それをテーブルの隅に綺麗にたたんで置いた。彼女がそれを外すところは、稀に食事をするときにだけ見せる貴重な姿だ。大事な品なのだろうが、その由来を彼女は語らない。
彼女が語らないのなら、俺は何も聞かない。
しかしそれは彼女の別の表情のようで、心を許してくれている証のようで、望は何となく嬉しかった。彼女のそんな一面を見つけていくのが望の楽しみだった。
今度はもう少し手の込んだ料理に挑戦してみようと、望は彼女の食べる姿を眺めながら思った。




