第二話
――吸血鬼。
人間に非ず、あらゆる常識の通じぬ異形の存在。人の血を吸い、吸血鬼にならしめる鬼。
誰もがそれを空想の絵空事だと思っている。信じている。けれど、俺だけは知っている。それが幻でもなんでもないことに。確かにこの世界に存在していることに。まだ一人にしか会ったことはないが、その一人は、そういう世界があるということを俺に教えてくれた。
それを知った途端、自分が今置かれている境遇、苛まれている苦悩、色んなものがどうでもよくなっていった。世界はこんなにも広いのだ。そして知らないことがまだたくさんある。ならばこの狭い自分の世界で、くよくよしている俺の姿が馬鹿馬鹿しくなってくる。
自分を虐げていた生徒等の集団は事実上崩壊し、今では特に嫌がらせを受けるようなことはなくなった。学校に行くこと自体は苦ではなくなった。しかし結局人間関係については中途半端なままで、クラスメイト達には未だに距離を置かれている。望自身も特にそのことについては気にしていなかったので、その状態がずるずると続いているままだ。別に問題は何もないと思う。
こことは違う世界のことを知ってしまったのだ。もう彼等とは対等に付き合うことはできないだろう。無理にそうしようとしても、きっと上手くいかない。悪戯に余計な傷を増やすだけだ。もうそんなのは御免だ。ならば、不相応な夢を見るのはやめることにしよう。
放課後の図書室はまだ人が少なく、利用している生徒は二、三人である。学校の歴史が長いせいか、造りはどことなく古めかしい。いつからあるのかわからないような傷だらけの机がいくつか並び、その奥に背の高い書架が列を成している。出入り口付近のカウンターには図書委員と思われる女子生徒が座っていて、パソコンのキーボードを叩きながら画面を何やら睨んでいた。
望は空いた時間のほとんどをこの場所で過ごしていた。昼食をここで取れれば取っていただろうが、さすがにそれはできないのでやめている。することは勉強。しかし授業の範囲が思いのほかすぐに終わってしまった後は、とりあえずここの書架の本を片っ端から読むことに時間を費やしている。主には神話や架空の生き物について記された書物。英語の書物もいくつか読んだ。
吸血鬼にはいくつもの伝承がある。どこかで聞いたようなものもあれば、地域独自の伝説と思われるものまで様々だ。そこに共通しているのは、血を吸われた者は吸血鬼になる、太陽の光が苦手、十字架や銀の弾丸が弱点といった記述。学校の図書室で調べられるものなどこの程度だろう。よもやその中に彼女について知る手がかりがないかと探していた。そんなときに見つけたのだ。
「ギリシャ神話の――怪物」
ラミアー。血を吸う女吸血鬼。
海の神ポセイドーンの息子ベーロスと、その母リビュエーとの間の娘。もともと一国の女王であったが、ゼウスに取り入ってその妻ヘラの怒りを買い、怪物へと変えられてしまった哀れな女性。
ラミアーについての伝承は複数ある。しかしこれらが彼女と関係しているかどうかはわかりそうもなかった。そもそもラミアというのは本名ではないだろう。……というか吸血鬼の本名とはなんだ? 人間だったころの名をそのまま使うのだろうか。彼女のことをもっと知りたかった。今の自分の立ち位置を明確にする為だ。しかし手がかりは名前だけ。
一人で頭を悩ませていると、段々と生徒が机の席を埋め始めていた。静かだが多くの人間の出す気配が思考を鈍らせる。考え事はやめ、息抜きに小説でも読もうと一度席を立った。書架の方へ歩いていき、興味の引かれそうなタイトルを選ぶ。
「流血の絆」「ブラッディ・ストレンジ」「優しい吸血鬼」、いくつかある中から妥当な一冊を選択して手を伸ばそうとした。たまには現実を忘れて想像の世界に身をゆだねるも良い。しかし。
その時、図書室の窓から妙な光景が網膜に飛び込んできた。
校舎裏の、普段は人気のない場所で、複数の人間が誰かを囲んでいる。その顔の一つに見覚えがあった。クラスの例のグループの奴だ。
「…………」
どうやら現実逃避をする暇も、この世界は与えてはくれないようである。
鞄を回収して椅子を戻す間もなく図書室を後にする。呆気にとられる他の生徒達を尻目に、廊下を駆け階段を下り降りる。靴を履きかえる手間も惜しんで裏口から外へ。初夏の強烈な日差しに顔をしかめながら、目的の場所を探す。それはすぐに見つかった。
校舎裏の日の当たらない影の部分で、三人の男子生徒が一人の女子生徒を囲んでいる。男達はある者は下卑た笑みを浮かべ、ある者は無表情でそれを行っていた。女子生徒は同じ一年生だろうか。鞄を取り上げられ、服が乱されている。必死に体を庇おうとしているが、この年の男子に力では到底かなわない。
強い者が弱いものを虐げるこの構図は、永久になくならないのではないかと望は思う。もううんざりする程見飽きた光景。どうしてこの学校という場所には、こうも理不尽な事がまかり通り続けるのだろうか。。
「おい――」
「お前たち、そこで何をしている」
遮られた、その声の主に。はっきり良く通る声。意思の強さを感じさせる佇まい。皺ひとつない学ランに身を包み、背は望より頭一つ高い長身。一部の隙もなく校則の守られた黒の短髪。
まるで規律が服を着て立っているかのような、そんな風に思わせる男だった。
「あぁぁ? てめえはなんだ。今こっちはとりこみ中だ。さっさと失せろや」
他の二人はどうやら上級生のようだ。明らかな敵意を突然の乱入者に向けている。しかし割り込んできた男子生徒は、臆することなくそれに対峙する。
「……そんなことは聞いていない。今そこで、お前たちは、何をしていると聞いたんだ」
どんな脅しにも屈しない。芯の通った強い声。そして何よりも印象的なのは、人を切り裂くような鋭い視線。姿形は全く違うが、望は彼女のことを連想した。
「おい。お前まじで殺すぞ。お前はなんなんだ。俺達が何をどうしようと、それがお前に何の関係があるっつうんだよ」
その中の一人が、男に掴みかかろうとした。しかし。
「俺は逢見学園生徒会副会長だ」
それは圧倒的な暴力だった。どちらが勝つかというような次元ではない。振るわれた拳は、男の体を宙へと吹き飛ばした。恵まれた身体から繰り出される強烈な一撃。それは見るものを震えさせた。こんな救いようのない絶望的な光景を、一瞬で塗り替えてくれる。それはまるで物語の主人公のようだ。
「おいてめぇなにしてくれとんじゃっ」
「先輩こいつ副会長だって……やばいっすよ」
突然の乱入者に彼らは動揺を隠せない。まさに目の前で力の差を見せつけられては、彼らとて引く他にないだろう。それ程に、彼らと男の間には圧倒的な力の差が存在していた。
「ちっ。覚えとけや」
「……いつの時代の悪役だよお前は」
彼らはこちらを振り返ることもせずに、校舎裏から消えて行った。無理な争いをしようとしないだけ潔いか。それはともかくとして、この場はとにかく事なきを得たわけだ。望はというと、その一部始終を影から傍観していた。そこで。
「見世物ではないんだがな」
「……気づいてたのか」
「そんなにも熱烈に見つめられていては誰でも気づく。……おい大丈夫か」
彼らに虐げられていた女子生徒は、どうやら一年生のようだ。小柄でショートカットの少し地味な風貌。そういう外見から彼らは標的の匂いを嗅ぎ分ける。強い人間は反撃できる。しかし弱い人間はそれができない。彼女は乱された服を直し、溢れ出そうな涙をぬぐっていた。
「はい、……大丈夫、です」
「あいつらは野球部のやつらだな。去年も厄介な問題をおこしていた。生徒会を通じて問題にすれば、奴らもひとたまりもないだろう。後は任せておいてくれ」
「あの……あり、がとう……ございます」
「ああ。いいんだ」
女子生徒は、この目の前の人間が自分の味方だとようやく認識したのか、今まで抑えていた感情を開放した。嗚咽をもらして涙を流す。彼はその女子生徒の肩を持ち、背中をさすってやっていた。この男はこれができるから生徒会副会長になったのだろう。そんなことは自分には到底できそうにない。
「俺は染谷明という。聞いてただろうが、この学校の生徒会副会長をやっている。お前は誰だ?」
その言葉が自分に向けられていることに気付くと、望はそれに返した。
「叶望。一年生」
「そうか。では俺はこの子を保健室まで連れていくことにする。お前も気を付けろよ。今この学校は何かと荒れている。何かあったら生徒会室まで来い」
そういうと染谷明は女子生徒を連れて校舎へと入って行った。こんな人間が、まだこの学校にはいたのだなと望は思った。自分の時に彼に会っていたら、何かが変わっただろうか? それはしかし今更考えたところで、無意味なことだろう。




