第十七話
「……くっ、げほっげほっ。はあぁっ……はぁ」
身体への、負担が大きすぎる。世界の全てを背負い込んだかのような、感覚だった。プシュケーを殆ど使ってしまった為に、感覚が上手く働かない。トロイアのプシュケーを感じられなかった。
こんなものをよくトロイアは何度も……。どうやらあの世界を維持するために消費する力は、その中に取り込むプシュケーの総量によるのだろうか。喰らったプシュケーも殆ど残っていない。ティシフォネを喰らった後、試練の旅路は無に還元され、元の世界がそこに流れ込んだ。朱音は元の屋敷の屋根上に横たわっている。周囲には亡者の影はない。
もう、ここには彼と私を除いて誰もいない。
「そう、だっ」
早く、彼の下へ向かわなくては。
終わらせた。全て、終わらせた。もう私は自由だ。私を縛り付ける人間も神器も、ここにはいなくなった。なんだろう、このどうとも形容しがたい気持ちは。感情は。まあいいか。その答えはこれから探してゆけば良いのだ。ゆっくりと。
最上階の窓を壁越しに割り、難なく屋敷の中へと入る。既に主のいなくなった屋敷。既にそれが神器としての役目を失っていることは、この状態でもわかった。しかしいくら神器とはいっても、朱音にとっては生まれ過ごした生家である。朱音は地下牢までの道を、心持ちゆっくりと歩き始めた。
「なんか、変な、気持ち」
この場所はもう終わった。けれど、今まで色々なことがあったなあと、今日までの事を振り返る。苦しいことや苦しいことや苦しいことがたくさんあって、けれどそれでも全てがそうではなかった。母の声は、温もりはまだ忘れない。自分にかけてくれていた愛を確かにここに感じて、朱音は少し目を閉じた。その余韻を少しの間楽しんだ。
そこで朱音は忘れていたことをふと思い出す。
「そうだ、お兄様は屋敷を離れていたのだっけ」
朱音の血の繋がった兄であるところの、鬼頭景道は吸血鬼狩りの任務の為に屋敷を離れているところだったのだ。彼だけは殺さずにおくことができたということだが、それが果たして幸運だったのかと言えば朱音にはわからなかった。帰ってきたら、そこには誰もいない。鬼頭一族は崩壊していて、自分の居場所もなくなっている。自分は兄に対して恐ろしいことをしてしまったのだ。改めて事の重大さを思い知ったが、しかしそれは今更どうしようもないことである。犯した罪を後悔するくらいならば、開き直って全てを受け入れるしかないのだろう。そうでなければ、もう後悔することすらできない彼等に失礼だ。
自分のしたことが許されることだとは思わない。全て背負って私は行く。それくらいで許されるとも思わないけれど。これからも、光の差さない暗い暗い世界で全て背負って生きて行くのが、せめてもの償い。吸血鬼として。
吸血鬼となったら、鬼頭という名を名乗るのもなんだか違和感があるような気がする。これからは他の吸血鬼狩りから逃れ続ける日々が始まるのだ。良い思い出はあまりない名前。しかしそれでも、母や兄との繋がりの証だ。この名前は自分の中の一番深いところへしまっておこう。誰の手も触れない場所に。
一歩一歩、歩みを進める。
一緒に持っていく記憶を整理しながら。感情を整理しながら、歩く。
もうどこにも戻れない。せめて忘れ物がないように、念入りに確かめる。思い残すことがないように、一つ一つ丁寧に。この場所の景色を一つ一つ網膜に焼き付けておく。それはこれから死にゆく者のような行為。同じようなものだろう。私はもう人間ではない。
吸血鬼、なのだから。
最後に自分の部屋に寄ることにした。その見慣れた扉を開いて、馴染みの深い空間へと足を踏み入れる。この部屋にはたくさんの思い出がある。たくさんの悲しみや苦しみを、ここには残してある。姿見に目をやれば、そこには変わり果てた姿の自分。伸びた髪の毛は赤く染まり、口元からは八重歯が覗いている。直に触ってみると、それは確かに自分の歯茎から生えていた。人間の血を吸うための器官。
吸血鬼になると髪の毛の色が変わるというのは、聞いたことがあった。しかし大分印象が変わってしまった。もう兄に会ったとしても、自分だとは分かってもらえないだろう。それはなんだか悲しいことのような気がする。それを悲しむ資格など、今の私にはないのかもしれないけれど。叱られてばかりの関係だったが、どうやらそれでも私は、兄のことを心のどこかでやはり家族と思っていたのかもしれない。
「もう、会うこともないだろうけれど」
出会いがあれば別れもある。私がトロイアと出逢ったように、そしていずれどこかで別れるように。私が母から生まれたように、今やその温もりにすがれないのと同じように。彼がどこかで生き続けてくれるだけで、今は良しとしよう。もし再開することがあれば、その時は殺し合いだ。
狩るか狩られるの、殺し合いだ。
全ての思いに整理がつくわけではない。色んな納得のいかないことを抱えて、それでも生きて行かなければならないのだ。答えはいつの日か出るのだろうか。わからない。それでも、私は――。
窓の外を見ると、濃く空にかかっていた闇は、僅かに薄くなりはじめていた。長い夜はようやく明けようとしていた。
暗い暗い道を私は往く。それはまるで私がこれから歩んでいく道のようだ。陽の光から逃げ続け、世界の日蔭をいく毎日。光は全く差さないが、この目は非常に良く見える。
再び夜が来るのを待って、それから出発することになるだろう。世界の全てをこの目に収めるための旅。彼と二人で。それはずっと夢見ていたこと。その為にずいぶん重い代償を払うことになりはしたが、それは仕方のないこと。
仕方のない、こと。
そんな風に考えることができてしまうのは、身体だけでなく、心まで吸血鬼に近づいてきているからか。あらゆるプシュケーを自在にできるのだ。もう感情を持て余して葛藤に苛まれることはない。自分をまるで他人であるかのように客観的に見ることができて、少し気持ち悪いほどだ。
もし私が人間のままだったなら、犯した罪に押しつぶされていただろう。そもそもこんなことになったのは、私が吸血鬼になったからなのだけれど。
吸血鬼、となった。
自ら望んで、吸血鬼となった。トロイアさえも利用して。彼の善意を踏みにじって、彼に約束をを破らせてまで、私は……。
彼に”力”を使って私の血を吸わせたのは、勿論のことだ。トロイアが彼女との約束を破り、私を汚すことなど絶対にしない。それくらいは彼のことをわかっているつもりだ。しかしあの状況ではああするしかなかった。これは彼を救い、この絶望的状況から抜け出すための最善の方法だった。
ああそうか。そうだったのだ。吸血鬼になんてなる前から、とっくに心なんて失っていたのだ。私が選択したのは最善の方法ではない。最適な方法だ。人間らしい感情が残っていたなら、それがブレーキとなってとれない行動のはずなのだ。吸血鬼、なんて言い訳だ。
自分が自分で気持ち悪い。しかしその自分を、横で冷静に観察するもう一人の自分がいる。それはいつも心の奥深くにいる自分。それは徐々に私という自我を蝕み、私を私でなくしていく。
もういいのだ。
私は、もう――。
暗い暗い隠し通路を抜け、冷たい地下牢へと到達する。そこには既に亡き先生の姿。灯りはなくとも、私の目はこの暗闇の中を見通す。もう何もかもが終わった空間。しかし何かが奇妙だった。鈍い胸の痛みと共に、胸騒ぎがした。
尋問牢は開いていて、中には依然として巨大な銀の十字架が拵えてある。牢の外に須佐之男がいなくなっていた。プシュケーが切れた影響で自由を取り戻したのか。しかし牢の中には二人の人間……否、吸血鬼がいた。
「え…………………」
それは、信じ難い光景だった。それを理解することを、頭が拒否していた。そんなことがあるはずかない。そんなことがあるはずがない。自分に何度も言い聞かせ、否定することで、それを受け入れないことで自分を守ろうとした。しかし手が、体が震えてしまう。
それを、見て。
信じたくない。そんなはずはない。
「どうして、…………いやっ」
トロイア・イーリアスは果たして、十字架に磔にされたまま胸に杭を打ち込まれていた。それは深々とトロイアの胸部を貫通し、恐らくは命を奪っていた。
吸血鬼は、心臓に杭を打ち込まれると死ぬ。
「いやああああああああああああぁぁぁっっっ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっ」
我を失い一瞬で彼の下に駆け寄り、その杭を抜こうとする。彼の表情は、既に生気を失っていた。そして掴んだ鉄の杭は、嫌な手ごたえをさせた。これを抜いてしまったら、どうなるのだろう。そうしたら、彼の体がバラバラに崩れて行ってしまうような気がした。
「いやぁっ、いやぁっ。トロイアァっっっ、ああああああああああああああああああっっっっ」
信じない。絶対に信じない。
そんなわけはないのだ。彼は不死身の吸血鬼だ。最恐最悪の吸血鬼だ。絶望の体現者だ。それが、たかが死ごときになんて阻まれるはずはない。死如きに屈するはずはない。一緒に行くと約束したのだ。私を連れて行ってくれると。約束、したのだ。まだもっと、たくさん、知りたいこと、教えてもらいたいことがある。
それを、どうして。
「いやああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっっっっっっっ」
彼に縋るように抱きしめ、その体で抱きしめ返してほしいと願った。しかし彼の体は空しく力なく傾れるばかり。その目は光を失っていた。もう、その顔にあのくたびれた笑顔を映すことはない。行き場のない感情は、零れていくばかり。それは涙となって、私の顔を流れ落ちていった。
喉が枯れるほどに叫んだ。魂を焦がして、叫んだ。無我夢中で彼の首を鷲掴み、顎を目いっぱいに開いてその八重歯で噛んだ。血を吸う。戻れ。戻れもどれもどれもどれもどれもどれ。
そして左手で彼の胸に刺さる杭を力づくで引き抜いた。すると生暖かい液体が吹き出し、それを私は全身で浴びた。冷たい血だった。涙と血が混ざったものに塗れながら、私は泣いた。全てに絶望し、世界に絶望し、それでもその目の前の大切な人を、どうにかして救いたかった。
それだけ、だったのに。
”なんと愚かなことでしょう。他人を操り自らの思うが儘にしても、何も満たされはしないというのに”
その言葉が、蘇る。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっっっっっっっっ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっっっっっっ」
私は、私は私は私は私は私は。何という、ことを。
彼は鬼頭白の約束を破り、私を犯してしまったことに絶望したのだ。それが彼の意思に反していたことは問題ではない。彼はそれでも、自分を許せなかった。力に負け、私のプシュケーに屈し、それをしてしまったことを許すことができなかった。自分を許すことができなかった。一つの約束を破ってしまった彼には、他の約束を守り続ける意味がなかった。生き続けろという約束すら、守る必要はもうなかった。彼が選んだのは自殺だった。
生きることを、やめることだった。
その時のトロイアの気持ちを察して、私は自分のしてしまったことの愚かさを悟った。
足元に須佐之男の亡骸があった。トロイアが復活した力を使って、先生の胸から杭を引き抜かせ、自分の胸へと突き刺させたのだろう。トロイアはそれをどんな気持ちでやっていたのか。最後に自分の力を、こんなことの為に使うことになって、それをどんな感情で行っていたのだろう。
「ト、ロイアァっっっ、私は、わたしはっ、あああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ、ああ…………あああああぁぁぁ」
私は、一体どうすればいいのだ。こんな、こんなことになって、たった独りになって、一体これから先どうやって生きていけばよいのだ。誰か、誰か教えてください。何でもするから。神様でも悪魔でもいいから。誰か、誰か。
もう誰もいない。ここには誰もいない。
声が出なくなり、涙が枯れた後も鳴き続けた。魂を燃やすように、鳴き続けた。何もかも失って、何もかもに絶望して、こんな化け物にまで成り下がって、幼い少女の姿で鳴き続けた。
それは夏の終りを惜しむ蝉のように。
これは世界の終りの一つの形。
覇権にあった鬼頭一族が、一夜にして崩壊したあの恐ろしい事件の話はこれで終わりである。そして同時にこの物語は、後に世界を脅かす吸血鬼であるトロイア・ルージュの生誕の物語でもある。
この一部始終を知る者は今となっては、彼女以外には存在しない。
『She is a vampire』これにて一区切りとなります。ここまでお付き合いいただいた読者様には精一杯の感謝を。ここまで続けて来れたのは、皆さんのレスポンスがあったからに他ありません。
あまり多くの人に受け入れられる終わり方ではなかったかもしれませんが、この結末は自分で考えに考えた末に出した結論であり、ずっとこうしようと決めていたものでした。今更この結果を変えるつもりはありません。出逢いと別れは物語を引き立たせる最高の香辛料であると考えています。
さて、約一年ほどかかった二章の執筆ですがようやく区切りをつけられて今更ながらに達成感が多少出てきましたが、まだ物語は佳境にすぎません。このままだと、全ての話を書き切るまでにいい年になってしまうしまうので、今後も更に気合を入れて執筆の方やっていきたいと思っています。
一応大学院試験は合格しましたので、進路は確定しました。しかし卒研はまだやることがたくさんあるので暇とはいきませんが、執筆する時間は確保できると思います。この後の話ですが、ようやく叶とラミアの話に原点回帰するか、新しい登場人物の話(今度は救いのある明るめの話の予定)を挟むか考えています。もし要望等ありましたら、是非お待ちしております。感想などいただければ、より一層これからの執筆がはかどることでしょう。今後とも如月睦月と一緒に『She is a vampire』をよろしくお願いいたします。
それでは。




