第十六話
後方には地獄と見紛うかのような光景が広がっていた。朱音は、迫りくる亡者の群れを振り払いながら、プシュケーの残滓の方向を目指していた。
「あああああああああああ、ああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……」
「ついさっきまで、こいつら正気を保っていたのにっ」
彼らは屋敷の至る所から湧いてきた。それは一切の自我を持たず、理性も持たずしかし、朱音をただ一つの標的と見定めて襲い掛かってくる。その一人一人は朱音も見知ったこの家の人間たちである。鬼頭一族は血の繋がった直系の人間の他にも、外部からの人間によっても構成されている。それが地下牢に集まっていた、黒服の男達だ。しかし彼らは最早、人間とは呼びようがなかった。
廊下の突当りから、黒服を来た亡者が迫りくる。
「くっ――」
間一髪で回避し、背後からプシュケーを打ち込む。
「あああああああああああああ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっ」
亡者の胸元にはやはり深緑のプシュケーが灯っていた。それは朱音の赤いプシュケーによって乱されるが、それらは激しく侵略し合っていた。拒否反応を起こしたのか宿主の男は発狂し、苦しそうに呻く。
「こんなのきりがないっ」
まだ自分には、トロイアのように場自体に影響を与えるようなやり方はできない。しかしこの深緑のプシュケーはどうやら自分に制圧できる類のものではないようだ。このまま宝探しに興じるのは少々難儀である。一体どうしたものか。時間は限られている。
廊下の窓を突き破り、一時屋敷の外に脱出する。皮膚を硝子が突き刺し血液が流れ出るが、瞬く間に傷痕は塞がっていく。その様を、朱音は諦観したように眺めている。
「動きを暫く止めるだけで精一杯。……トロイアの方は、大丈夫。こいつらの狙いは私。何にしても、この厄介なプシュケーの源を断たないと」
トロイアのプシュケーを感じ、彼の無事を確認する。何かあれば彼の方からアクションがあるはずだ。一旦彼の事を頭の隅へと追いやり、再び思考を働かせる。更なるプシュケーを脳神経へと集める。神経細胞は更に多くのニューロンを次々と形成し、至る所で電気信号のスパイクを発する。
「私ならどこに隠すか。もし私なら、絶対に見られたくない宝物をどこに隠しておくか」
至る所で硝子の砕け散る音がし、一瞬で周囲を亡者達に囲まれる。それは一瞬。全てを察知して手足に力を集め、それを実行に移すまでは一瞬。朱音は脚をバネに屋敷の壁に向かって跳躍し、二階の窓枠をつかんでそのまま屋敷の屋根上へ飛んだ。屋敷は準洋風の造りをしていて、高さはゆうに三階分はある。
「鳥になった気分」
朱音は自らの胸元に目をやり、炎の残滓の方向を再確認する。その時朱音は異変にようやく気付いた。
「下?……地下牢にいたときは、上を向いてた。そしたらやっぱり神器は屋敷の中に――」
いや。
そうではなくて。違う。
屋敷の壁を何かが這いずり、登ってくる気配がする。亡者はその数にして数十体。その全てが目を血走らせ、呻き声を挙げながら意思もなく朱音を襲う。朱音はその光景に呆れたように溜息を洩らし、そこに自らの敵を見据えて問うた。
「あなたなのね」
それがあまりにも当たり前すぎて、日常に埋もれていて、生活と一体化していて。それがそうと気付かなかった。気付けなかった。吸血鬼はともかくとして、人間は”慣れる”生き物である。どんな匂いでも味でも視覚でも、幸福にも不幸にも良くも悪くも慣れてしまうのだ。朱音がそれに気付けなかったとしても、無理はない。
よくよく見れば、この胸の炎はある一方向に煽られているというよりは、この”場”全体に引っ張られているようにいるではないか。そうだ。この屋敷は結界により俗世から隠されている。その結界というものがそもそも、神器によるものなのだとしたら。その結界の中心がこの屋敷そのものだとしたら。
「ずっとここに在ったのね。私の傍に、そこにいたのね」
次第にこの手に馴染んできた力の感覚。ありったけのプシュケーを錬成し、全身のあらゆる神経細胞まで巡らせる。更にこの心に滾る”怒り”という感情をも分解してプシュケーに変換していく。全身を流れるプシュケーは皮膚の表面から迸る程である。八重歯は更に伸び、髪の毛も伸びて変色し、赤みを帯びていく。自分が人から外れていくのが分かった。
「この屋敷そのものが――」
なんて、つまらない物語だ。
「神器」
亡者の中の一人が、朱音の前に立ちふさがり口を開いた。それは紛れもない。自らの父親の成れの果てだった。
「が、がぁ…………それが、が、正解、だ…………」
”彼”は鬼頭総司の体を利用して、どうやら私に話しかけているようだ。
最初から、全てはそういうことだった。彼らは”最初”から、血霧の祭壇に操られていたということ。つまりは、惨劇の繰り返し。鬼頭はこの神器をまたしても扱いきれなかった、ということ。ただそれだけのこと。それだけの真実。
「我、を人間などに、……縛りきれる、はずがなかろうが……。厄介な、春日の女を、排除さえすれ、ば……良かった。後は、貴様だけだ。……貴様さえ、し、はいし、そして貴様の、肉体を媒体に我は……現世に復活を、はたす。まだ、まだ……我は生き、たい」
「……そう」
この存在からは、私利や私欲といった邪な感情はもはや窺えない。あるのは純粋なる生への執着。それまで朱音の心を滾らせていた感情は収まって行った。朱音はこの吸血鬼を憎むことはできなかった。それは筋違いのような気がしたからだ。今目の前にいるのは、強大なる古の吸血鬼の成れの果て。同じ吸血鬼になったからこそ、同じ場所に堕ちてこそ、わかることがあった。
「けれど、それとこれとは話が別」
右掌を開き、閉じる。もうこれを使う必要もない。わざわざ掌を使って補助しなくとも、もう対象の感覚を利用して嵌めればいい。相手は亡者を利用してこちらに接触してきている。ということは、こちらの情報を感覚として感受しているということだ。何となくわかってきた。音を聞いたり、光を感じたりすることは、周囲の環境や因子に影響を受けるということに他ならない。
「ああ……、が……貴様、と話すことは、ない」
呑みこまれそうなほどに濃密で凶悪なプシュケーが屋敷全体を覆い、それは無数の亡者に次々と流れていく。亡者達は獣のごとく雄叫びを上げて、朱音を襲わんばかりにいる。単純な力と力のぶつかり合いでは勝機はない。こちらがひねりつぶされて終わりだ。しかし私にはこれがある。否、これしかない。
「聞いてさえくれれば、いい」
言葉は、力を持つ。
「もういいの。別にこの一族に対して思い入れがあるわけじゃない。こんな家なんて滅んでしまえばいいと思っていたところだから、むしろ感謝してもいいくらい。それにしても哀れね。お父様。そんな恰好で無残な傀儡と化して、人形のような気分を少しは味わえたかしら。……もう後悔することも苦しむこともできないか。もう、いいわ――」
「…………」
それでも貴方は、私の唯一の父親。始末は自分でつける。覚悟を決める。心の中の最も深い場所に在ったものを、そこに手を伸ばして引き寄せる。物凄い抵抗に頭が酷く痛む。しかし負けられない。負けるわけにはいかない。このままではこの吸血鬼には勝てない。それを覆すためには、自分を一段も、二段三段も上のレベルに持っていかなければならない。
「……それは道。他には何もない、たった一つの、旅路。旅路は、試練。これは試練。この身に降りかかる災厄、立ちふさがる脅威、それら全ては、試練」
「……あああああああああ、あああああああああああああああああああああぁぁ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁ、あああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
迫りくる無数の亡者。彼らに捕らわれれば最後、あの深緑のプシュケーに犯されて終わりだろう。しかし朱音は一歩もそこを動かず、必要な”言葉”をただ一心に紡ぐ。
「この世界は試練。全ては、試練。この身に、どんな艱難辛苦が待ち受けて、いようとも……、決して打ち負けず、屈せず、自らの運命を、受け入れ、それを嘆くこと、なく……」
掴みかかろうとしてきた亡者の一体を、片手で振り払い紡ぎ続ける。
「私はただひたすらに、この道を往く」
魔術でいう呪文などと、原理は同じなのだろう。形のないものが、言葉によって形を与えられる。存在を与えられる。それを骨子として、媒体として異なる理を成り立たせる。私の中にあるものを、私の中に収まっているものを展開する準備を整える。それは初めての試みだったが、不思議なことに失敗する気は起きなかった。
もう恐れることは何も無い。全てを支配し得る力は、この手の中にある。
さあ終わらせよう。全てを。
「”試練の旅路”」
その言葉を引き金に内なるプシュケーが解放されていき、深緑のプシュケーをも呑みこんでいく。世界の理が塗り替えられていく。物理法則が揺らんでいく。新たな秩序がそこに生まれ、新たな世界がそこに立脚していく。世界は、人間が認識し続けることでしかその存在を保てない。これが支配の究極的な形。まやかしではない。幻でもない。それは確かに世界を変える力。
屋敷も森も漆黒の夜もその存在を消滅させ、現れたそこは奇妙な空間だった。そこには何もない。広がっているのは無骨な大地。緑も人工物もない、そして夜でも朝でもない空。何か大事なものが欠けているような、そんな風景。そこに数十体の亡者は成す術なく佇んでいた。私という存在は、そこにはいない。彼女は物語のページをめくる第三者のように、その世界を見下ろしていた。
「これ、は……結界――では、ない?」
亡者の中に、先程までは存在しなかったはずの影が在る。状況を把握することも叶わず、私の世界に囚われた囚人。ようやくその姿を拝むことができた。ティシフォネ・エントロピアは醜悪な、老いた男の姿で現れた。現世で神器に宿っていたプシュケーが、この世界で拠り所を失って実体化したのだろう。しかしこの世界の内側では、あらゆるプシュケーは意味を成さない。
「真紅、のプシュケー……おま、えは」
ティシフォネは驚きに満ちた表情で、打ちひしがれたように洩らした。
「ラミ、アァ………………」
知らない名前を、吸血鬼は口にした。それは一体誰の名前だろう。わからない。しかし理屈ではない何かが、その人のことをどうしてか他人ではないと感じさせた。
もういい。
それが誰であっても、関係ない。
終わらせよう。
荒れ果てた大地が突然うねりを上げ、巨大な口を開けた。大地が割れ、そこからこの世の物とは思えぬ悍ましき巨大な化け物が姿を現す。それは焦げたような土色の、刺々しい六本脚の怪物。数にして六体。地の底から這い出てきたそれは、次々と亡者達に襲いかかり、その足で捕え口器へと運び咀嚼していく。亡者達は逃げ惑うばかり。一人、また一人と喰われていく。
それは巨大な蝉、の幼虫だった。
喰らったプシュケーは、この世界を通じて私の中に流れ込んでくる。この世界での生命の剥奪は、文字通り死を意味する。もう彼らは戻らない。初めて啜った人間のプシュケーの味。
それは大脳を強く酔わせ、私の心を狂わせる。
あああ、あああああああああああぁ。美味、しい…………。
本物の血を吸ったら、一体どんな味がするのだろう?
「ふざ、けるなああああぁ、……また、が、またお前があああああ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁ」
古の吸血鬼は、怒りに身を狂わせ断末魔を上げる。しかし彼にはどうすることもできない。もう貴方の時代は終わった。この世界にお前はもう必要ない。
「おのれええええええ、ええええええええええぇ…………、ラミ、アァァァァァァァァァァァァァ、ァァァァァァァァァ」
試練の旅路は、うねりをあげて全てを呑みこんでいった。




