第十五話
体が熱い。体が熱い。血が沸騰しているようだ。
胸が苦しい。息がうまくできない。魂が燃えているようだ。噛まれた場所が本当に燃えているかのように熱い。見れば八重歯の形をした傷口が、見る見るうちに端から塞がっていくではないか。それはこの世の物とは思えなかった。それを現実として受け止めることは難しかった。
傷ついても傷ついてもそれがなかったことになるなんて。それは生命に対する大いなる侮辱ではないか。命を愚弄しているとしか思えない。傷つくと痛いから人間は自分を守るために戦うし、何かから逃げもするのだろう。何かを守ろうとするのだろう。そして傷つき続ければ、やがては死んでしまうのだから命というものは尊いのだろう。これでは何が正しくて何が間違っているのか、朱音にはわからなかった。
常識感も倫理感も何もかもが揺らいでいった。これでは命の価値は軽くなる一方だ。この感覚では何かを壊さないでいることが、誰かを殺さないでいることの方が困難そうだ。トロイアはこんな世界で生きてきたのか。こんな地獄のような世界で。自らに戒めを施して。
「朱音、体は動きますか」
「ええ、何とか……」
全身に力を入れる、問題なく動く。寧ろ動きが驚くほど軽い。少しの力を入れただけで、身体が前のめりになって戸惑うぐらいだった。瞼から出血していることに気付いたが、それにしても眼前の視界は良好だった。暗闇があまりにも明瞭に見渡せる。そして朱音の視界には今まで見えなかったものが映っていた。
「…………」
トロイアの体の丁度胸の部分に銀色の炎のようなものが灯っていた。それは段々と大きくなり、彼の体の隅々にまでに枝分かれし、広がっていく。それはとても綺麗だった。綺麗で、美しかった。永遠に、いつまでも燃えていそうで。
見渡せば、”先生”や須佐之男の胸にもそれは灯っていた。”先生”のそれは大きくて濁っていて、黒ずんだ灰色だった。須佐之男のそれは、鈍く煌めく金色だった。それはどうやら銀色に赤が混じってそう見えるようだ。自分の胸を見下ろすと、赤々と猛るそれはまさしく炎だった。
これはプシュケーに色がついて見えているのだろうか。
トロイアは、神妙な趣きで言った。
「このままでは、まだこの忌々しい十字架を打ち破れそうにありません。まだ私達には倒さねばならない存在がいる……今の貴方なら感じることができるのではないのですか? どちらにせよ、新たに吸血鬼となった貴方は、このままでは奴にプシュケーを食い潰されてしまう。集中して、感覚を研ぎ澄まして探るのです。プシュケーの流れていく方向に、奴が、血霧の祭壇が在る」
「…………」
集中する必要もなく、感覚を研ぎ澄ます必要もなくそれは感じられた。赤い炎は揺れている。まるで風に吹かれているように。炎の残滓が、ある方向になびき消えていく。その方向に奴は在る。
大切なあの人を亡き者にした、諸悪の根源。何としても滅ぼさなければならない。何としても打ち倒さなければならない。お母様の無念を晴らさなければならない。今の私ならできる。これだけ遠いと力が相殺されてしまうが、須佐之男の時のように直接力を行使すれば。
「ここで、待っていて。私が全て終わらせて来るから」
「神器にも、貴方の吸血鬼支配のプシュケーは通用するでしょう。しかし気を付けてください。如何に体を持たないとはいえ、生前は史上最悪と言われた吸血鬼だ。だが白の力と吸血鬼の異能、その二つを手に入れた今の貴方なら、決して不可能ではないはず」
「うん。大丈夫。必ず戻ってくる。そうしたら今度こそ、私も一緒に連れて行って」
彼は困ったように、しかし観念して頷いた。
「貴方にはどうやっても勝てないようです」
そう。まだ終わっていない。私が終わらせる。その為にはもう一度死線を越えなければならない。
炎の残滓の方向を確認し、ただひたすらに駆ける。一心に駆ける。地下牢を抜け出し、隠し通路を後にする。屋敷の中は静まり返り、昼間とは違う世界のようだ。朱音は自らのプシュケーの動態を、全神経をもってして把握する。今はそれがたった一つの指針。
しかし広範囲に効力を及ぼす神器、一体どこに拵えてあるのだろうか。そもそも朱音は血霧の祭壇がどのような形状をしているのか、何を媒体としているのかからして知らない。祭壇というくらいなのだから、何か一つの武具や物体ではなく、文字通り大がかりなものであるのだろうか? そんなものを隠せるような場所が、果たして屋敷の中にあっただろうか。
「小さなころに色んなところに忍び込んだものだけれど、心当たりはないな」
神器は、必ずしもある一つの武具や物体の形を模しているとは限りません。形のない概念として存在する神器もあるのです。しかし今回の場合はその依代を現実世界に置く、形ある神器でしょう。広範囲、常時発動という特性上、どこかに絶対的な核として”それ”は在るはずです。
トロイアは言った。今まで数多の神器を見てきた彼の言うことに間違いはないだろう。朱音は神器の置き場所について思考をまとめ始めた。プシュケーを脳神経に集め、通常有り得ないような速度で思考回路を回す。
神器。形ある武具。あるいは、ある一式としての何か。形があるということは、それは劣化し得る。そして脅かされ得るということだ。管理という問題を考えれば、それは最も身近に置いておくべきだ。
そして一体どれだけの人間がそれの場所を、正体を知っているのか。存在は知っているだろう。一族の人間は誰もが神器と契約しているだろうから――私や召使を除いた全ての人間が把握していたことだろう。
ならそのうちの誰かに、吸血鬼の人身掌握を使えば――駄目だ。まだそちらの”力”はうまく扱えない上に血霧の祭壇の影響下だ。そのせいで銀色のプシュケーが乱されてしまう。須佐之男はその場所を知らなかった。彼が半吸血鬼だから知らされていなかったのか。なら闇雲に一族の人間を捕え、強引に聞き出すか。もはや手段を選んでいる場合ではない。
「”先生”をみすみす死なせてしまったのが、良くなかった。あの男……地獄に落ちろ」
”先生”は既に口のきけない状態になっていた。舌を噛み、杭を胸に突き刺して死んでいた。吸血鬼に噛まれると思ったのかもしれない。神器の場所を知っていた可能性はある。しかし今や亡き者に気を取られている時間はない。生きているうちは前に進むしかない。
いや、もう私は”生きている”と言えるのだろうか。
伸びた八重歯。疲れを知らぬ身体。超感覚。どれも人間離れしたものだ。自分が少し前まで人間だったなんて、既に実感がなくなってきている。徐々に吸血鬼の体にプシュケーが馴染んでいき、完全に融合していく。そうなったら、自分が人間でいたころの感覚は完全に失われてしまうだろう。それが少し怖かった。そうなったら自分は一体どうなってしまうのだろうか。ただの人喰いの鬼に成り下がるのだろうか。
しかし自分は覚悟してこの世界にやってきたはずだ。今は前を見て、自分のすべきことを果たす。それだけしかないのだろう。胸中を脅かす一抹の不安に負けないように。
その時、突発的に放たれた殺気に、一瞬の隙が生じた。
「――なぁっっっ?」
完全に不意を突かれ、側方から迫りくる人影に虚をつかれた。その一瞬で何とか身を逸らし、右手でそれを払いのけた。その瞳に人影の姿が映りこむ。
「……あああぁぁぁ、ああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
それは召使の姿形をしていた。黒スーツに赤のタイ。朱音はその人間を知っていた。しかし、朱音の知る男の面影は全く残ってはいなかった。それはまるで、何かに取りつかれたかのような、到底人間と呼べるものではなかった。
「……これは――」
朱音に給仕をしていた召使。しかしその瞳孔は大きく見開かれ、獣のように口を開け放して呻き声を上げている。明らかに朱音に敵意を向けている。彼の胸には深緑の炎が灯っていた。深緑のプシュケーは彼の器を満たしている。それが彼自身のプシュケーではないことは明白だった。即ち――。
「誰かに、支配されてる……」
「あああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ」
男は両腕を前に突き出し、朱音を襲う。朱音はそれを難なくかわし、左手で右腕を支持し、右掌から脳髄に狙いをつけて自らのプシュケーを打ち込んだ。途端に男は一瞬天井を見上げ、頭を垂れて動かなくなった。
「誰がこれを……トロイアや私の他にも吸血鬼が? いや、これは――」
そういう事なのか。しかしそんな、ことが……。もしそうだとするなら、今までの事は――。朱音は、救いようのない一つの仮定に辿り付いた。しかしそれは信じ難く、認め難いものであった。だが今は進まなければならない。そこに何が待っていようとも。




