第十四話
プシュケーとは、人間と吸血鬼において共通に存在する、世界の理を捻じ曲げうる力の源である。吸血鬼が度々人外の如し異能を発現させる原理は、このプシュケーに尽きる。例えば一人の人間のプシュケーで満たされた心の器を、別のプシュケーで満たしてやればいとも簡単にそれは支配されてしまうだろう。彼らは人間の生血をすすり、プシュケーを得る。人間の血液は神聖なものである。しかし人間は大抵、この力を自ら使うことはできない。
ごく一握りの例外を除いて――
重力に従って私の体は男のもとへと落下していく。その男の目は、驚きに大きく見開かれていた。それも当然のことだろう。そこにいるはずのない人間が、有り得ない場所から落下してきたのだから。
男の目は見開かれたまま、次いで何かに意識を侵食されたかのように力を失くした。朱音は男の体の上になんとか着地。その巨体の身体をクッションとする形で落下の衝撃を殺した。男はまるで壊れた機械のように、その巨体の動きを止め、朱音の体を受け止めた。
「なんだっっ、どうしたっっ」
”先生”が出てきた。男は一体何が起きたのかと隠し通路の出入り口へとやってきた。その憎々しい顔が朱音の瞳に映し出される。男の表情は朱音を見つけると、訝しむように眉をひそめた。
「なぜ貴様がここにいる。……それはどういうことだ」
床に力なく崩れた大男を指して、問う。
「………………お母様。こんな奴に」
「何だと」
男の目つきが厳しいものとなり、視線だけで殺されそうになる。しかし、今の朱音はそんなものに負けることはない。何より、朱音は怒っていた。”犯す”という表現の意味を半分も理解していたわけではない。しかし自分の母が最低の侮辱を受けたであろうことは理解できた。
「お前は、お母様を辱しめたっっ」
「ちっ…………聞いていたか。……貴様、俺を誰だと――」
「もうお前なんか先生じゃないっっ!お前なんか、お前なんかに、教えてもらうことなんてないっっっ!よくも……よくもお母様を……」
男は冷徹な見下したような表情を変え、開き直ったように口元を緩め始めた。その顔に自分が悪いなどという感情は欠片も存在しない。こういう人間が世の中にはいるのだなと思った。
「少しは生意気な口が利けるじゃねえか。ただの鬼頭の人形ではなかったか。しかし俺のしたことは誰にも咎められることはない。この一族はなぁ、当主に最大の権力が与えられる。当主は一族の正当血統の男のみに任命される。女は決して男に逆らうことはできない。……分かるか?お前がここで聞いたことをどう訴えようと、それは誰にも受け入れられないということだ」
悪魔の如き愉悦を浮かべ、男は少女を諭す。
「お前には同情するぜ。こんな地獄の底みてぇな、糞溜めみてぇなところに生まれて、奴隷並の扱いを受けて死んでいくなんてよぉ。俺にはここの奴らがたまに吸血鬼に見えてくるぜ。なあに、人間なんてそんなもんだ。何が吸血鬼狩りだ。そんなもんはてめえの都合だ。気持ち悪い。何もかも気持ち悪い。胸糞悪ぃ。まあ俺には何も関係ない。俺が楽しめれば、それでいい」
男は朱音の下に近づいてくる。
「そいつがどういう理屈でそこにそうなっているのか知らねえが、そろそろお喋りは終わりだ。ついでに用事を済ませちまおう。まだ夜が明けるまで少し時間がある。それまでに大人の遊戯を教えてやろうじゃないか。最後の授業だ。極上の苦痛と快楽を味あわせてやろう」
男は朱音の下に近づいてくる。
人間の形をした悪魔が朱音の存在を犯そうとやってくる。朱音の尊厳を犯そうとやってくる。その目は血走り、瞬きを忘れて大きく見開かれていた。それはまるで何かに憑りつかれているかのように。
しかし恐れる必要はない。もう何も恐れるものはない。もう、籠の中で飼い殺されるただの鳥ではない。理不尽なこの世界を変えてやる。こんな世界なんかに、負けてたまるか。こんなところで何かよくわからない物の供え物になんてなってたまるか。
それは、そう。自分の手足を動かすように。
「立ち上がれ」
「…………どうした。気でも触れた、か――」
「人に非ず、鬼にも非ず者よ。今我の意思を聴け。今一度その力を我に預けよ。目の前の邪悪を討つために、内なる力を開放せよ」
言葉は、それ自体に意味があるのではない。イメージに形を与え、そして支配する対象への暗示を強めるためのもの。そして暗示が強ければ強いほど、対象者はその潜在能力を引き出すだろう。言葉は探すこともなく、自分の中からひとりでに湧いてきた。
大男は、その巨体をゆっくりと立ち上がらせる。半分でもその身に吸血鬼としての性質を宿しているなら、この”力”は効果を及ぼすはずだ。鬼頭白が言っていたのは、まさにこのこと。彼を操り、力とせよ。目的を果たすための力。彼を救うための力。この地獄から抜け出すための、力。
「須佐之男……。起きたか。一体なにをやって、――なぁっっっ!」
次の瞬間、膨大な質量の物体が勢いをつけて空を切るような音がし、次いで鈍い音が地下牢に響いた。須佐之男が、予備動作なしの正拳突きを放ち、男を吹き飛ばしたのだ。男は反対側の壁までなす術もなく吹き飛び、叩きつけられた。男は何が起こったのか、未だに理解できないでいるようだ。その顔を苦痛に歪め、暫く立ち上がることもできないでいた。
「がはぁっっ、ぐぁ…………何を、する…………」
男は、目の前に立ちはだかる光景に目を疑っていた。音からして骨がいくつか折れたようだ。呻き声をあげて大男を、朱音を見上げている。
半吸血鬼――須佐之男は一言も発することなく、そこに立ち尽くしていた。そこに彼の意思はなく、感情もない。私が死ねと命じれば、彼はその通りにするだろう。その確信が朱音にはあった。何者かを自らの意のままに支配することは、非常に奇妙な感覚であった。無機質な人形を影から糸で操っているように見えるが、あまりにもその人形が生々しく現実的なのだ。
「貴様……裏切りかっ。ふざ、けるなっ。こんなところで謀反を起こすことに、何の、意味がっ……。誰か、誰かいないのかぁっ」
男は突然に被った理不尽に命を乞う。しかし地下に存在するこの部屋の音は、地上に届くことはない。まだ、陽は昇らない。
「どいつも、こいつも……私を、愚弄しおって。はあぁ……あぁ…………こんな、ところで……」
「……痛い? 苦しい? それが、私が、いつも……ずっと」
朱音は、自分の中に恐ろしい何かが芽生えていくのを感じた。心の奥底に淀んでいた、濁った何かがそれを言わせる。
「ずっと、ずっと…………私が一人で、負わされていたもの…………ものだぁっっ! もっと、味あわせてあげる……。極上の苦痛を、味あわせてあげる――須佐之男、そいつを八つ裂きにして」
大男はもはや操り人形と化していた。朱音の意思のみを反映する人形。どうやらこの支配は、直接言葉で対象者に命令するのが適しているようだ。後は彼の中の私のプシュケーがそれを受け止め、それを媒介として彼の精神へと干渉する。行動を支配する。そういう原理のようだ。朱音はそう理解した。
大男はゆっくりとその身を駆動させ、石床に横たわる男に近づいていく。床を踏む足の音が、地下牢に響く。男はその顔を恐怖で歪め、汗を滝のように流している。立ち上がることもできずに命乞いを続ける。愚かにも続ける。朱音には、それがとても哀れに見えた。
「ひ、ひいぃっ……っやめろっ……。くるなあぁぁっっっ!」
こいつをどうしてやろうか。肉を引き裂くだけでは足りない。その魂までも、引き裂いてやる。そうだ。奴の最も嫌悪する存在に、吸血鬼によって犯してやる。お母様の尊厳を犯したのだ。そうされて当然だ。須佐之男に噛ませるのだ。その後に殺してやる。自己嫌悪の末に苦しみながら死んで行け。
苦しめ苦しめ苦しめ苦しめ苦しめ。
こんな奴、どうなったっていい……。地獄の苦しみを……。
お母様の、苦しみを…………。
肉を裂き、血を吸い尽くし、原型も残さず……この世全ての苦しみを、味あわせて…………。
「そこまでにするのです朱音」
その声は、暗黒に堕ちかけていた朱音の心を僅かに引き戻した。
「それ以上は、いけません。……それ以上は、私と同じになってしまう」
「トロ、イア…………」
十字架に磔にされ、身動きすら取れない姿の彼がその喉を精一杯に動かして声を発していた。その顔は長い髪に隠れて窺えない。しかしその声が、神器の支配を振り払うために、その力の全てを振り絞ってのものだということは分かった。
「ひいいぃ……うあああぁぁ…………」
男は頭を抱え、その場に蹲るばかり。
朱音の気が逸らされたからか、須佐之男の動きが止まった。
今なら手が届く。そこに、彼がいる。何も考えずに牢へと走り、扉を開けて彼のもとへと駆け寄った。自分の力ではびくともしないような、堅牢な十字架を手で触って確かめる。彼の体は厳重にそれに鎖で固定されていて、とてもではないが、朱音の力ではどうすることもできない。
「須佐之男っ、これを何とかして……」
「……無駄です。”これ”は、そういう風に、できていないのです。吸血鬼を一度捕えれば最後、それから逃れることは叶わない。もう私には、この神器を打ち破るだけの力は、残されていません。もう覚悟は、できています。貴方は今すぐここから――」
朱音はただの一時も迷わず、それを行動に移した。
「どういう、ことです」
「私の血を使って、ということ」
自らの首筋を、トロイアの口もとに差し出していた。首を僅かに動かせばそれが届くほどの距離に。それが何を意味するのか朱音は確かに認識していた。私がどうなったっていい。彼が地獄の底にいるのなら、私もそこに行く。
貴方と共に行くと決めたときから、とっくに覚悟は決まっていた。
「やめろ。……やめなさい。そんなこと、できるわけが」
「今の貴方に、私を止めることができるかしら。貴方に私の首を噛ませることは、私にとっては易しいことだわ。しかし貴方を無理やり従わせることはしたくない。お願いだから貴方の意思で"噛んで"」
「ふざけるな。そんなことは、絶対に駄目だ。……私が彼女に何を託されたのか、それを知って、そんなことを言うのか、貴方は」
「私はここを動かないわ。絶対に動かない。そのうち夜が明ければ、お父様がくるでしょう。そうしたら須佐之男を暴れさせるしかなくなる。そうなれば、どうなるかはわからなくなる」
彼以外に失うものは何もない。今は彼のみが朱音を突き動かす行動原理。それ以外の配慮は頭から抜け落ちていた。自分の行動に何の根拠も保障もないことはわかっていた。しかし今の朱音には迷いがなかった。彼を何とかして救い出すということにおいて、必ず救い出すということにおいて、一切の迷いがなかった。
もう壊れても止まらない。
「さあ、貴方がかつての力を取り戻せば、この忌々しい十字架の戒めなど、取るに足らないのでしょう? もう覚悟はとっくに決まっているわ。このどうしようもなく下らない世界を、この手で終わらせてやる。その為なら人間なんて、辞めてあげる。……こんな、こんな馬鹿馬鹿しい狂った一族はっっ、滅べばいいのよぉっっっ!」
「朱、音…………」
トロイアは悲しそうな表情で朱音を見つめていた。それは、どういった心理があってのことか。自分の前に首を差し出す一人の少女を哀れんでのことか。世界の歪みに囚われた少女を哀れんでのことか。
「ほら、首が疲れてきたわ。早く済ませて頂戴。一噛みでいいの。ほら、血が欲しいでしょう? 人の血液に飢えているでしょう? その顎を開いて、その八重歯で噛むのよ。噛んで、そして吸うの。自分の欲求に正直になりなさい。……吸血鬼でしょうっっ、その本能を忘れたのっっっ?」
途中から、朱音の言葉は懇願するようになった。子供が駄々をこねるように。実際まだ年端もいかぬ少女である。そんな彼女が、今人間をやめて異形の存在へと成り果てようとしている。自らそう願っている。
なんて救いのない話だろう。トロイアは思う。やはりこんな世界は間違っているのではないか。目の前の少女が、自分を噛んで欲しいと言う。今までそんなことを言う人間はいなかった。トロイアはいつでも、恐怖に恐れ慄く人間たちを喰らってきた。有無を言わさずその血を吸ってきた。それを、たった一人の少女に同じようにしろというのか。
それをしたら、私は前に――彼女と出会う前に戻ってしまう。
しかしこのまま手をこまねいていれば、確実に状況は良くない方向に進んで行くだろう。それだけは間違いない。
究極の選択だった。どちらを選択しても間違いのように思える。きっと正解などないのだろう。もう自分のことは諦めていた。トロイアはここで自らの生涯に幕を降ろすと決めていた。ならば、この目の前の少女だけでも何とかして救わねば。それが例え地獄を潜るような道だとしても、それでも彼女がいつかあの屈託のない笑顔を取り戻せると信じて。
そうするしか、ないのだろうか。
「トロイア……どうしても、できない?」
「朱音、貴方は……本当にいいのですか? こんなところで、そんな歳で、他にいくらでも道があるはずだ。私にはなくても、貴方にはあるのだ。貴方が私と同じ末路を辿る必要なんて……」
彼女は、頭を上げて顔をこちらに向けた。そして軽く微笑んだ。それはかつて何処かで目にした、決して忘れることのない顔。かつて恋した人のものに良く似ていた。それはトロイアのプシュケーを一瞬興奮させたが、そのときは朱音が力を行使したわけではなかった。
「自分の愛した人のために、その身を投げ出すのはそんなにおかしいこと?」
愛なんて言葉は、本かなにかで手に入れた知識だ。しかしこのどうしようもない抑え難い激しい感情のことを、そう言うのかも知れないと朱音は自分の中で定義した。
「……いや、それは、間違っていない」
トロイアは思った。それは正に自分のことではないか。目の前の少女と、自分の姿が重なった。彼女を否定することは、自分を否定することになる。過去の約束を守り続けることは、美しいことかも知れない。それを破れば、彼女が自分の中から本当にいなくなってしまうような気がして。
しかし、もっと大切なことが、重要なことがあるのではないか。目の前に。過去に囚われ、既にこの世にいない亡霊に取り憑かれ、そのまま死んで行くくらいなら、目の前の希望に望みをかけるか。今呼吸をして、生きている人間に。
かつての人間としての理性と、吸血鬼の本能がせめぎ合っていた。吸血行為は、対象の吸血鬼化を意味する。吸血鬼はそうやって本能のままに生殖行為を行う。人間の尊厳を犯す行為だ。それが人間と吸血鬼の、陰の闘争が終らぬ理由。どちらかがどちらかを滅ぼすまで、終らない。
しかしトロイアは昔の話を思い出していた。ある知った女性の吸血鬼が、その愛した人間の血を吸い、吸血鬼にならしめたのだ。その人間は自らそうなることを願ったという。その話を聞いたときには、その吸血鬼の考えもその人間の考えも全く理解できなかったが、今ならわかる気がする。
何かを守るために吸血鬼でいよう。誰かを愛す為に吸血鬼でいよう。このような出来損ないのよく分からぬ姿のままで終わるくらいなら、過去に囚われて何もか見失うくらいなら、ここで今すべきことは何だ。
「朱音。全身の力を抜くのです。そうすれば、さして痛くもない。すぐ済みます」
「……ええ」
彼女の首筋の筋肉が弛緩するのが見てとれた。その綺麗な項を眺め、久しぶりに長い間忘れていた吸血鬼としての欲求、吸血衝動を奮い起こそうとする。血を吸え。思い出せ。本能のままに人間の血液を貪り尽くしていた頃の感覚を取り戻せ。中途半端にしてはならぬ。彼女を長く苦しませてはならぬ。一瞬だ。
注意深く観察すると、彼女が僅かに震えているのがわかった。どんなに強がったところで、彼女は少女だ。自分が今から異形の存在に侵されることが恐ろしくないはずがない。
「恐ろしくはありません。最初は慣れないかもわかりませんが、その身体もやがて朱音に従順に従うことになる。目を閉じて、私に全てを委ねるのです」
その僅かな震えは徐々に収まっていった。次第に高ぶっていく感情。そろそろ抑えがきかなくなりそうだ。最後の力を振り絞り、首を動かして彼女の右肩に唇で触れる。途端にその先が熱を持ち、彼女が一瞬だけ震えた。その震えはすぐに止まる。場所を再確認し、上下の顎をできる限り開いた。
最初は余計な破壊を起こさぬように慎重に噛んだ。歯は皮を貫くと肉に達し、柔らかい脂肪と筋肉の中に無数に走る血管を捕える。口腔内に広がる新鮮な血液の味。久しぶりのそれに、トロイアは意識が飛びそうなほどに興奮した。本能の赴くままに、深々と歯を突き立てる。
「……くぅ、あぁっ」
彼女の苦しむ声。耳に入っては来るが、力を緩める気にはならない。彼女のプシュケーを感じる。それを吸い尽くす。暴れようとする彼女の体を顎の力だけで押さえつけ、更に噛む。吸う。背徳的な快感を全身で感じた。徐々に満たされていく器。長い年月の間、乾き続けていた砂漠の大地に雨が降る。それをただ欲した。
暫くの間それを続けた。朱音はただされるがままになっていた。プシュケーを吸い尽くされた人間は、精神の安定を求めて吸血鬼となる。プシュケーを身体が欲するようになる。やがて彼女もそうなるだろう。私達の世界に足を踏み入れるのだろう。そして。
トロイアの身体には変化が起きていた。髪の毛が徐々に変色していき、暗い灰色になっていく。八重歯が更に伸び、顔に生気が戻って行った。身体の隅々まで力が行きわたっていくのがわかる。満たされた器は、全身の神経細胞にプシュケーを供給する。すぐそばにいる朱音は勿論、そこにいる男やこの屋敷にいる全ての人間のプシュケーを感じることができた。その鋭敏な感覚は、どうやらまだ死んでいないようだ。
今ならその全ての人間を一瞬で支配することができるだろう。トロイアは全盛期のプシュケーの猛りをその身に感じていた。それと同時に、傍で蹲る朱音のプシュケーの動態の変化をも察知していた。
朱音の右肩には獣にでも噛まれたかのような傷が残っており、そこからは血液の河が流れていた。傷口を庇うように朱音は左手でそれを抑えていた。その瞳からは一筋の透明な液体が流れている。
「くあぁ、うぁ…………う、……」
朱音の様子が変わった。苦しそうに胸を押さえている。体が吸血鬼に変異する為に、心臓の筋肉細胞が活性化しているのだろう。トロイアは自分が吸血鬼になった時のことを思い出そうとしたが、それは叶わなかった。あまりにも昔のこと過ぎて、あまりにも色々なことがありすぎて、その記憶を探し当てることはできなかった。あまり思い出したくないことであるのは確かだろう。
朱音はその小さな全身を震わせ、襲いくる異変に耐えていた。全身の細胞が分裂と死滅を繰り返し、吸血鬼としての強靭な肉体が構築されていく。心臓が特殊化され、血管が再構築され、強い血流を生み出すことにより物理が強化される。吸血鬼の剛力はその強力なエンジンによって生み出される。
焼けるような苦しみに襲われているはずだ。それは吸血鬼としての最初の試練である。貧弱な人間の体を壊し、強靭な吸血鬼の体へと生まれ変わる。異形の存在へと生まれ変わる。そこでトロイアはある異変に気付いた。
「……これは」
力を取り戻せば、この忌々しい十字架を打ち破れると考えていたが、なかなか力が安定しないのだ。神器の支配を打ち破るだけのプシュケーを具現化しようとすると、途端に崩れていってしまう。これはどうしたことだろうか。そうだ私は最も重要なことを忘れていた。
「血霧の祭壇……」
もう一つの神器、例の祭壇の影響のせいで力が纏まらない。奴の禍々しい力を感じる。最初私は力を使って鬼頭白のプシュケーを再現し、この支配を逃れていた。あの神器は、定められた手順で契を交わし、プシュケーの一部を捧げることで契約する。そして契約者以外の吸血鬼のプシュケーを無差別に犯す代物だ。そしてこの家の人間は皆契約を終えている。
使い様によっては人間でさえも犯すことのできる神器だ。それ故の事だろう。しかし一度力が崩壊した為に、もう彼女のプシュケーは私の器の中に残ってはいない。そしていくらなんでも奴は気付いているだろう。この私が力を取り戻したことに。
「朱音、身体は動きますか」
彼女は暫く苦しみに耐えて蹲っていたが、何とかその試練に打ち勝ったようだ。ゆっくりとその顔を上げ、トロイアの姿をその瞳に映した。瞳は充血し、瞼からは血が流れている。
「ええ。何とか……」
彼女にやってもらうことができた。




