第十三話
そこは私の心の中の領域。
私の心の中にいつも在った場所。それに彼の心が混ざり絡み合い、成り立つ世界。
今ならわかる。これは夢でも幻でもない。自らの意識をそこから汲み取り、元の秩序ある形へと再構成していく。徐々に自分という意思を取り戻し、自分がどこにいるのかを把握する。遠くを見渡せない濃い闇の中に、微かに光る人影を見た。
それは懐かしくて懐かしくて懐かしくて、ずっと取り戻したいと思っていて、しかしそれは無理だと諦めていたもの。諦めていた人。
その人はずっと私の中にいた。しかしもう存在しないその人に、いつまでも甘えることはできないといつしか遠ざけていた。それでも、ずっと私のそばにいてくれた。夢に出てくるほどに。そんな人のことを、どうして忘れることなどできるだろうか?
人は死んだときに存在も何もかもなくなってしまうのだろうか。いやきっと違う。
「こうして対等の立場でお互いを認識し合えたのは初めてね」
その人は他の誰かの記憶の中に生き続けている。そう、例えば私の中。
「貴方も目覚めたようね。この春日の力に」
それはいつしか目にしたような、光景だった。それはそう、鏡を目の前にしたときか。その面影をどことなく、感じることができた。しかし髪の毛は足元に及ぶ程に長く、そして絹のように白かった。
「お母、様?」
彼女は軽く微笑んでそれに返す。
「そうね。私は貴方にとって唯一無二の母だわ。そして貴方は私にとって唯一無二の娘。――会いたかったわ朱音」
「お母様……お母様っ」
朱音は何も考えずに飛び込んだ。しかし、その温もりを肌で感じることはできなかった。
「お母様……?」
よく目を凝らすと、彼女の姿は靄がかかったようにはっきりしない。その体に触れようとしても、決して触れられない。どうして、どうして。
「いい? よく聞くのよ。貴方には時間があまりにも少ないわ。あなたにとって大切な人を助けるための」
「……トロイアっ」
そこで朱音は思い起こす。自分がトロイアの”力”によって支配され、この屋敷から隔離されようとしていたことに。ならばここは一体どこなのか。しかし朱音にはどうしてか理解できた。
「ここは彼の創り出した世界がベースとなっているけれど、彼の心を貴方が逆に支配したことによって、既に貴方の支配下に置かれた”試練の旅路”――既に彼の意思は存在しないわ」
どこまでも光差すことのない暗闇。この息の詰まるような空気。これら全てが私の世界。私の一番奥にある世界。いつでもそこにあった世界。これが私の力。
「この力の本質は、吸血鬼の精神干渉能力への抵抗性にあるの。私達一族は異種交雑を繰り返すことによって――聞こえは悪いかもしれないけれど――この力を手に入れたわ。さまざまな”神器”を使い、吸血鬼の力に耐えうる人間が選ばれ、一族の後継者となった。春日はそうやって吸血鬼狩として生き残っていった。これは貴方には隠したままにしておきたくなかった。これが確かな真実だから」
自分がその一族の末裔だという事実。
「けれどある日、それは起きてしまった」
神器の暴走。反乱。一族の崩壊。
「吸血鬼の力を侮って、油断していたのね。神器はただの武具ではないわ。その力は強大だけれど、使い方を誤れば自らの首を絞めることになる。私が生き残ったのは単なる偶然。しかしそれをあの人は、よくもそんな方法を思いつくものだわ。生贄――人間を道具としてしか見ていない、あの人ならではの方法ね」
「どうして、どうして、お母様……は……」
彼女は、その靄のかかった曖昧な体で朱音の口を遮った。
「それは、きっと貴方がもっと大人になったらわかるでしょう。……私のこの存在は、この世界に仮死状態で封印していたに過ぎないわ。彼の力が崩壊しかかっているこの状況では、こうして貴方と話していられるのもあと僅か。その前に貴方のすべきことを示しましょう――その力を使えば貴方はこの絶望的な状況を切り抜けられるわ」
「私のすべき、こと」
自らの手を強く握り、そして開いた。こんな自分にもできること。
「その力を使えば、とりあえず吸血鬼は貴方の敵ではない。力の使い方は血が教えてくれるはず。私の娘だものね。きっと大丈夫。吸血鬼の力が人間を支配する力なら、貴方のそれは吸血鬼を支配する力。彼が言っていたことを覚えている? もう貴方のすべきことが見えてきたはずね。あら、どうやらもうすぐ時間のようね。私の役目もここまでか」
彼女は、顔中の表情を緩ませて、大事なことをやり終えたように、くたびれたように笑った。
それは消えゆくものの顔ではなく、立派な母親の実に幸福そうな笑顔だった。
「愛していたわ、私の朱音」
「お母様――」
手を伸ばして、伸ばして、しかし決して届くことはなくて。それでも最後にずっと言えなかったことを伝えようと。
「ありが、とう」
色々な気持ちを集約した結果、それは感謝の一言となった。絹のような髪が似合う綺麗な女性は、微笑みながら消滅していった。彼の世界を構成していた構造とともに、無に還っていった。とても綺麗で、愛おしくて、誰より大切な人は消えてしまった。
涙はなかった。人は例え死んでも完全にいなくなったりはしない。誰かの心の中で生きている。ここに生きている。そうとわかった瞬間、見通すことの叶わなかった闇が晴れていき、深淵の世界に眩しい陽が差していった。そして朱音の中には今までになかった種類の感情、いや意思が芽生えていた。
すべきこと。使命。
この、私の”力”を使って。
意識が覚醒したのは屋敷のすぐ外だった。朱音は土に紛れて母なる大地に仰向けになっていた。どうやらもう自由にあの世界から帰ってこられるらしい。自らの意識を完全に支配しているとでもいうような、不思議な感覚。しかしそう表現するしかないのだ。自らの手足を動かすように、自らの意識を繰ることができる。
ゆっくりと体に力を入れる。少し痛むが、動く。体に異常はない。服や顔についた泥を払い、朱音は自分のすべきことを頭の中で繰り返す。
時間は深夜。まだ暫くは夜が明けることはないだろうが、正確な時間はわからない。目指す場所は一つ。果たすべきことは一つ。少しずつ意識を研ぎ澄まし、集中させていく。一歩一歩屋敷に向かうその動作の中で、朱音はこれから自分の取るべき行動のために自らの心を”力”へと昇華させていく。
それも誰かに教えられたわけではないはずなのに、体が、血が知っていた。それは自らの命を削って世界の心理を歪めていく感覚。不思議だ。何もかもが不可能ではない気がする。今なら世界を相手に戦争だってできるかもしれない。
身体能力さえも、通常の状態よりも底上げされているようだ。全身を巡る血液が沸騰するように熱い。筋肉を駆動する為のエネルギーを産生するミトコンドリアが、異常な速度で増殖していく。どれだけ全力で走っても疲れを感じない。
屋敷の窓を探し、両腕で体を庇いつつ躊躇せずに硝子を突き破って侵入。多少の血が腕から流れたが、気にならない。床に散らばった硝子を音を立てて踏みしめながら、思考を冷徹に収束させていく。無駄な思考が排除され、使命を果たすために必要な行動が選択されていく。全ては大切なあの人を地獄の運命から救うために。
生活音のしない全てが止まっているような世界を進んでいく。二階へと上がる階段の裏、寂れた物置への入り口の横に、その隠し扉はあった。普段は重厚な鉄扉で隠されているが、今は中に人がいるために開かれているのだろう。これならば足音を殺して忍び込めば、中の人間に気配を察知されることもない。全てが好都合。いや……人間、というのはこの場合正確な表現ではないかもしれないが。
朱音は、正に地獄の入り口ともいうべき扉へと息を殺して入っていく。息を殺し、足音を殺し、気配を殺し、感情を殺して進む。暗い暗い隠し通路を、地下牢へと続く道を歩んでいく。もう闇は恐れるものではなくなっていた。むしろ今は朱音の体に、心に優しく馴染んでいった。
全てを今、終わらせよう。
この何もかも狂った一族も世界も、終わらせる。
いまならそれができる。
暫く進んでいくと、暗く寂れた道が終わりを告げ、開けた空間に出る。そこには静寂が支配する冷たい空間が存在していて、それがこの世全ての絶望を象徴しているかのようだった。そこには小さな明かりが灯っていて、微かに人の気配がした。それはどうやら一人ではないようだった。
「まだ表は陽が出ないのかっ、こんな奴はさっさと始末すべきだ。当主様はあんなことを言っていたが、私はこいつが……吸血鬼が屋敷に存在していることが一瞬たりとも許せん。過敏になり過ぎているのではないか。こいつにもう抵抗するような力は残っていやしない」
「言うな。当主様は正しい。吸血鬼は現世への強い執着によって存在を保っている。それを断ち切られようとしたとき、常識では考えられぬ力を発現させることは往々にして在り得る。この私が言うのだから信じられよう」
「……ああ。貴方のことは私は評価しているからな。半吸血鬼――貴方のような存在はこの一族には必要だろうからな。私はそのくらいの理解はあるつもりだ」
自分の背丈の二倍はあろうかという大男と、それに比べれば一回り小さな男が明かりのそばで話していた。この場所からは二人に存在を悟られる心配はなさそうだ。しかし須佐之男だけがいると考えていたので、朱音は心の中で舌打ちした。しかし当主がいないのなら誰がいたところでさほどの障害になるとは思えない。まあいいだろう。
牢の中には、十字架を模した束縛せし十字架に捕えられたトロイアの姿。意識がないのか、その表情は窺えない。必ずそこから救い出して見せる。その為には……。
もう一人の顔が明かりで照らされ、露わになったとき、心臓が鈍い鼓動を刻んだ。それは朱音の心を傷つけ、体を傷つけ、苦しめられた記憶を蘇らせたからであった。胸を服の上から抑え、発作的な衝動を何とか抑える。
「しかしあの娘、もう暫くすれば祭壇に祀られることになるのか。何にしても哀れなものだな。神器などという吸血鬼の成れの果ての供え物になるとは」
「……どうしたのだ。お前という奴が、長い付き合いの教え子に情でも湧いたのか」
その時、男の顔に人を嫌悪させるような表情が貼り付けられた。
「…………私の”娯楽”の対象がいなくなってしまうと思ってな。まあ精々それまで楽しませてもらうとしよう。裏を返せば、もう何も我慢することはなくなる、ということだ……」
その言葉には流石に大男も嫌悪を抱いたのか。
「……褒められたものではないな。あまりその悪い趣味のことを人前で話すな。吐き気がする」
「……悪い、悪い」
朱音はそのとき、必死で吐き気を堪えていた。胃袋が暴れ、胃酸が喉を焼く。あまりの苦しみに涙がこぼれた。苦しい。痛い。気持ち悪い。
”先生”は鬼頭朱音の学業指導を任されていた。その指導にはある程度の”痛み”が伴った。それは彼の判断に任された。”先生”は朱音が少しでも誤ったなら、それを口実に朱音の体に苦痛を与えた。
最初はどうしてこんなことをするのか、と涙を流しながら聞いた。”先生”は、お前が馬鹿だからだと言った。私が悪いから。私が悪いから。私が悪いから。私が悪いから。私が馬鹿だから。
叩かれた。分厚い辞書で叩かれた。
蹴られた。固い革靴で蹴られた。
刻まれた。背中に恥辱の文字を刃物で刻まれた。
震える体を精神力で押さえつけ、なんとか朱音は平静を保っていた。音を出さずに、ゆっくりと息を吸い、吐いた。恐怖、悲しみ――それらは今不必要なものだ。朱音はそれらを今必要とすべき形へと変換させていく。恐怖は怒りの感情へ。”力”へと再構築していく。感情の糸の束に手を伸ばし、それらを解き、つなぎ合わせていくように。
今、憎いあの男にぶつければいい。それでいい。それだけだ。
「……次はあの長男の子にでも望みをかけておくか。なんせこの一族は女は人として扱われん。一族繁栄のための道具として、使い捨てられる運命にあるからな。それを私の娯楽に多少使ったとしても罰は当たらんだろう。……ああ、あの当主の連れてきた白髪の女の身体は素晴らしかった。供物になる前夜に散々に犯してやったわ…………」
「この外道が……、…………誰だ」
静寂を破ったのは、地下牢に響く乾いた音だった。カランコロンという、何かが転がるような音だった。それを察知して二人は立ち上がった。
「…………私が見てくる」
”先生”は無言で目配せし、了解の意思を示した。大男はその巨体をゆっくりと動かし、音のした入り口付近まで近づいていく。
そこには獣一匹すらいなかった。地下牢の冷たい石床には、黒い手のひらほどの何かが落ちているだけだった。
「……櫛、か?」
息を殺し、その時を待ち続けた。大男がその真下へとやってくるのを。
「それはお母様の唯一、私に残してくれた物。いいえ、私に残してくれた沢山の宝の中の一つ。触らないで」
「……なっっ」
小さなときに忍び込んで、仕置きを受けたことがある。地下牢の入り口の上の部分には、小さな少女くらいならば身を隠せる”隙間”が存在していた。そこに隠れていたのを、兄に見つかって叱られたのだ。
重力に身を任せ、大男の頭上目がけて飛び込む。これならば、狙いを外すこともない。
「貴方に恨みはないけれど、その身体、支配させてもらうわね」
あふれんばかりの心を、彼の脳髄へと目掛けて流し込んだ。




