第十二話
この力を最後に誰かを救う為に使えて、悔いはない。私はこの血塗られた異能を使って、数多の罪を犯してきた。もはや地獄行きは免れないだろう。
私はこの力を使って白に様々な夢を見せた。彼女がついぞ見ることのできなかった景色、風景を彼女の大脳皮質に再現した。そうした時に彼女は言ってくれたのだ。この力を、"素晴らしい力"と。
この力をそんな風に言う人間は初めてだった。私はその時悪行の限りを尽くし、それのみを心の拠り所としていた。ある日偶然にも行き逢った彼女を、他の人間と同じように支配し、喰らおうとしていた。
「今、良い夢を見ていたの」
彼女だけはどうしても支配する事ができなかった。その瞳に捉えられ、逆に私は彼女の底知れぬ雰囲気に圧倒された。人間など単なる食糧としてしか見ていなかった私の価値観、認識はその時大きく揺るがされた。
「その続きを見せてくれないかしら」
誰かを欺き、騙し、支配することしか知らなかった私は、初めてそれが出来ない人間と出逢ってしまった。しかしいくら力が効かないといっても、私は"吸血鬼"である。人間の少女など物理的に押さえ込んでしまえばいいだろう。そしてその艶めかしい項に牙を突き立てて、その血を吸い尽くしてしまえばいい。しかしそうすることはできなかった。
気が付けば、私は彼女の虜になっていた。精神も心までも彼女に支配され、初めて味わう敗北の屈辱。そして恐怖。死を覚悟した。
しかし私に与えられたのは苦痛でも殺戮でもなかった。彼女は私に言った。
「その力、誰かに良い夢を見せるのにでも使えれば、とても素晴らしいと思うのに」
生かされた私は、彼女と度々会う様になった。彼女の権限において血霧の祭壇の支配下を逃れた。私は彼女と約束を交わした。
もう人の血を吸わぬこと。
二度と悪意を持って力を使わぬこと。
それを条件に私は見逃された。しかしそれらの制限によって私の吸血鬼としての力は減衰していった。野山の獣を捕え、自身の存在が消えてしまわぬように最低限の血液を糧とし続けた。しかし私達はあくまで、人間の血液でしか本来の力を保つことができない。本能が人間の血液を求めてしまう。
しかし私は人間、ひいては吸血鬼の精神掌握に長けていた。自身の力によって吸血鬼の吸血衝動を無理やり抑え込み、それすらも支配することでそれを成し遂げた。全ては彼女のため。彼女の約束のため。それまでトロイアという吸血鬼の器を満たしていた行動原理は、彼女への忠誠心へと置き換えられた。
誰かに求められ、誰かと交わることで得られるものもあるのだということを私は彼女から教えられた。――いや、彼女からは数えられないほどのことを教わった。それはそのうちの一つでしかない。それらは全て、彼女にまつわる思い出の一部となってしまったが。
彼女に非情にも白羽の矢が立った時、私は彼女をこの呪われた一族から引き離そうと思った。彼女はこんな所で死んでいい器ではない。そんなことは間違っていると思ったからだ。彼女がそれを望めば、私は全ての力を取り戻し、鬼頭を滅ぼすことも厭わなかっただろう。
「吸血鬼の癖に変なことを言うのね。私が死ねば貴方は自由になれるのよ?」
彼女は、既に産み落としていた二つの命のことを考えていた。自分のことはどうなってもいいのだと言っていた。しかし、あの二人の未来に影がかかるようなことはあってはならない。彼女はとても聡明だった。彼女の選択が間違っていたことは殆どなかった。そしてその彼女が選んだ道が、運命を受け入れるという結果だった。
私は彼女がそれを選んだというのならと、苦汁を飲んでそれに従った。そして彼女がいなくなったとき、再び脅威が彼らを脅かそうとしたとき、再びこの地に戻ると約束した。そして彼女がいなくなろうと、自分はそれを含めた三つの約束を守り続けると誓った。
それから私は、己と再び向き合う旅へと出かけた。今まで辿ってきた道を引き返し、色々な景色を網膜に焼き付けなおした。色々な人々と会い、今まで躊躇せずに蹂躙してきた”人間”という存在について一から定義しなおした。
彼らは様々な顔をしていた。そして様々な表情を持っていて、その一つ一つが違っていた。その一つ一つが彼らの人生を形造り、お互いに絡みつき、支えあって調和を生み出していた。今までそんなことを考えたことはなかった。そういう物の見方ができたのは、一度己という器を完膚なきまでに壊され、失ったからであろう。
そんな彼らの人生が、私のような存在に理由なく奪われる筋合いなどないだろう。私は生涯における吸血を自らに禁じた。ただ自ら太陽の下に身を投げ出すようなことはしなかった。彼女には生き続けろと言われた。何より私は彼女との約束を守るために生き続けた。この世に存在し続けた。
私は己に許された僅かな力を使い、彼女を私の下へと誘い込んだ。そして出会った少女は、白の面影を少し残した可憐な少女だった。”試練の旅路”を行使したとき、彼女の強い抵抗力を感じて私は確信を得ることができた。
兄の方は既に一人の男として成熟していた。もし会えたなら本人の意思を確かめようと思っていたが、ついぞ会うことはなかった。朱音の記憶によれば、兄は鬼頭に染まり始めているようだ。彼がそれを望んだなら、拒むことはすまい。しかし、白に似た、あの少女。外に出ることを強く望んでいた彼女の望みだけは叶えようと考えた。
しかし、私とともに行くことは彼女の為にはならないと思った。私の罪は永遠に許されることはない。そして吸血鬼など知らずに生きていった方がいい。しかし結局はその驕りが、このような状況を招いてしまったことは非常に悔やまれる。
彼女に自身の正体を隠していたことも、彼女に対する引け目だった。私には彼女と居場所を共にする資格などないのに。朱音が白と同じように、吸血鬼である私を許容するとは限らなかった。そんな矛盾を抱えながら彼女と少しの時間を過ごした。それは彼女との時間が、とても懐かしく心地よいものだったからだ。そしてそんな彼女を突き放してしまったのが、私の最後にして最大の後悔だった。
しかし許してほしい。これで約束は果たすことができる。貴方のいるところに行くことはできないかもしれないが、これで私は本望だ。最後に人間らしいことができて私は本望だ。彼女はどこからか見ていてくれただろうか。
様々な想いを反芻しながら、”試練の旅路”を最後の姿へと変える。最後に彼女の……白の姿を目に焼き付けておこうと思った。私の心の中にいつでも彼女はいた。彼女が名付けたこの力に、役目を終えたこの力に――この世界とともに別れを告げるために。
――The journey of a trial
柔らかな面影の少女の姿。それは確かにそこに在った。その白い絹の様な髪も、嫋やかな肢体も、引き込まれる様な瞳を紛れもなく彼女のものだった。
その時悟った。己の人生は、確かにこの時の為にあったのだ。罪を重ねるだけの生涯だったが、最後にトロイア・イーリアスは自身の生涯に意味を見出した。
"ありがとう"
ああ、やっと貴方にそういってもらえた。
そのためだけに、私は――
その時、全てが一部の狂いもなく支配されているはずのこの世界に揺らぎが生じた。己が干渉している限り、徹頭徹尾そんな事態は有り得ない。筈だった。
懐かしい力の波動を感じた。それはいつか己の器を満たしていたものだった。それは絶対に破られぬ筈の、私の世界の基礎構造を内側から還元し、解き、無としていった。
私には誰がそれをしているのかすぐに分かった。分かってしまった。それが何を意味するのかも、瞬時に理解した。
愚かな……。
既に崩壊しつつある力。余力のないトロイアにはそれを止める手だては残されていなかった。
それとも、やはり貴方の子だからなのでしょうか。
世界が崩壊する寸前、彼女が微笑んだ気がした。まるで自慢の娘を見るように。
いいでしょう。全て見届けることにしましょう。この世界も、彼女も、この一族も。
その先が例え絶望しかなくても、どうせないも同然の命だ。最後に彼女に賭けるのも悪くない。
どうせ何もかも、貴方の掌の上なのでしょう?
"試練の旅路"は役目を終えて、いつ覚めるとも知れない眠りについた。




