第十一話
私は一体どうすればいいのでしょうか。この世で最も罪なことをしてしまいました。決して許されることのない所業です。
生まれて初めて大切と思えた人を裏切りました。何の言い訳もできません。私こそが罪人です。
彼の命と自分の命運を秤にかけました。僅かに傾いた自分の方を取ったのです。自分の命が惜しかったのです。こんな私に彼のことを想う資格はないのでしょう。
私はどうすればいいのでしょうか。私はどうすればいいのでしょうか。この私の中の激しく汚らしく狂おしい感情を、どう解釈したらよいのかわからないのです。わからなくて苦しいのです。
今までに感じたことのないものです。それは心地よい夢を見せることがあれば、心の手が届かない部分を激しく焦がしたりします。そしてそれは起きているとき、寝ているとき、息をしているとき、常に心に重くもたれかかっているのです。
もう彼と出会う前の私に戻ることはできません。そうなれたらどんなにいいか。このどうしようもない、どうすることもできない鬱屈とした何か。苦しくて苦しくて苦しくて。息が苦しくなって、胸が焼かれるように痛んで。決して解放されることのない生き地獄。
生きていることが苦痛なら、私は死んだ方がいいのでしょうか。
こうしている間にも、刻一刻と終わりへの時間は刻まれている。太陽の光が世界を照らし出すとき、それは吸血鬼の力が最も抑えられる時間である。その時を待って処刑は執行される。時計の秒針の刻む音に、胸の鼓動が刻む音が同調してゆく。自分のなかの形ある何かが少しづつ壊れていく感覚。
気がおかしくなりそうだった。いや、もうそうなっているのかもしれない。ベッドの上に転がり込んだ後、どれだけたったのかわからない。頭が異常に疲弊しているので、悪い夢でも見ていたのかもしれないが、全く思い出せない。全身に嫌な汗がまとわりつき、非常に不快だった。
ふと蘇る光景。暗く冷たい空間。光の差さないそこに、磔にされた男の無残な姿。
「ああああああああああぁぁぁぁぁぁぁっっっ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっ」
一度だけとはいえ、心を許した人間を裏切り、何も感じない人間がいたとしたらそれは人ではない。ただの悪魔だ。しかし人の心の中には、しばしば別の悪魔が住みつき私達を悩ませる。
やめろやめろやめろ。私に何ができたというのだ。あの場で私に何ができたというのだ。私が真実を口にしたところで、彼が救われるわけではないのだ。彼は吸血鬼だ。それ自体が当主たちにとっては罪なのだ。――それはしかしただの言い訳でしかない。自分を守るために造った壁でしかない。
心の中の悪魔が言う。お前は悪くない。悪いのはこのような仕組になっている世界、この一族の悪習だ。お前は何も悪くない。
だからお前はそのままそこでじっとして朝までじっとして死ぬまでじっとしていればいいんだ。それだけでお前は救われる。冷たい牢は嫌だろう? 鉄の杭で打たれるのは嫌だろう? ならばそうすることだ。
お前は何一つ悪くない。
私は悪くない。何一つ悪くない。
人間はそうやって正当化する。自分が壊れてしまわないように自らの過ちをそうやって合理化して歪曲させて正しく収めようとする。しかし。
私は…………悪く、な…………。
悪く、……な。
悪…………。
違う…………。
年端のいかない少女にとって、それを是とすることがそれほど困難であったか。想像することは難しくても予想はつくだろう。土台そんなことは無理なのである。彼女の場合においても。彼女は人形になどなれてはいなかったのだ。
どんなに冷酷に、感情を消し去り、人形になったつもりでも、それはつもりでしかない。しかし少し前の朱音ならば違ったかもしれないだろう。彼と出会う前の彼女だったなら、違ったかもしれない。
悪魔は焦る。再び彼女を煽り、焚き付けようとする。彼女がそれを認めれば、彼は居場所を失ってしまうからだ。「いいのか? それで、いいのか? それを認めてしまったら、もう二度とお前は苦しみから解放されることはない。後悔の鎖で永久に縛られ、永遠の孤独のままに死んでいく。それでもいいのか」
私は、罪を犯した。私はそのことを忘れてはならない。
そこで朱音に意思が回帰したのは、記憶に新しい彼のくたびれた笑顔のせいだった。それは心の奥の奥に大切にしまってあり、そこは何者にも犯されることはなかった。
「貴様ぁぁ…………。お、おのれええぇぇぇ。今まで、いままでどれだけ私に救われていたと、……思って…………」
消えろ。私の中から。永遠に、消え去れ。
それは影となって霧消した。もう誰も朱音に悪魔の囁きをするものはいなかった。
その時、暗い部屋の小さな明かりが急激に膨張していき、部屋中を光が包みこんだ。そして部屋の構造自体が、まるで一から創り変えられていくかのように姿を変えていき、朱音はいつの間にか全く違う場所に立ち尽くしていた。朱音が身を預けていたベッドも跡形もなく消えていた。
そこはやはり、懐かしい感覚で満ちた世界。
「朱音。やっと思い出してくれましたね。もう間に合わないかと思いました」
非常に不思議なことに、耳の鼓膜を、つい最近のはずなのに懐かしく感じる声が震わせた。それは心地よく、聴覚神経を伝って言語中枢まで到達し、朱音にそれを認識させた。錯覚でもかまわない。それをずっと待っていた。
「あなたの心の最奥に封じ込めていた私の意識の一部分と、あそこで磔られている私の本体の意識を今つないでいます。この時間帯を待ってようやく出てこられました。あの神器のせいで長くはいられませんが…………あや、ね……?」
気付けば、体は彼のもとへ飛び込んでいた。
「トロイアぁっ…………」
「トロイアぁっ……トロイアっトロイアっトロイアっトロイアっトロイア……」
もっと他に言いたいことが、言ってやりたいことが山のようにあるはずなのに、口から出てくるのは彼の名前。その名の主に会いたかった。ただただ会いたかった。どんな理由があったかなんて、何を思い悩み苦しんでいたかなんて、もう思い出せない。
もうどうでもいい。
彼がそこにいてさえくれれば。それが幻想だろうとまやかしだろうと。吸血鬼だろうと悪魔だろうと。
「ずっと黙っていて申し訳ありませんでした。私が吸血鬼だということを。……驚きましたか?」
「それは……驚くよ。だってあなた髪も黒いし外見も人間そのものだし。私が吸血鬼見るの始めてってのもあるけど、そういえば血吸ってないの?」
血液は吸血鬼にとってエネルギーの源。
「……人間の血は、もう十数年は口にしていないですね。その間は獣の血で餓えをしのいでいました」
「獣って、あなたそんなにやつれて、…………十数年、も?」
吸血鬼は人間の血を求める。それは歴史が証明してきたことである。吸血鬼が格とした一つの生物種だとでもいうのなら、それは生存本能である。恐ろしい遺伝子である。
その欲求を跳ね除ける吸血鬼なんて聞いたことがない。いや、私がまだ世界を知らな過ぎるだけなのか。
「ここは、どこなの?」
「これは私の精神領域と朱音のそれが混じり合い、構築された精神世界。私はこの世界を構築し、干渉する力とともにこれを”試練の旅路”と呼んでいます」
今朱音達が向き合って身を寄せ合っているのは、二人が初めて出逢ったあの洞窟の中だった。あそこは最初から、現実の世界ではなかったということ。
「吸血鬼が人間の精神に干渉するのはご存知ですね。我々の中にはそれに非常に長けたものもいまして、私のような稀なものは特異な力を発現することがあるのです。私は対象となる人間の精神に干渉するのみならず、”試練の旅路”を構築、その中に引きずり込むことができる……。ここは私の意思が基本骨子を成す世界――私の指先が物理法則をも支配するのです」
彼が指をパチンと鳴らす。それを合図とするかのように周囲の光景が変化し始める。周りのゴツゴツした岩肌が溶けるように消えていき、空間の渦に呑まれるように消滅し、いつの間にか二人は黒煙の上がる中にいた。足元を見れば、地上が遥か下方に見える。壊された建物から火の手が上がり、無残に荒らされた大地が痛々しい。炎は強風に煽られ、竜のように高々と吠えている。
「最初に朱音が訪れたとき、貴方に”試練の旅路”を行使したことをお許しください。私は、あなたが確かにあなたであるという確証を得なければなりませんでした。朱音の心に触れたとき、貴方を苦しめてしまったはずです。しかし貴方はこの力に抗ってみせました。やはり朱音はあの人の娘なのですね」
「あの人……、お母様……?」
「貴方のお母様には命を救われました。修羅の道、決して許されることのない数多の所業を犯した私を受け入れ、その言葉で凍り付いた心を溶かしてくださったのです。――私はこの力を使って多くのことをしてきました。多くの人間を騙し、欺き、支配し操り人形に変えて仲たがいを起こさせ、殺し合いさせ、多くの絶望を見せてきました。そんな私に、貴方を連れていく資格があると思いますか? その時、私はそれらのことを罪だとは全く考えていませんでした。なんと愚かなことでしょう。他人を操り自らの思うが儘にしても、何も満たされはしないというのに」
彼はとても寂しそうな顔をしていた。昔のことを思い出していたのかもしれない。私なんかに、何も言えることはないのだろう。彼の中には、今も彼女がいるのだ。
「そんなときに貴方のお母様に出逢ったのです。彼女は私の犯してきた罪を糾弾することもせずに、私の冷酷に凍りついた心をその体温で溶かし、私のすべき償いを示してくださいました。あの人は、私が吸血鬼かどうかなど気にしませんでした。吸血鬼を忌み嫌う吸血鬼狩の一族である彼女が……あなたもそうです。そのことにどれだけ私が救われたか。それはわかってほしい」
「わたしは……吸血鬼についてまだなにも知らなくて、けれど――吸血鬼にあなたのような人がいるなら私は、考えを改めようと、思う」
トロイアはくたびれたような笑顔を見せた。パチンと音が響き、周囲を卵の殻が包み込むように岩壁が覆って、再び元の洞窟に二人はいた。彼は緩めた表情を正し、瞳を閉じてほんの少し息を溜めて吐いた。
「貴方の母親――鬼頭白について話さなければなりません。貴方の記憶では彼女は流行病で亡くなったことになっていますが、それは違うのです。鬼頭一族の人間が貴方に偽りを伝えたのです。……平静を保つのは無理かもしれない、けれど貴方はそれを知らなければならない。白は血霧の祭壇の生贄にされたのです」
「いけ、にえ……?」
彼が何を言っているのかを理解するのに数秒を要した。
「まず”神器”とは何なのか、これは吸血鬼の遺骸から錬成される特異な力を秘めた武具です。あの十字架もその一つ。かつて生前の吸血鬼の名で呼ばれるのが通例です。神器はそれが故に極めて強力な異能を備えている――人類が吸血鬼に対抗しようとした結果の象徴。我々にとっては忌々しいものです……。しかしベースとなるものがものだけに、その扱いには注意を払わなければなりません。ティシフォネ・エントロピアは欧米にその悪名を轟かせた、人身を掌握し支配することに長けた強大な吸血鬼でした。かつての吸血鬼同士のいさかいにより命を落としましたが、その遺骸を持ち帰った錬成士が神器に起こしたのです。もっともその錬成士は、神器に逆に支配されて命を落としていますが」
彼が何を言いたいのか、それが少しわかった気がして怖気が走った。
「それは現代に至り、日本の山中のある村に置かれていたそうです。吸血鬼狩の一族がいたのでしょう。しかし災厄はまた繰り返され、村の人間は殆どが死にました。その生き残りの一人が彼女、旧性春日白なのです。彼女は吸血鬼狩の血を引いています。それ故に私の”試練の旅路”を跳ね除け、逆に私の精神を掌握さえしました。鬼頭はそれに目をつけ、神器と彼女を手に入れました。そして二度と災厄を繰り返さないための方法が”生贄”だったのです。そして彼女の血を引き入れ、優秀な子孫をのこすことが鬼頭総司の目的でした。血霧の祭壇は極めて強大な力を持ち、うまく使うことができれば土地規模で効力を発揮するタイプの神器です。そうして鬼頭は今や吸血鬼狩の界隈で強い権力を握ることに成功したのです」
「その生贄に、そんなことのために……お母様、は」
絶望的な真実に、朱音は目を逸らしたくなった。吸血鬼にまつわるの忌々しい因縁に巻き込まれて、母は命を落とした。そして父がそれを企んだ当事者。途端に心の奥から込み上げてくる禍々しい感情。今まで生きてきて、誰かをここまで憎いと思ったことはない。どうして自らの妻にあたる女性を、そんなことのために利用しその命さえ……。
鬼頭総司。もはや血を分けた親族とは思えなかった。
「彼女は災厄を目の当たりにしていました。神器の力、その代償としての恐ろしさも理解していたはずです。そんな彼女が運命から逃げ出すことをせず、鬼頭の命に従ったのは……二人の尊い命を守るためだった。それも知っていてほしいのです」
「………………わた、し……と兄」
”ごめんね、朱音…………”
その時朱音は、自分の母親の最大の愛を初めて悟った。母は自分たちを守るために、自分の身を挺してその命まで差し出した。そんなことがどうしてできるのだろう。それが母親というものなのだろうか。それなのに、私はいつまでたっても母のことを……。
「状況はこれでだいたいお話しました。これが鬼頭家の闇です。あなたはこれから、自らの意思で行動しなければなりません。私は彼女に、貴方のことを頼まれているのです。自分が今回の生贄となっても、十数年後にはまた血霧の祭壇には生贄が必要になる。そうなれば次に選ばれるのは誰か、彼女は考えたに違いありません」
トロイアは私をまっすぐ見下ろして言った。
「わたし……」
絶望が確かな形を伴って、足元から這い寄ってくるのが分かった。
「もうあなたは生贄になるのに足りる年になる。それまで待っているのでしょう。吸血鬼狩としての正当血統を確保し、娘は生贄に。その次はあなたの兄の子かもしれない。私が来たのは本当なら貴方の決断の手助けをすることだったのですが、こんなことになってしまったのは失敗でした。血霧の祭壇の近くでは力が制限されて、あの大男に察知されて捕まってしまいました。奴は普通の人間ではありません。恐らくは半吸血鬼でしょう」
「私は……どうしたら」
こんな私に、一体なにができるのだろう。
「こうなっては仕方ありません。私の処刑が執行される時が好機です。当主とともに殆どの人間がこちらへ集まるはずです。日の出とともにこの屋敷を出るのです。まだほんの少しでも自由が許されているうちに、この一族から抜けるべきです」
「そ、そんなこと……あなたを見捨てていけと……」
「……選択している猶予があるとお考えですか」
トロイアは一転して厳しい表情となった。それは何かを守るために大きな犠牲を払う覚悟を決めたもの表情だった。しかし。
「私は、また一人になってしまうのぉっ……やっと会えたのに、これからまた一人で生きろというのっ。もう独りはいやあぁっ」
また独りになってしまう。もう孤独はいやだ。このまま孤独と罪悪感を背負って生きていくなんて耐えられない。耐えられるわけがない。苦しい。もう二度と会えないなんて。そんな……。
「…………」
彼の瞳がその長髪で隠れた。彼も苦しいのだろう。しかし今の朱音には、そんなことを考える余裕はなかった。
「仕方がありませんか……これだけは、したくなったのですが」
彼が手を挙げると、急激な眩暈が襲った。意識が遠のいていくのがわかった。脳細胞を構成するニューロンが、別の意思によって支配されてゆく。
「やめ……トロ――」
その名を呼ぶ前に、脳が喉に指令を送ることもできなくなった。彼は固く口を引き結び、何かに耐えているようだった。そんな顔をしないで。独りで抱え込むなんて。
わた、しも…………――
朱音は無意識の海に溺れていった。




