第十話
須佐之男と呼ばれた大男は、銀色の巨大な十字架を牢の中に拵えてある台座に差し込み、厳重に鎖で封じた。途端に牢の中を充満している闇が濃くなっていくかのようだ。
「……ぐ、あぁぁ……。うぅぅがああぁぁっ…………」
トロイアはまるで、見えない悪魔の手に握り潰されているかのように悲鳴を洩らした。体中に汗をたぎらせ、口元は苦痛に引き結ばれている。
これが鬼頭の力――この銀色の巨大な十字架の力である。これに磔られた吸血鬼は自身では逃れることができず、異能も封じられる。そして魂を焦がすような苦痛に襲われてしまう。
「…………………………そん、な」
彼が吸血鬼。
そんな、何かの間違いではないのか。そんなことがあるわけがない。そんな都合の良い……、いや悪いことが起こる訳がない。そもそも最初に出会ったときだって、普通の人間に見えたのだ。確かに不思議な雰囲気を纏っていたことは記憶しているが、まさかそれが吸血鬼に由来するものだなんて。
彼は普通の人間にみえたのだ。
「此奴は既に吸血鬼としての力を殆ど失っている。当分の間、人間の血液を摂取していないようだな。今までどのようにして生き永らえていたのか、それは分からないが……おい」
当主が合図をすると、黒服を纏った別の男が鉄の杭とハンマーを持って牢へと入っていき、躊躇なくトロイアの右手首に打ち付けた。
「ぐああああぁぁぁぁぁぁぁぁ、ぁぁぁぁぁぁぁっっっ、ああががぁぁぁっ……」
本来吸血鬼は自身を構成する身体において、強力な再生能力を備えている。それ故に、大抵の破壊は物ともしない。しかしそれは通常の状態においての話しであり、その力を封じられている場合はその限りではない。
恐らく常人の比ではない苦痛に襲われているはずである。それこそ太陽に身を焼かれる程の。吸血鬼の痛覚が、果たしてどのような機構になっているのかは定かではないが。
トロイアの右腕を貫いた鉄の杭は、無常にも十字架へと到達し彼に苦痛をもたらし続けている。トロイアの腕は再生することなく、杭に穿たれた場所からは赤い液体が滲み出ていた。
「束縛せし十字架は十分に働いているようだな。血が消滅することなく流れ出ているのがその証。これを使うのは例のとき以来だったか、その影響もないらしいな」
「当主様、これをどう致しましょうか」
黒服の中の一人が尋ねた。
「ああ、一つ聞きたいことがあった」
鬼頭総司は乾いた足音を地下牢に響かせながら、トロイアの磔られている十字架へと近づいていく。トロイアは依然として苦しみに身を震わせ、地獄の仕打ちにただ耐え続けていた。そんなとき、彼の黒髪がはだけ、冴えを失った瞳の片方が私の姿を映した。
「お前のような輩がなぜ、この鬼頭の縄張りとする白樺の地に存在していられたのかが甚だ疑問なのだ。貴様、その意味を知らないわけはあるまい。吸血鬼はこの地では、鬼頭の人間の許可がなくては血霧の祭壇に魂を喰らわれて存在を維持できぬ。それは今や人間同然の貴様とて変わらん。ということはだ……」
その冷淡な口調は、むしろこの人が吸血鬼なのではないかと思わせる。
「非常に嘆かわしいことだが、我々の中に不届き者がいるということになる」
途端、自らの胸の鼓動が早鐘を打ち始める。瞬きを忘れ、眼球が乾く。息ができなくなり、自分の意思を無視して体が震え始める。人は、罪を犯しそれを問われるときに、異常な心理状態に身を置くことになる。それはとても考えたくないことである。
血霧の祭壇――聞いたことがある。それも束縛せし十字架と同じく鬼頭家に伝わるもので、それらは”神器”と呼ばれているのだと。吸血鬼に対抗し得る力の象徴ともいうべき神聖な武具である。
「…………………………」
当主の言葉に、地下牢の僅かな気配や音が一斉に止む。この空間の支配者は今、確かに鬼頭家当主である鬼頭総司その人だった。彼の言葉には今、神のものと変わらない重さがある。
…………私、だ。
彼と通じていたのは私だ。彼の存在を知っていたのは私だ。それを知っていて口を閉じていたのは私だ。彼をここに留めていたのは私だ。私なのだ。知らなかったでは済まされない。
全身の細胞が酸素を求めて喚くが、息ができない。もし息をすれば、この心の内が全て吐き出されてしまうように思えた。そうなれば私は一体どうなってしまうのだろう。そんなことは、問うまでもない。父が身内だからといって、罪人に情けをかけるはずがない。私が辿るのは彼と同じ道だろう。
胸が苦しい。全身が苦しい。頭が異常に痛む。目に見える世界が暗くなっていく。どうしたらいいのだろう。私は一体どうしたらいいのだろう。心の揺れ動きを察せられないために精一杯の力を使っているが、それもそう持ちそうにない。トロイアの口から私の名前が出ればそれまで。このまま持ちこたえることに意味があるのだろうか。
怖い。罪を暴かれるのが恐ろしい。
しかしそれ以上に苦しい。このまま平静を保ち続けられる自信がない。何もかも吐き出して楽になりたい。食事を口にしていたら、既に胃袋の中身をぶちまけているだろう。人は嘘をつき続けることはできないのだ。
「……当主様、それは確かなのでしょうか。私どもはそのような、化け物共を匿うようなことは……決して致しておりません。血霧の祭壇が正常に働いているか調べたほうがいいやもしれません。あれには久しく……」
黒服の一人が言いかけたその時。
「おい貴様」
空気の裂けるような音がし、壁に金属の何かが当たる音がした。それは黒服の顔のあったすぐ横を通り過ぎていった十字架だった。状態を崩され、床に倒れこむ。
「その軽々しい口をふさげ。そこの化け物と同じ末路を辿りたいか」
「…………はっっ、し、失礼致しましたっ」
その一連の出来事の真意は定かではなかったが、朱音には多少の精神の猶予となった。恐る恐る口元を押さえながら息を吸い、体をなだめる。
「ではさしあたり、そこの化け物にでも聞いてみるか」
総司は横でほうけている黒服の手から鉄杭とハンマーを奪い取り、トロイアのもう片方の腕へと打ち付けた。
「ぐがあああああああああああああああああああああぁぁぁっっ、ぐああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぉぁぁぁぁっっっっ」
「お前に許可を出した愚か者はどいつだ。言えば貴様が冥土へ向かうのに受ける苦痛を軽くしてやろう。さあ……誰だ」
「はああぁぁ……、はぁはぁ…………」
これ以上見ていられなかった。吸血鬼であるせいで痛めつけられるトロイアの姿を。父は悪魔だ。平静にしていながらも、その瞳孔の開ききった興奮した表情は、悪魔そのものだった。どうしてこんなことが起こるのだろう。そんなことができるのだろう。彼が一体何をしたというのだ。
朱音は自分の名がそこから出るのを覚悟した。
しかし…………。
「…………はあぁ……、あぁ。……何を勘違いしているのか…………、わかり、ませんな……。私は、誰の、……施しも受けてはおりませぬ…………」
心の中の小さな悪魔が、ほくそ笑んだ。そんな自分がどうしようもなく嫌になる。どうして。どうしてどうしてなのでしょうか。こんな私を、こんな私なんかのために。
あなたは――。
「ぐがああぁぁぁっっっっっっっ、がああああぁぁぁぁぁぁっっっっっっっっっっっっっっっっっ………………、あああああああああああぁぁぁぁぁぁ、あああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっっっっ」
「自ら地獄を選ぶとは、殊勝なことだ。もういい。こちらも素直に吐くなどとは期待しておらん。……おい、ここはお前が請け負え。此奴の処刑は日の出と共に執行する。この場はひとまず解散とする」
「はっ」
当主は足早に去って行った。その場には何とも言い難い沈黙が残された。それを掻き消すのは亡者のごとき荒い息遣いだけだった。
大男が一人口を開く。
「ここは吾輩が引き受ける。あとは当主様の言った通りだ。その時間に集合とする。……お嬢様も部屋にお戻りください」
その声に我を取り戻した。全身に滝のように汗をかいていて気分が悪い。服が肌にまとわりついて非常に不快だ。呼吸が荒く、頭もまだ痛む。いつのまにか石の壁に背を預けていたようである。なんとか重い体を動かして牢の出口へと向かう。
出口を潜り抜ける時、ふと気になってトロイアの姿を振り返る。彼は私のことを見ていた。その力ない眼で私のことを見つめていた。私はその視線に後ろめたさを感じ、そこから逃げるように去るしかなかった。




