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6.理由

図書室を出て、近くの喫茶店に入る。


昼を少し過ぎた時間帯のせいか、店内は空いていた。


窓際の席に案内される。


俺はコーヒーを頼み、岸野は紅茶を注文した。


食事は――どちらも頼まなかった。


「金子さんは、何か食べないの?」


メニューを閉じながら、岸野が聞く。


「いえ……あまり、そういう気分じゃなくて」


正直に答える。


岸野は小さくうなずいた。


「私も」


それ以上は何も言わず、店員が去っていくのを待った。


少しの沈黙。


カップが運ばれてくる。


湯気が、ゆっくりと立ち上る。


それを見ていると、少しだけ現実に戻ってきた気がした。


「岸野さんは――どうしてこの会社に?」


ふと、口をついて出た。


自分でも少し意外だった。


岸野は一瞬だけ、きょとんとした表情を見せる。


それから、カップを両手で包み込むように持った。


視線は、紅茶の中へ落ちる。


「母がね……ガンだったの」


静かな声だった。


俺は何も言えず、そのまま聞く。


「中学生の頃」


少し間を置いて、続ける。


「病院で過ごす時間が長くてね。ずっと思ってたの」


カップの中で、琥珀色が揺れる。


「この病気を治せる薬を作りたいって」


言葉に迷いはなかった。


まっすぐだった。


「医者とか、看護師じゃなくて?」


思わず、そう聞いていた。


岸野は顔を上げる。


まっすぐに、こちらを見る。


「もし私が医者や看護師になったとして」


そこで言葉を切る。


「何人の人を救えると思う?」


問いかけ。


だが、俺は答えられない。


考えたこともなかった。


それを察したのか、岸野は続ける。


「直接関われる人だけでしょ」


穏やかに、言う。


「でもね」


少しだけ、声に力が入る。


「薬なら――何十万、何百万の人を救えるかもしれない」


言葉が、静かに響く。


「それは、今だけじゃなくて」


視線が、少し遠くを見る。


「これから先の人たちも。海外の人たちも」


そして、もう一度こちらを見る。


「そう思ったら、こっちだって思ったの」


その目は、揺れていなかった。


はっきりと、自分の中に答えがある人の目だった。


俺は、その視線を受け止めきれず、少しだけ目を逸らす。


壁を見る。


意味もなく。


「金子さんは?」


不意に、問い返される。


言葉に詰まる。


「……コネ入社ですよ」


それしか、言えなかった。


岸野は一瞬だけ驚いたような顔をしたが、すぐにやわらかく笑った。


「でも、立派な仕事じゃない」


その言葉が、少し刺さる。


「そう、ですかね」


曖昧に返す。


自分でも分かっている。


この仕事が、社会にとって必要なものだということくらいは。


でも――


「やりがい、あります?」


続けて聞かれて、言葉が止まる。


カップに手を伸ばす。


コーヒーを一口飲む。


苦い。


「……正直、あまり」


そう答えるしかなかった。


岸野は何も言わない。


ただ、静かに紅茶を飲んでいる。


その沈黙が、少しだけ重い。


だが、不思議と居心地が悪いわけではなかった。


ごまかさなくていいからかもしれない。


しばらくして、カップの中身が減っていく。


言葉も、同じように少なくなっていく。


会話が途切れる。


だが、それでいい気もした。


今日初めて会った相手だ。


無理に話す必要もない。


「……そろそろ、出ますか」


俺が言うと、岸野はほっとしたように笑った。


「そうね」


伝票を持って立ち上がる。


店の外に出ると、日差しはまだ明るかった。


「私、車で来てるの。駅まで送ろうか?」


岸野が言う。


少しだけ迷う。


だが――


「いえ、大丈夫です」


首を振る。


「ちょっと、歩きたいので」


そう言うと、岸野は納得したようにうなずいた。


「そっか」


短く言って、鍵を取り出す。


「じゃあ、また会社で」


「はい」


それだけのやり取り。


岸野は車に乗り込み、そのまま走り去っていった。


残されたのは、自分一人。


しばらくその場に立ってから、歩き出す。


さっきよりも、少しだけ足取りが重い気がした。


頭の中に残っているのは――


さっきの言葉。


「何百万の人を救える」


(……すごいな)


素直に、そう思う。


同時に――


(何もないな、俺は)


そうも思った。


何も持っていない。


何も考えていない。


ただ、流されてここまで来ただけだ。


足を止める。


前を見る。


道は続いている。


当たり前のように。


だが――


どこへ向かっているのかは、分からなかった。

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