5.コマドリ図書室
CT検査を終え、病院の外に出た。
いつの間にか、空は晴れていた。
あれだけ曇っていたはずなのに、青が広がっている。
まぶしい、と思った。
ただそれだけのことなのに、少し違和感があった。
病院の敷地内には、名前の通り緑が多い。
点滴をぶら下げたままの患者が、木陰のベンチでタバコをくゆらせている。
その煙が、ゆっくりと空へ溶けていく。
俺はしばらく、それを目で追っていた。
(これから、どうしよう)
ふと、そんなことを考える。
今日はもう、仕事に戻らなくていいと言われている。
だからといって、何をするかなんて思いつかない。
時間だけが、ぽっかりと空いている。
普段の休日だって、気づけば終わっているような過ごし方だ。
急にできた時間で、何かをしようなんて――思いつくはずもない。
将来のことも同じだ。
今まで、流れに任せてここまで来た。
やりたいことなんて、特になかった。
これからどうするのか。
考えようとしても、何も浮かばない。
ただ、ぼんやりと立ち尽くす。
やがて、足が勝手にバス停の方へ向く。
その途中で、ふと気づいた。
右手に、小さな建物がある。
病院の敷地内にあるにしては、ずいぶんと古びた木造の建物だった。
白い大きな病院とは、明らかに雰囲気が違う。
入口の横に、木の看板。
そこには――
『コマドリ図書室』
そう彫られていた。
図書室。
そのわりに、入口は自動ドアだ。
しかも、ガラスには手書きの紙が貼られている。
『ご自由にどうぞ』
丸みのある、やわらかい字だった。
なんとなく中を覗き込む。
その瞬間、自動ドアが開いた。
自分のせいで開いたのに、そのまま立ち去るのも妙な気がして――
そのまま中へ入る。
中は、思っていたよりもずっと静かだった。
入ってすぐ、小さな受付。
そこに座っていた女性が、顔を上げる。
軽く目で会釈をして、また本へ視線を戻した。
その隣には、パソコンが三台並んでいる。
『ネット検索の方は受付へお声掛け下さい』
さっきの紙と同じ字だ。
その前に、小さな男の子が座っていた。
画面にかじりつくようにして、マウスを動かしている。
小学校低学年くらいだろうか。
周りに大人の姿はない。
だが、受付の女性は特に気にしていない様子だった。
男の子の手元を見る。
細い。
白くて、筋張っている。
子どもの手というより――どこか不自然だった。
着ているのは、ブルーと白のストライプのパジャマ。
頭には、薄いニット帽。
そこから覗く髪は、やけに細く、色が薄い。
(……入院患者か)
そう思った瞬間だった。
男の子が、ふいにこちらを見た。
「おじさんもパソコン使うの?」
明るい声だった。
その表情も、年相応に無邪気だ。
だが、その頬は少しこけていて――アンバランスだった。
「いや……」
とっさに、それだけ返す。
それ以上、言葉が出てこない。
男の子は首をかしげたが、すぐにまた画面へ視線を戻した。
何事もなかったように、マウスを動かし続ける。
俺は、その場に少しだけ立ち尽くしてから、奥へと歩いた。
棚には、本が並んでいる。
小説もある。
だが、それよりも目につくのは――
病気に関する本だった。
入門書のようなものから、分厚い専門書まで。
さらに奥には、辞典が並んでいる。
もちろん、国語辞典ではない。
医学辞典だ。
その横に、小さなテーブル席。
窓際に置かれていて、ブラインドの隙間から光が差し込んでいる。
その席に、一人の女性が座っていた。
背中を丸め、本を抱え込むようにして読んでいる。
「あの……」
声をかける。
反応がない。
もう一度呼ぶと、ようやく顔を上げた。
「あ……金子さん」
岸野だった。
少し驚いたように目を瞬かせる。
「こんなところで、何してるんですか」
そう言いながら、向かいの席に腰を下ろす。
「論文を読んでいたの」
彼女は手元の本をくるりと回し、こちらに見せた。
英語の文章がびっしりと並んでいる。
内容は、まったく分からない。
「やっぱり、医学系の……」
「ええ。ここ、面白い資料が多いのよ」
彼女は楽しそうに言った。
本当に楽しそうだった。
“勉強”という言葉を、こんな表情で言う人間を、俺は知らない。
同じ会社にいても、まるで別の世界の人間だ。
ふと、思う。
この人は――
もし結果が悪くても、“どうするか”で悩まないのではないか。
悩むとしたら、“続けられるかどうか”。
そんな気がした。
俺とは、違う。
「金子さん、食事は?」
突然、声をかけられる。
少しだけ、思考が戻る。
「いえ、まだ……」
検査のために何も食べていない。
だが、腹が減っている感覚もなかった。
「時間があるなら、一緒にどうかしら?」
彼女は少しだけ照れたように笑う。
「ここ、喫茶店だと思って入ったの。でも、そのまま居ついちゃって」
言われてみれば、確かにそんな外観だった気もする。
「いいですよ」
そう答える。
食欲はなかったが――
ここに一人でいるよりは、ましだと思った。
席を立つ。
ふと、さっきの男の子の方を見る。
まだ、同じように画面を見つめていた。
その横顔は――
さっきよりも、少しだけ小さく見えた。




