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3.診察室の前で

岸野が診察室へ入ってから、どれくらい時間が経ったのか分からない。


時計を見る気にもなれず、ただぼんやりと床を見つめていた。


さっきまで、誰かと話していたはずなのに――


今はもう、その余韻だけが残っている。


「私も、そうかもしれないわね」


あの言葉が、頭の中で繰り返される。


(……あの人)


あんなふうに言えるものなのか。


自分のことかもしれないのに。


まるで他人事みたいに。


いや――


あれは、覚悟している人間の言い方だったのかもしれない。


俺とは、まるで違う。


俺はただ、“再検査”という言葉だけで、ここまで引きずられている。


症状もない。


痛みもない。


それなのに。


膝の上に置いた紙を、無意識に握りしめる。


くしゃり、と小さな音がした。


周囲の音がやけに遠く感じる。


名前を呼ばれて立ち上がる人。


椅子が動く音。


誰かの咳払い。


全部が現実感を持たないまま、ただ通り過ぎていく。


(もし、本当に――)


そこまで考えて、思考を止める。


先を考えたくない。


考えたところで、何かが変わるわけでもない。


それでも――


頭のどこかで、勝手に続きを描こうとしてしまう。


仕事のこと。


会社のこと。


このまま、どうなるのか。


そこまで考えて、ふと気づく。


(……何もないな)


やりたいこと。


続けたいこと。


守りたいもの。


思い浮かばない。


空っぽだ。


胸の奥が、ひどく冷える。


(こんな状態で――)


もし、本当に何かあったら。


俺は、どうするんだろう。


何を残せるんだろう。


答えは出ない。


出るはずもない。


ただ、嫌な想像だけが膨らんでいく。


「……は」


思わず、小さく息が漏れる。


自分で自分を追い詰めているのが分かる。


でも、止められない。


その時――


診察室の扉が開いた。


反射的に顔を上げる。


出てきたのは、岸野だった。


一瞬、目が合う。


だが彼女は、何も言わずに軽く会釈だけをして通り過ぎていった。


その表情は――


読めなかった。


安心しているのか。


それとも。


何も分からないまま、彼女の背中を見送る。


また、静けさが戻る。


さっきよりも、少しだけ重い静けさ。


(次は――)


誰かの名前が呼ばれる。


違う。


また別の誰か。


時間だけが、確実に進んでいく。


逃げ場はない。


順番は、必ず回ってくる。


膝の上の紙を見下ろす。


しわが増えている。


それを指でなぞる。


意味もなく、何度も。


(……来るな)


心のどこかで、そう思っている。


でも――


来る。


必ず。


その時は。


「金子さん、どうぞ」


名前を呼ばれた。


一瞬、体が動かない。


遅れて、理解が追いつく。


「あ……はい」


立ち上がる。


足が、少し重い。


看護師の後ろをついて歩く。


廊下の白さが、やけに目に刺さる。


ひとつ、深く息を吸う。


意味はない。


ただ、それでも何かしないといけない気がした。


案内された扉の前で、足が止まる。


「こちらです」


看護師がドアを軽く押す。


中から、白い光が漏れる。


俺は一瞬だけ目を閉じて――


そして、足を踏み入れた。

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