2.病院へ向かう日
あの『再検査が必要』との知らせをもらった一週間後。
会社が決めた検査の日に、俺は病院へ向かっている。
みどりの葉病院は私立の病院であるのに、都心に建つ敷地三十平米、ベッド数八百の大病院だ。
もちろん俺の勤める遠矢製薬の大のお得意先。
ただ、俺のいる関東東営業所は出る幕はなく、本社営業部の管轄だ。
先日行なわれた社員健診も、この病院で行なわれた。
その時は営業所の職員を何チームかに分け、それぞれ違う日に健診を行ってきた。
その時はチーム全員で社用車に乗り向かったが――今は一人、都営バスに乗り込んでいる。
久々のバスに揺られながら、何だか腰が落ち着かない。
俺は車窓の景色を眺めた。
花曇の空の中、まだ柔らかそうな若葉だけが生命力に溢れている。
数少ないバスの乗客も、外に見える人々も、どこか沈んで見えるのは――俺の心理が表れているせいなのかもしれない。
田岡課長には、会社側から再検査が必要との連絡が行っており、昨日は神妙な面持ちで「きっと大丈夫だ」とだけ言われた。
不健康自慢をしている人間とは思えない様子に、俺は余計に不安が増した。
平日のこの時間、いつもなら会社の軽自動車に乗り込んで病院回りをしている。
行き先は似たようなものなのに、心持ちはまるで違っている。
今日、俺が回る予定だった病院には戸上が行くことになった。
その指示を課長が出した時、戸上は「もちろん、喜んで」と言ったが――
俺が「よろしくお願いします」と挨拶すると、迷惑だと言わんばかりにフンと鼻を鳴らして自分の席に戻っていった。
相変わらずの態度の変わりように、俺は呆れる。
けれど、これだけあからさまだと、逆に滑稽で笑ってしまいそうになる。
「次は、みどりの葉病院。みどりの葉病院です。お降りの方は――」
バスのアナウンスに顔を上げ、ボタンを押した。
フロントガラスの向こう。
そこには、すくっと存在感を主張する白い建物が見えた。
再検査の必要な人間が集められた待合室。
そこには三十人近い社員がいた。
だが、俺の知っている顔はない。
黙って椅子に腰掛け、うつむく。
目線の先には、リノリウムの床。
蛍光灯の光を受けて、鈍く光っている。
病院特有の消毒液の匂いが、子供の頃の予防接種を思い出させ、不安が増した。
名前を呼ばれて診察室へと向かう人の足が、目の端に映る。
その繰り返し。
ただ、自分の番を待つだけの時間。
そのはずだった。
「あなた、病院慣れしてないでしょ?」
不意に、声をかけられた。
顔を上げる。
隣に座っている女性と目が合う。
彼女は、教師のような穏やかな微笑を浮かべていた。
「開発部の岸野です。あなたは?」
一瞬、言葉に詰まる。
「あ、関東東営業所の金子です」
俺は胸ポケットから名刺を取り出し、彼女に差し出した。
「あ」
小さく声を漏らすと、彼女は大振りなカバンを膝に乗せ、がさごそと中を探る。
そして、少し慌てた様子で名刺を取り出した。
「ごめんなさい、名刺交換とか慣れてなくて」
少し照れたように笑う。
その様子が、なんとなく意外だった。
「いや、こっちは営業なんで……癖みたいなもんです」
そう言いながら、彼女の名刺を受け取る。
そこには、本社の研究室の住所が記されていた。
年齢は俺より少し上くらい。
なのに、仕事はまるで違う。
製薬会社で新薬の開発――花形だ。
「金子さんは、患者としては病院来ないほうでしょ?」
「なんで分かるんですか?」
「ここにいる社員の中で、一番深刻そうな顔してたから」
思わず周囲を見回す。
本や雑誌を読んでいる者。
隣と話している者。
確かに、自分ほど張り詰めた様子の人間はいない気がする。
「からかってるわけじゃないのよ」
彼女は少しだけ表情を緩める。
「私もあなたと同じ。病院が苦手で……緊張してる」
その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。
「でもさすがに遠矢製薬ですね。同じ会社なのに知らない人ばかりだ」
話題を変えるように言う。
「営業でもそうなの?」
「ええ。自分は営業所勤務なんで……本社の人とはほとんど」
「そっか」
彼女は小さくうなずいた。
そして――
「私、抗がん剤の研究してるの」
その一言で、空気が変わった。
言葉が出ない。
そんな俺を見て、彼女はふっと息をつく。
「ガンの専門家はガンになるって、よく言われるのよ」
静かに言う。
「私も、そうかもしれないわね」
穏やかな声だった。
だが、その重さに、何も返せなかった。
その時――
「岸野さん、どうぞ」
看護師が名前を呼ぶ。
彼女は立ち上がり、俺に微笑みかけた。
「お互い、問題がなければいいわね」
そう言って、診察室へと向かっていく。
その背中を見送りながら――
俺は、何も言えなかった。




