その①
◆
時は流れて十年後。
世界を制御する人類の衰退を示すように世界各地に建設された原発から溢れ出した高濃度放射線が地球を蝕み大気に蔓延していた。
生きとし生けるものが七難八苦する世界に追い打ちをかけるように、世界を手中に収め、生者を知恵と経験を捕食して蹂躙しつづけるカナンなるものによって表舞台から姿を消した生者も減少の一途をたどっていた。
生きのびたい。
人類は原始的であり本能が訴えるそんな欲望にすがりつきいきを潜める。
新しい世界の覇者となったカナンなるもの、その新秩序のもと抵抗の意思を示す魔装少女、狩りつくされる人間や神。
そんな世界の片隅、かつて首都・東京と呼ばれ喧騒とともに栄華を誇った 姿など見る影もないうらぶれた市街地の一角に御堂が佇んでいた。
かつては観光名所になりそうな木造の優美な造形を誇っていただろう。
そんな御堂の地下には噎せ返る空気と静寂が蔓延した牢屋とおぼしき空間、生者たちの新たな運命の歯車がひっそりとそこからはじまろうとしていた。
その日は雲間からこぼれ陽もない曇天模様の大雨。
カナンなるものが精力的に活動を開始する日暮頃まで、大きな雨粒に打たれた妙齢の女性。
その肢体は黒色の布越しにしっとりと魅惑的な肌の色が浮かびあがり、見事なボディラインを強調するほどびっしょりと衣服が肌に張り付く。
「つまらない想い出などどうでも良いではないですか、どうです、プリプリの胸の谷間に刮目してもいいですよ、いえ、むしろ若き性をぶつけなさい。今ならぶつけたい放題ですよ」
口元に添えられたタバコ。
吸えもしない煙草の煙を一口吸い込んでゴホゴホと嘔吐きながら、イルカがバブルリングを吐くようにポンポンと澱んだ空気に煙の輪っかを作る。
「あれ? 秘技、吸えないタバコの煙輪っかでは満足できないのですか。うむむ、せっかく練習しましたのに。兄っちが愛する人間のマネをすればお心も潤うと思ったのですが。やはり私の美貌と肉体にムララーッ」
緩ませた唇から流れる欲情をそそる低音ボイス。
その妙齢の女性が兄っちと呼んだ相手。
巫女装束をまとった肉体にがっちりと固定された灰色の数珠。
そのせいだろうか、前かがみの姿は乞食のようにうずくまっているように見えた。
妙齢の女性は巫女装束のまとった与太丸を食い入るように見つめていた。
そして。
――緋影……帰っていいぞ。
「な、なんですとーっ。ふむふーむ、兄っちはドMな姿のドSです。世が世なら暴君になる素質充分です。わかりました、本題にうつります、この床に転がっているお魚バーガーの包装紙を見る限り、ずいぶんと昔の話みたいだけど……そのお話をまとめて察するに兄っちはシロという小娘に恋をしています。ラブです、セックスがしたい、子種をぶつけたいということです!」
――シロに恋?
「兄っち……鈍感すぎる」
妙齢の女性・緋影は少し呆れたのだろう、ふぅと小さく溜息をする。
「私という超絶お姉様系妹が性欲を持て余して近親相姦をしたいと公言していますのに、あえてこのような仕打ちをする非道な兄っちは鈍感怪獣・ドSゴンです、心の底から認定します」
オロオロと揺らめき、端整な顔がひきつり、形の良い唇をヒクつかせた緋影。
まさかと驚きの面持ちを浮かべた。
そしてガクリと弛緩させてその場に崩れ落ちると大きく口を開き、肺いっぱいに息を吸い込むと物凄い勢いで咆哮する。
「兄っち、その耳かっぽじってしっかり聞くのです! それは蜂蜜壷よりもあまーい恋! 甘美なる幻想の象徴……その名も恋。この胸の頂上まで駆け上がる心拍と熱い想いに欲情……個人的な見解でみれば私と兄っちのラブリー蜜月を邪魔するものなど豆腐の角に頭をぶつけて死ねばいい」
――緋影、オーバーすぎ……与太丸はこの狭い世界から出ようと思う。
その言葉に緋影は驚嘆した。
「あ、兄っち……銀髪の一族にわざと捕まって六百年も引きこもりしていたニートの先駆けである兄っちが外の世界に出るだなんて……し、思春期のさかりですか!? もう、ワ・イ・ル・ド」
緋影の御簾の役割をはたす黒前髪をから伺えた眉がひそめられると日の光が届かない地下牢の薄闇に溶け込みそうな息を吐いた。
「兄っち、世間知らずな兄っちにかわり、博学で聡明な私が提案します。今後、兄っちがとる最善の道は三つほどあります」
――? どんな道なの?
「はい、まずは一番のお勧めです。しっかり聞いてください。一つ目の道は私と結婚してガンガン子作りに励み幸せになる」
――却下……緋影よりお魚バーガーの方が好き。
「むむむっ、それなら二つ目の道もお勧めです。今すぐ私に襲いかかり、ああっ……だめぇーっ、初めてなのに……と悩ましい嬌声を聞きながら近親相姦して責任をとって結婚する」
――緋影……地下牢に蔓延する濃度の濃い毒気に脳みそやられたの?
「むふふ、私の柔肌を舐めるようにまとわりつく毒気は兄っちから溢れる力……ああっ、快感」
――この変態妹……三つ目の道はいらない。
「もうもう兄っちたら……妹を鬼畜用語満載言葉攻めでエクスタシーを感じさせるなんて、もう、濡れ濡れです。おでこをクリクリしたくなるほどの愛情の裏返し」
――緋影、全身雨で濡れ濡れ。
「な、なんとデリカシーのない言葉。その責任をとって私を娶ってください」
緋影は眉目秀麗で頭脳明晰なのだが大きな欠点がある。
それが見ての通り、極度のブラコン、すなわちブラザーコンプレックスなのだ。
全身を覆う濡れた黒衣をふりふりさせる、色欲にまみれた魔女を彷彿させる緋影の魅力的な瞳が、好意の色を秘めてジロジロと与太丸を見る。
――気持ち悪いその瞳、喰らってやろうか?
「もうもう、兄っちは古びた数珠に縛られて悶え喜ぶドMと思いきやドS。むふふ……兄っちたら、私は来訪しているのに来客が来るなんて人気者です、もう嫉妬して兄っちの知識(、、)を喰らってやりたい気分です。わざわざこのような辺境まで足を運んだのでもっとお話をしたかったのですが、うっかりさんの私が地下扉を開けたとき兄っちの高貴な香りが外の世界に漏れしてしまったようです。鼻が利く招かざる客人が来ましたわ」
唯一の出入り口付近からガタリッと音が響く。
同時に新鮮な空気が地下室に流れ込み、暗闇が陽炎のように揺れる。
飽くなき欲望を剥き出しにした野獣の眼。
恐ろしいほど貪欲で身勝手なその雰囲気。
与太丸にとって嫌いなものではない。
新鮮な空気に混じって無骨で傲岸不遜の死の香り。
――あれは?
与太丸はペロリと舌で唇を舐めると瞳が捉えた奇形な生命体が体液を撒き散らして降りてくる。
「引きこもりすぎて無知な兄っちに教えてあげます。無能な人間が生存競争に敗れ知識と経験を吸い取られて数を減らしたあとに地上の主となった奴らです。現在の地上の覇者であるカナンたちの出来損ない、カナンなるものです」
緋影の声に反応して与太丸は目を細めた。
とてもつまらなそうに見上げていた与太丸が行儀悪くおかしそうに口元からよだれをたらす。
――あの不細工な生き物、お魚バーガーより美味しい?
与太丸はお腹をさすりとても空腹であることを緋影に壮絶アピールした。
すなわち横取りするなよと警告したのだ。
「もう兄っちたら……独り占めなんて我が儘すぎます」
頭をかきつつ心中で大胆不敵な哄笑をあげる緋影。
恨めしげな視線を与太丸にぶつけるのであった。
――旅路前の腹ごなし、いただきまーす。