風の教え
「内装をどうするか、まだ決められなくて」
カウンター越しにそう話すと、マスターはコーヒーを淹れる手を止めて、こちらを見た。
その時は「そうか」と言っただけだったが、午後になると「本日休業」の札を出してきて、店を閉めてしまった。
マスターと連れ立って車屋の前に来ている。
事務所の外でタバコを吸っていた親父さんが、こちらに気づいて、珍しいものでも見るように、目を細めた。
「へえ。あんたが、こんなところに来るとは、珍しいこともあるもんだ」
「ええ。できれば、こんな小汚いところには、来たくはないのですがね」とマスターが返す。
「そりゃどうも。で、何の用だ」
憎まれ口の応酬をしている。
驚いていると、マスターが教えてくれた。
「君は知らなかったかもしれないが、この親父はうちの店の常連なんだよ。僕のコーヒーのファンらしい」
乱暴で、飾らない親父さんと、丁寧で、隙のないマスター。正反対の二人だが、意外に気が合うのかもしれない。
「これが君のキッチンカーか。頑張って直したようだね。上手な作業とは言えないが、誠実な仕事だと思うよ。いいことだね」
マスターは車を一周見て回ると、キッチンボックスのドアを開けて中へ入った。
天井を指先で叩いて回り、壁を掌で押し、床にしゃがみ込んで、隅を覗き込む。
「ここに立ってごらん」
言われて、中へ入った。
「キッチンカーはスペースが限られているから、収納をどうするかが問題になる。それから作業の導線を最初にちゃんと考えておくと良いよ」
つづけて「水は、どうするのかな」と聞かれる。
「まだ、考えてないです」と答えると、
「レイアウトの根本になるから、最初に考えておかないとね。給水と排水、二つのタンクが要る。
どちらも重いから、補充やメンテナンスが容易になるように考えておかないと後悔することになる。
僕が手伝えるのは、そのあたりの考え方を伝えることかな」
「あとはね、出来れば天井の高さは確保した方がいい。君は結構背が高いから、ちゃんと背筋を伸ばせるようにしておかないと、辛くなるよ」
マスターに教わりながら、必要な設備と、大まかなレイアウトを決めていく。
今は空のままのキッチンボックスが、頭の中でキッチンに生まれ変わっていく。そのイメージが急に現実味を帯びて感じられ、鼓動が高まった。
「さすがに的確だな。勉強になるよ」
ひととおりの打ち合わせが済んだタイミングで、親父さんが口をはさんだ。
自分でも疑問に思っていたので、マスターに質問してみた。
「マスターは、どうして、そんなに詳しいんですか。水回りの考え方とか、普通の店では関係なさそうなことも、随分と教えてもらいました」
マスターの代わりに、親父さんが答えた。口調には、少しからかうような響きが含まれている。
「そりゃあ当たり前だ。こいつも、若い頃にキッチンカーで商売してたんだよ」
マスターはそっぽを向いたままだ。
多分「余計なことを言うな」という顔をしているのだろうと思った。
「もう、二十年以上も前のことだよ」やがて、諦めたように話し始めた。
「味には、自信があったんだ。オフィス街で出店していたから常連さんもついて、安定して売り上げも立っていたし。
ビジネスの才能があるんじゃないかと、うぬぼれていたのかもしれないね。
調子にのって、法人化もして、従業員を雇って、車を増やした。その結果、あっさり会社を潰してしまったんだ。
従業員にも、取引先にも、お客さんにも沢山の人に迷惑をかけた。借金も残ってしまったしね」
「でも、ちゃんと売り上げは立っていたんでしょ。なんでダメになってしまったんですか」
重ねて聞くと、マスターは頷いてから、続けた。
「結局、勉強しなかったことが、原因なんだと思う。
商売のことは、何も判っていないのに、ちょっとした起業家みたいなつもりだったからね。
勢いだけで拡大した結果、資金が回らなくなったんだ。
だからね、この前、君に偉そうなことを言ったけど、本当はそんなことを言える立場じゃないんだよ」と自嘲気味に笑った。
「まあ、そのあとちゃんと立て直して、店も構えられるようになったわけだから」
親父さんが取りなすように言うと、マスターは、口元を緩めた。
「あなたに、そんな風に慰めされると、調子がくるうな」
車屋を出たのは、夕方だった。
風が強くなってきた。暮れかけの空を、雲が速い速度で流れていく。マスターと二人、並んで歩いた。
旅の輪郭が、以前より少しだけ鮮明になったような気がする。
風の中に、自分の立つ場所が、ようやく見え始めていた。




