風の分岐点
キッチンカーを車屋の敷地から出そうとして、派手にエンストした。
がくん、と車体が前につんのめる。
「大丈夫かよ」
煙草を吸いながら見ていた親父さんが、声をかけてきた。
「大丈夫です」
「大丈夫には見えないんだが」
親父さんは、敷地の端に置いてある白い軽をあごでしゃくった。
「代車用の軽のオートマだ。貸してやるから、そっちにしたらどうだ。免許取り立てで、その車は難しいだろう?」
首を振る。
「最初だからこそ、これで行きたいんです」
親父さんは、ふう、と鼻から息を抜いた。
「まあ、そうだけどよ」
少し黙ってから、ぶつぶつ言う。
「本当はついて行ってやりたいところだが、今日は珍しく客が来るからな。だいたいマスターも無責任だよな。勧めたんなら自分がついて行きゃいいのに」
「いつからそんな心配性になったんですか」
親父さんは顔をしかめた。
「俺は昔っから優しい、いい人だよ。いいから、とっとと行きな」
言いながら、しっしっと手を振る。
「行ってきます」
「ああ。調子に乗るなよ」
「はい」
クラッチを踏み、ひとつ息を吐く。
キーをひねると、古いエンジンが震えた。
今度は、少しだけ丁寧につなぐと、車体が揺れて、それでも前に出た。
初めて一人で走る公道は、教習の時とは違う緊張感がある。急に道が広く見えて、どこを走ればいいのか分からなくなる。
信号で止まるたびに、緊張で固まった肩をほぐしながら走った。
それでも、10分ほど走るうちに、少しずつ慣れてきた。
大丈夫じゃないか、という気がした。
「よし」誰に言うでもなく、口に出す。
「海を目指すぞ」
街を抜けると、道の両側に畑が広がった。
枯れ草が風に倒れては戻る。背の低いトタン屋根の倉庫が見える。空は高く、陽は薄い。
一時間ほど走ったころだった。
ゆるい坂を上がりきった先で、遠くに平らに光るものが見えてきた。
最初は空の色かと思った。
けれど、違った。
「海だ」声が出た。
もう一度、言った。
「海だ」
まだ遠くの方に見えているだけの海だが、それだけで胸が高鳴った。
反対車線を、黒い大きなバイクが走っていったことには、気づかなかった。
海を見ていたし、運転に必死でそれどころではなかったのだ。
キッチンカーが出発してから30分ほどしたころ、黒い大きなバイクが車屋の敷地に入ってきた。
親父さんは事務所の前で部品箱をいじっていたが、音を聞いて顔を上げた。
片手を挙げる。
「よう」
「おう」バイクの男も手を挙げて答えた。
「さっき出かけちまったよ」
親父さんが言うと、男はヘルメットを脱ぎながら苦笑した。
「まったく、親子そろってタイミングが悪いんだよな。
やっと免許が取れたから、海に行くってさ」
「そうか。世話になるな」
親父さんは肩をすくめた。
「春になって、あいつが出発する前に会わせてやろうと思ったんだが」
「いいさ。会えなかったということは、まだそのタイミングじゃないということだ。その時が来れば会えるさ」
「それに、あいつならさっき見かけたよ。茶色いキッチンカーだろ。もっとも、運転に必死みたいだったから、あいつは気づいていないと思うけどね」
「すれちがっただけで分かったのか。6年ぶりくらいだろ」
「ああ。そうだな」
親父さんは事務所のほうを振り返った。
「せっかく来たんだ。コーヒーでも飲んで行きなよ。最近、あいつがいろいろ持ち込むもんで、事務所がちょっとしたコーヒー屋みたいになってるからな。
俺が淹れてやるよ」
「お前が?」
「その顔はなんだ」
事務所の隅の棚から、親父さんはポットとドリッパーを出した。
湯を沸かし、豆を挽き、フィルターを湯で湿らせる。意外にも、迷いのない慣れた手つきだ。
男は黙って見ていた。
油と鉄の匂いの残る事務所に、コーヒーの香りが広がる。
コーヒーをカップに注いだあとで、少しだけ迷って、棚の奥の瓶を取った。
ブランデーをそっと落としてから、カップを差し出す。
「カフェ・ロワイヤルだ」
「おいおい、俺はバイクなんだぜ」
「キャップ一杯だ。気にするな」
男は受け取って、一口飲んだ。
「美味いな。コーヒー屋を開けるぞ」
「そうだろ」
親父さんは、にやりと笑った。




