風の生まれる朝
三月になると、空気が少し柔らかくなった。
朝の風はまだ冷たいが、陽ざしの端々に春の匂いが混じる。
路沿いの並木の枝先には、固い蕾がいくつもついている。
卒業式の日、式が終わると制服のまま喫茶店へ向かった。
ドアを開けると、マスターはいつものようにカウンターの奥で豆を挽いていた。
ハンドミルの回る音が、店内の静けさに溶けていく。
「卒業か」
「ええ。今まで、本当にありがとうございました」
マスターは手を止めてこちらを見た。
「出発するのかい?」
「明日にでも」
そう答えると、マスターは黙って頷いた。
しばらくして、コーヒー豆を挽く手を動かしながら、ぽつりと言う。
「お母さんには、ちゃんと話しておくんだよ」
「はい」
マスターは、再び頷いて、微笑んだ。
夕飯のあと、初めて、母にコーヒーを淹れた。
細く湯を落とすと、香ばしいコーヒーの香りが立ち上がる。
この数か月間、マスターに教わった淹れ方を元にして、自分でも工夫を重ねた。豆の焙煎の具合も、ペーパーフィルターに合うように調整した。
マスターの淹れる店のコーヒーとは違う、自分のコーヒーとして、形になってきたのではないかと思っている。
カップを差し出すと、母は一口飲んで、目を細めた。
「美味しい」
カップを両手で包み込むように持ち、ゆっくりと飲んだ。
飲み終わった後も、カップに残った熱の余韻を味わうように、しばらくの間、両手でカップを包んでいた。
夜になって、久しぶりにガレージへ入った。
薄暗い空間には、父が残していった工具や部品がそのまま置かれている。
埃の匂いと、古いオイルの匂いが混ざっている。
ガレージの隅には、父が使っていた工具箱がある。
蓋を開けると、あの日見つけた、GAULOISESと書かれた青いパッケージの煙草が入っている。
箱を手に取ると、甘いような苦いような、独特の匂いが漂った。
今は、ゴロワーズと読むことを知っている。
父は、なぜ出ていったのだろう。
GAULOISESのパッケージを見ながら、考えた。
家族を捨ててまで、何を求めていたのか。
何が楽しくて、そんなことをしたのか。
分からないままだ。
そして、自分も、母を置いて出ていこうとしている。
これでいいのか。
父と同じことをしているだけなのではないか。
そんな迷いが、ガレージの空気の中でゆっくりと膨らんだ。
翌朝、玄関で靴を履いていると、母がやってきた。
朝の光が廊下に伸びて、母の影を長くしていた。
「行くの?」
何と答えるべきか分からず、黙って頷いた。
母は、少しだけ笑った。
「気にしないで行っておいで」
意外な言葉だった。
顔を上げると、母は穏やかな目をしていた。
「男の子だからね。
いずれは出ていくことは分かっていたよ。それが思っていたよりも、少し早くなっただけだものね」
その言葉を聞いた瞬間、ふと、母は父が出ていった理由も分かっているのではないかと思った。
車屋に着くと、親父さんが外で煙草を吸っていた。
隣には、真っ白に塗装されたキッチンカーがある。
「…これ、どうしたんですか」
思わず聞くと、親父さんは煙を吐きながら言った。
「俺からの餞別だ。新しい出発には、白が似合うだろ。
自分の色を見つけたら、その時は自分で塗ればいい」
白い車体は、朝の光を反射して眩しかった。
事務所に置かせてもらっていた荷物を取りに入ると、マスターがドリッパーの前に立っていた。
こちらを見ても、何も言わずに、ただ、湯を細く落としている。
マスターが淹れたコーヒーを、三人で飲む。
事務所の窓から春の風が入り込み、カップから立ち上る湯気を揺らしている。
親父さんが、窓の外を見ながら言った。
「困ったら頼ってこい。必要な時に、必要な相手に頼ることが出来るというのも、大事なことだからな。それに、一人であっても、孤独である必要はないということだ」
荷物を積み終え、エンジンをかける。
親父さんが手を挙げ、マスターが軽く頷いた。マスターは、相変わらず黙っているが、その目が優しい。
キッチンカーはゆっくりと敷地を出た。
白い車体が朝の光を受けてきらめく。
風が吹いた。その風は、新しい匂いを運んできた。




