5話 宮殿の薔薇園
宮殿には薔薇園がある。初夏の今、それは見事に美しく咲き誇っていて毎日人々を楽しませている。
その薔薇園を今日はローグヴァルトが貸し切っていた。
婚約者と薔薇を楽しむため。そして、客人を一人招くため。
「パトリシア様!」
黒髪で長身の女性が現れると、アマリエは嬉しそうな声を上げて駆け寄った。結婚式ぶりの再会に、顔が緩む。黒髪の女性も、優しい目をアマリエに向けた。
「久しぶりね、私の子猫ちゃん」
パトリシア・ヴェルストラーテン。ローグヴァルトの姉であり、アマリエの恩人である彼女は、この春降嫁した元皇族である。
「ありがとうローグヴァルト。呼んでくれて嬉しいわ」
「……お久しぶりです、姉上」
ローグヴァルトは光の無い目でそう答えた。機嫌が悪い顔にアマリエは首を傾げた。
――さっきまで普通だったのに。
この姉弟は特に悪い仲でもなかったから、余計に不思議だった。
その疑問はパトリシアも同様だったようだ。
「なぁにその顔は。文句があるなら言いなさいな」
姉の命令にローグヴァルトは苦い顔をした。しばらくの沈黙の後、零すように口を開く。
「俺には、あんな風に駆け寄ってこない」
脈絡のない言葉にアマリエは首を傾げるが、聡いパトリシアは即座に理解して笑い声を上げた。
「やだ貴方、私に嫉妬してるの? 叶うはずがないでしょう、馬鹿ね」
「さて、色々聞いているけれど。まずは貴女ね。私の子猫ちゃん」
薔薇園の中の東屋に場所を映した彼女は、用意された紅茶を一口味わってからそう切り出した。
「課題、しっかりこなせたじゃない。良い子ねアマリエ」
貴族学院を卒業する時、パトリシアはアマリエに課題を出した。
「私がいなくなった後、一人で歩けるようになること」
パトリシアによって救われ、黒薔薇姫の威光に一年間守られて育ったアマリエは、次のステップとして自立を促された。
「よくやったと思うわ。令嬢二人に平手打ちなんて、聞いた時笑いが止まらなくなっちゃった。そのかわいい雄姿を見れなかったのがほんと残念」
「勇ましかったですよ。令嬢の胸倉をつかんで片手を振りあげる姿は威厳に満ち溢れていました。惚れなおしたぐらいです」
「で、殿下!」
立て続けに褒められて、アマリエは顔を赤くする。
「美しかった。本当に。女豹がいるかと思った」
「誇張しないでください!」
ローグヴァルトを咎める顔は複雑な表情をしていて、パトリシアは苦笑する。
「十分独り立ちできたと思うけれど。私の子猫は、まだ不満なの?」
「……まだ、私は殿下の婚約者だから歩けているだけです。ちゃんと、グリーヴァンス家のアマリエとして歩けるようにならないと、意味がない」
妥協を許さないアマリエにパトリシアもローグヴァルトもため息をついた。
「他人の力を借りることも大事だと思うのだけれど……あまり根詰めないで頂戴ね。私は十分合格だと思っているのだから」
「アマリエは、頑固すぎるんだ。本当に」
「あら、その頑固な女の子を骨抜きにしているのは、どこの誰?」
パトリシアの照準は、次の標的に映った。嫌な予感にローグヴァルトは背筋を震わせる。
「貴方、私がいなくなってから随分好き勝手しているようね。毎日の送り迎えに食堂で公開キス? どういうことなの」
「それ、は。あまりに、アマリエを軽視する声が多かったので」
「だからって人前でキスなんてやりすぎでしょう。噂される女の子の気持ち、考えたことがあって?」
パトリシアの説教にアマリエが大きく頷く。完全に形勢を覆されて、ローグヴァルトは額に汗を浮かべた。
――相変わらず、俺は姉上にはかなわない。
「貴方、サロンを一人で使えるようになったからって、一線を越えるようなことをしていないでしょうね」
「それは、さすがにしていませんよ」
――まだ。
最後の一言を、ローグヴァルトは飲み込んだ。何度も越えてしまおうかと思ったことは、秘密にしておく。
「そういう噂が立った時、ダメージを負うのは女の子のほうなんですからね」
止まらない姉の説教に、たまらずローグヴァルトは立ち上がった。
「……薔薇を、摘んできます」
碌な言い訳が出てこなくて、逃げるように彼は東屋から出ていく。その背中にパトリシアは叫んだ。
「私の子猫を泣かせたら承知しませんよ!」
彼は反応しない。ため息をついて、パトリシアはその背中を見送った。
「逃げたわね。全く」
「ありがとうございますパトリシア様」
ずっと言いたかった事を指摘してくれて、もやもやしていたアマリエの心は今や晴れ渡っていた。
「貴女も、だめな時はだめとしっかり拒絶しなきゃだめよ。性格的に難しいとは思うけれど」
「は、はい……がんばります」
小さくなったアマリエに、パトリシアは笑う。
「可愛い私の子猫ちゃん。愛されることに慣れたみたいでよかったわ」
「な、慣れた気は、しないです」
「あら、でもローグヴァルトに言い返してたじゃない。去年の貴女だったら、真っ赤になって俯くだけだったと思うわ」
パトリシアの言葉の通りだった。去年まで、アマリエは皇族に口答えするなんて考えもしなかった。
――だって、止めないと、殿下は止まらないんだもの。
人前でも、馬車の中でも。
「たくさん愛されてるのね」
全てを見透かされている気がして、アマリエは顔が熱くなる。大好きなパトリシアでも、馬車の中の秘め事を知られるのは恥ずかしい。
「わ、私、殿下を探してきます!」
いたたまれなくなって、アマリエは立ち上がった。パトリシアの答えを待たず、ローグヴァルトが去っていった方向に走っていく。
その背中を見送って、パトリシアは妖艶に笑った。
「ふふ。可愛い子」
ローグヴァルトはすぐに見つかった。薔薇の生垣からひょっこり出た黒髪を見つけて、アマリエは駆け寄る。
「殿下」
アマリエは声を掛けると、生垣の脇で佇んでいたローグヴァルトは心底驚いた顔をした。
「どうしたんだ。姉上は?」
「東屋にいらっしゃいます。迎えに、きました。遅いので」
「俺を? 姉上がいるのに?」
「そ、うですよ」
アマリエの答えに、彼は満面の笑みを浮かべる。
「そうか、俺を迎えにきたのか」
流れるように、彼はアマリエの腰に手を回した。引き寄せる。
近づいてくる顔を、アマリエの両手が止めた。
「だ、だめです」
「……何故?」
「人前ではもうしないって、決めたんです!」
「誰も見ていない」
「見てるかもしれないです!」
拒絶、拒絶。とアマリエは先ほどパトリシアに言われたことを思い出していた。
退く気配のない手に、ローグヴァルトは眉を潜める。
「だが、今日は今しかチャンスがないだろう? 貴女はどうせ、帰りも姉上にべったりで送らせてくれないのだから」
それは、確かにそうだった。嫁いでしまったパトリシアに会える機会はそう多くはない。最後の最後まで、一緒にいたい気持ちがあった。
「アマリエ。頼む」
静かにローグヴァルトはアマリエに迫る。
――もっと強引だったら、はっきり拒絶もできるのに。
「アマリエ」
手の平越しに、熱い吐息が伝わってくる。紅い瞳に捕らえられてアマリエはもう逃げられない。
「貴女が欲しい」
低い声が肌を撫でていく。この先、手をどけたらどうなるのか、体が勝手に思い出していく。
「……嫌か?」
――ずるい。ずるい。
優しく問われて、アマリエは感情が溢れるのを感じる。
――嫌なら、追いかけてきたりしてない。
そっと手をどけると、ローグヴァルトが嬉しそうに笑った。彼は軽く額に口づけてから、彼女の唇を奪う。
二人の体はだんだんと傾いだ。羞恥に逃げるアマリエを、ローグヴァルトはどこまでも追っていく。アマリエの体は生垣に飲み込まれていて。気づいたローグヴァルトは優しく微笑んだ。
「貴女は、宝石より花が似合うな」
頭上に薔薇を戴いたアマリエは可憐だった。赤毛が緑に映えて美しい。婚約者に対して溢れる愛情に、ローグヴァルトは目を細める。
「なのに、宝石だらけの世界に閉じ込めてしまう俺を、どうか許してくれ」
再び始まる口づけを、アマリエは拒絶しなかった。
6話は6月12日(金)21時投稿予定。訪れる波乱の予感。
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