4話 東屋
あの日を境に、貴族学院でのアマリエの立場は激変した。キス事件の噂は一気に広まり、全生徒が皇太子の溺愛っぷりを知った。
アマリエは「黒鷲の皇太子に溺愛されている人」 として学院中の注目を集めるようになった。
「もう、外を歩けません」
プライベートサロンで、アマリエは顔を真っ赤にしてそう漏らした。正面には頬杖をついたローグヴァルトが座っている。隣に座ることは、断固拒否した。
「みんな、あのキスの話をしてます。帰りの馬車でも、いかがわしいことをしてるだろって噂されてます」
「そんな妄想、するほうがいかがわしいだろう」
「そういう話じゃありません!」
アマリエは涙目で訴えた。
「全部殿下のせいです!」
「だが、あれからいじめはなくなっただろう」
勝ち誇ったように言い放つローグヴァルトに彼女は何も言い返せない。
実際、いじめはほとんどなくなっていた。たまに鋭い視線が飛んでくるが、それだけだ。持ち物を隠されることも、通り過ぎ様に椅子を蹴られることもなくなった。
「十分な効果だろう。余計な連中は黙った。貴女は俺の物だと見せつけられた。なんの問題がある?」
「大ありですっ!」
全く悪いと思っていないローグヴァルトにアマリエは叫んだ。けれどそんな叫びも、ローグヴァルトには愛しいものとして済まされた。
「いやらしい」
そんな言葉が投げかけられたのは、ローグヴァルトの待つ食堂に向かっていた時。
「あんな風に殿下に迫って、はしたない」
「あんなのが次期皇太子妃なんておぞましい」
――なにをしたって、気に食わない人はいるのね。
アマリエは視線を下げたまま、こちらを睨み付ける二人の令嬢の前を通り過ぎる。
「皇太子殿下も、趣味が悪い」
アマリエの足が止まった。
「城に住まわれていると、少し好みが特殊になるのではない?」
赤毛を風になびかせて、アマリエが振り返った。一直線にくすくすと笑う令嬢達の元に歩み寄る。彼女たちが身構える前に、アマリエの平手打ちがさく裂した。
「何!?」
隣に立つ令嬢が叫んだ。間髪入れず、アマリエはその頬にも平手を打つ。
「な、なにするのよ!」
「訂正なさい」
騒ぐ令嬢に、アマリエは低く答えた。
ちょうど昼前なこともあり、多くの生徒がその騒ぎに足を止めて注目する。
「今のは皇太子殿下への侮辱です。訂正なさい」
「な、によあんた! いきなり」
「訂正なさいと言っています」
「お前に命令される筋合いはないのよ!」
叩かれた頬を抑えて令嬢が声を張り上げると、アマリエは裏打ちでその反対の頬を叩いた。
「何度言えばわかるのですか。訂正なさい」
「調子に乗らないでよ! 殿下の婚約者だからって」
令嬢が尚、声を上げると、アマリエはおもむろに彼女の襟首をつかんだ。
「貴女、お父様は城の警備部門の事務官ですよね。そこの貴女は騎士団に所属する家柄。昨年、お兄様が分隊長になったはずでしょう。国に仕える貴族が、殿下を侮辱するなんて許されるわけがない」
アマリエの緑の目には、温度がない。
「待て!」
振り上げられたアマリエの手を、一回り大きな手が掴んだ。
「いい。止めろ、アマリエ」
アマリエの背後に、息を切らせたローグヴァルトがいた。その紅い目を映した途端、緑の瞳に人らしい温度が戻っていく。
令嬢の襟首を掴む手から力が抜けた。殴られそうになっていた令嬢が、悲鳴を上げて逃げだす。
「殿、下。私」
「わかっている」
ローグヴァルトはアマリエの肩を抱き寄せ、周囲に聞こえるように声を上げる。
「好きに噂するのは結構。だが、皇族への侮辱となれば、家に罰が下るぞ」
そして彼は、婚約者を連れてその場を去った。
東屋に着くと、ローグヴァルトはアマリエを膝の上に乗せた。先ほどの啖呵はどこへいったのか、少女はしおらしく小さくなっている。
ローグヴァルトはアマリエの手を取る。小さな白い手は初めての暴力に少し赤らんでいた。
「手は痛むか? ああ、氷を取ってくるべきだったか」
「だい、じょうぶです」
――怒りを、抑えられなかった。人前で怒りを爆発させるなんて、みっともないことをしてしまった。
冷静になったアマリエを、後悔が襲う。少し痺れが残る手にローグヴァルトのキスを受けながら、彼女は考える。
――だって、あんな。頭がおかしい、みたいな言い方。不敬すぎて。放置なんてできない。
自分でも気づいたら手が出ていた。
「っく」
低く。引き攣るような声が聞こえた。
「ははは。すごいな、貴女は」
突然笑い出したローグヴァルトにアマリエは驚きで何も言えなくなる。
「想像以上だ。怒ると、自分から噛みつきにいくのか。あんなに大人しかったのに。俺も気をつけないといけないな」
彼の体は小刻みに揺れていた。中々止まらない笑いに、アマリエは次第に苛立ちが募っていく。
「笑わないでください。全部、殿下の行動が原因なんですから」
「ああ。おかげで良いものが見れた」
ひどく上機嫌に、ローグヴァルトはアマリエに触れる。
獰猛な紅い瞳にアマリエは捕らえられる。
「姉上の目も、俺の目も、正しかった。貴女は、やはり皇后になるべき女だ」
――どうしてそうなるの。あんな失態を犯したんだから、逆でしょう?
言葉にできない思いは、始まった口づけの嵐に吹き飛ばされた。いつものように、息もできないほど貪られる。
けれど今日は少し様子が違った。ずるずると、重力に絡め取られるように体が傾いていく。アマリエの背に回された腕からだんだんと力が抜けていき、アマリエの体は東屋のベンチに押し倒された。
赤毛の髪が無造作に広がる。
「っは。まずいな、さすがに」
自虐じみた笑いを零して、ローグヴァルトは体を起こす。酸素不足で朦朧としているアマリエは、口元を拭って離れていく指先を名残惜しく見送った。
「ここがサロンだったら、もうだめだったな」
――なに、が?
ローグヴァルトの言葉の意味が、彼女にはわからない。
けれど、彼の紅い瞳に普段より野性的な熱を感じて、アマリエは震えた。
5話は明日6月7日(日)21時投稿予定。姉、ついに登場。
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