3話 食堂
「グリーヴァンスのだめな方、って知ってるか」
「なんだ、それ」
「殿下の婚約者のあだ名らしい。昔はそう言われてたって、姉上が言っていた」
「随分不名誉なあだ名だな」
「なんで殿下はそんなのと婚約したんだろな」
「うーん……まあ、グリーヴァンス侯爵家はでかい家だし。男爵の俺らが考えてもしょうがないだろ」
「でも、どんだけだめなのか、興味ないか。ちょっと見に行こうと思うんだが」
その時。ばん、と、彼らの後方の机が乱暴に叩かれた。教室で噂話に興じていた少年たちは反射的にそちらを見る。
そこにいたのは、鋭い目つきで二人を睨み付けるローグヴァルトだった。黒い前髪の間から、切れ味の鋭い紅い瞳が覗いている。獰猛な鷹が、翼を広げて威嚇していた。
その数秒が、彼らには随分長い時間に感じられた。彼はたっぷり二人に殺意を飛ばした後、何も言わずに教室から出て行った。残った少年たちは、震えながら語る。
「止めておけ。殺される」
「そう、だな。止めておく」
ひそひそと、悪口が聞こえる。
「今日も付きまとっているわ」
「厚かましい」
「いつになったら身を引くのかしら、あのだめな方は」
だめな方。それはまだ兄が在学していた時のアマリエのあだ名だ。
人前で話せない。社交ができない。友達がいない。そんなアマリエに付けられたあだ名は、皇女パトリシアに拾われ、行動を共にするようになって聞かなくなっていたが。
――まだ、そう呼ぶ人もいるのね。そうよね。私はだめだもの。
皇族用のバルコニーにお邪魔して、全方位からの視線を受けながら食事をするにももう慣れた。少しでもミスをすれば、好機とばかりに批判が飛ぶ。
けれど、元々教養の高いアマリエにとって、慣れてしまえばそこは安全な場所だった。少なくとも、物理的にアマリエにミスをさせようとする人はいない。
今日の食事にはデザートがついていた。林檎のタルト。旬を先取りしたそのデザートをアマリエは微笑みながら食べる。スイーツを食べている間は、周りの音も嫌な視線も、気にならなかった。
食べ終わったタイミングで、正面に座るローグヴァルトが聞いた。
「うまかったか?」
「? はい……美味し、かったです」
ローグヴァルトは甘いものを好まない。今日のデザートも最初から頼んでなかった。紅い瞳がじっとアマリエを見つめる。正確には、デザートを食べ終わったその口元を見ている。彼は無表情に近い顔をしていて、何を考えているかわからない。
なんだか、悪い予感がした。
「オースウェル令息。今日のデザート、まだ頼めるだろうか」
「? はい。殿下がお望みになるなら、お持ちできるかと」
護衛に就いている騎士団の青年がそう答えると、ローグヴァルトは立ち上がった。テーブルの横を移動する。
「お望みであれば、自分がお持ちします!」
青年が慌てる。アマリエも、同時に立ち上がった。
「私が」
持ってきます、と続くはずだった言葉は、ローグヴァルトに唇ごと塞がれた。
突然唇を奪われて、アマリエは目を見開く。その間に顔と腰が捕まっていた。体を二箇所縫い付けられて、アマリエの体はもう自由がなくなる。
「~~~~!!!」
――こんな、ところで。みんな、見てるのに!
必死にアマリエは両手でローグヴァルトの胸を押すがびくともしない。
数秒がとてつもなく長く感じた。
食堂のざわめきは、ぴたりと止まっていた。先ほどまで聞こえていた「だめな方」という言葉も、嘲笑も、すべてが息を殺している。「だめな方」と囁いていた令嬢たちはもう口を開けない。
皇太子の溺愛は、見るも明らかだった。
「思ったほど、甘くはないな」
アマリエを解放したローグヴァルトの第一声はそれだった。
「オースウェル令息。持ってきてくれ」
ローグヴァルトの命令に、顔を真っ赤にして呆けていた護衛がはっと我を取り戻す。彼は慌てて厨房に走っていった。
拘束が解かれたアマリエは、椅子の上にへたり込む。必死に酸素を吸って、虚ろになった頭を動かそうとしていた。
――なにを。なにを、したの。この人は。
顔から火が出そうだった。食堂の静寂は、まだ続いていた。
――見てる。みんなが、見てる。見られていた。
全身に、好奇の視線が刺さっている。今すぐ人のいないところに逃げ込みたくて、体が震えた。
――馬車の中は、誰にも見られない場所だったから許してたのに。こんな、こんな場所でしてくるなんて。
改めて、アマリエは最初の一歩を許してしまったことを後悔した。どんどん、境界線がおざなりになっていくのを感じる。
「大胆……」
「殿下って、あんな方だったのね」
「お相手の方、澄ました方だと思ってたけど」
少しずつ、ざわめきが戻ってくる。話題はただ一つだった。自分の痴態が語られるのは耐え難くてアマリエは退席しようと腰を浮かす。
けれど、自分の席に戻っていたローグヴァルトが留めを刺した。
「俺が食べ終わるまで、そこにいろ」
今すぐ逃げ出したいアマリエには、酷い罰だった。
――私、今日そんなに悪い事をした?
一口、また一口。彼が食べる度に視線が波打つ。さっき自分が食べたデザートを、今彼が食べている。唇を重ねて確かめた林檎の甘さは、参考になったのだろうか。
周囲の好奇の視線が、より激しくなったような気がした。
——逃げたい。でも、目が離せない。
ローグヴァルトの所作は、皇族たる気品に満ちている。それは威厳のような、色気のような、不思議な魅力を醸し出していて、アマリエは目を離せない。
――あの唇が、いつも私を食べている。
紅い唇が開かなくなるまで、アマリエは視線を外せなかった。
こちらは【婚約辞退された皇女は冠を掴む】のスピンオフ作品です。
元作品は子供たちのすれ違い純愛なので、こんなに甘くはないです
(あちらがプラトニックな分こちらで暴走しています)
【黒薔薇姫は捨て猫を拾う】は純粋な前篇作品です。
どちらもお読みいただけたら光栄です。
4話は明日6月6日(土)21時投稿予定。アマリエ、ついに牙を見せる。
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